第5話

 8月になっていた。夏は好きだ。今月はなんと柚香の水着撮影会がある。普段柚香は水着NGだ。それなのに今回は特別にするということなのだ。もう今回で、最後かもとも言っている。行かない理由が見当たらない。水着を決意したきっかけは、以前、生誕祭にも出てくれていた元相方が、一緒に水着で撮影会をしようと誘ったかららしい。それがなかったら、水着はなかったと思うと感謝せざるを得なかった。推しの水着は見たくないというファンも中にはいるが、僕は正直、見たかった。好きな人の特別な姿を見られるなんて、嬉しいことじゃないか。仕事は最近、きつく感じていたが、またやる気が入る。柚香のおかげで持ちこたえていると言ってもいい。柚香の存在が、生活する上で、無くてはならない存在になっている。暑いのは得意だが、今年は一段と暑かった。連日ニュースが真夏日を告げている。レッスンでは当たり前のように汗をかくが、通勤電車の中でも、汗だくだった。


 僕は身体を動かすことが、昔から好きだった。小さい頃から、かけっこでは1位だったし、大抵のスポーツは、何もやっても、人並み以上にできた。だからインストラクターになったと言える。でも、好きなことを仕事にしては駄目だと言う人もいる。年々、身体がきつくなっているのを感じて、僕はその通りかもしれないと、思い始めていた。柚香がいるから、続けていられている。


 撮影会当日、僕は朝から現場に向かうために電車に乗っていた。電車に揺られながら、うとうととしていた。都内までは、1時間半くらいかかる。今日はうまく撮れるだろうか。いっぱい褒めてあげなくちゃ。薄れゆく意識の中、そんなことを考えていた。そんなときだった。急に、右のこめかみ上の側頭部が痛んだ。血管が詰まったかのような痛みだった。気分が悪くなってきた。僕は耐えきれずに、ふらふらと途中下車をした。

 駅のホームに降り立つと、真っすぐ歩けなかった。右に引っ張られているように、傾いてしまう。歩きながらホームドアにもたれかかってしまうのを、何度も駅員に押し戻された。おそらく酔っ払いだと思われているのだろう。押し方がいかにも乱暴だ。僕はそのまま、階段をなんとか上り、トイレに向かった。便器に腰掛け、落ち着くのを待った。数分して少し落ち着いてきた気がして、立ち上がった。だがまだふらふらするし、手が痺れる気がする。でも柚香の撮影会になんとしてでも行きたかった。無理やりホームまで戻った。でもまだふらふらする。たまらずホームのベンチに腰掛けた。そのままうつむいて休んでいると、誰かに声をかけられた。ゆっくり顔を上げると、先程の駅員だった。

「お客さん、体調悪いの?」

「はい、ちょっと真っすぐ歩けなくて」

「なんだ、さっきは酔っ払いかと思って、押しちゃってごめんなさい」

「いえいえ、いいんれす」なんだか、ろれつが回らなくなってきた。

「無理そうなら、救急車呼ぶ?」

「いえ、それはちょっと待ってくらさい」

 僕は、まだ撮影会に行くことを諦められなかった。

「も、もうちょっと休みます」

「そうかい?」

 僕は、そのまままたうつむく。どうしても行きたい。這ってでも行きたい。もうちょっと休めば落ち着くはず。そう思いたかった。でも駄目だった。僕は不安になって、ふと携帯で、真っすぐ歩けないと検索した。すると一緒に手足のしびれ、ろれつが回らないとも出てくる。そういう症状があるときは要注意、脳梗塞などの疑いがあるらしい。脳梗塞という文字を見て僕は、血の気が引いた。僕は観念して、そのままずっと見守っていてくれた駅員に「すみません。調べたら脳梗塞の疑いがあるらしいので、やっぱり救急車呼んでください」と告げた。そして、今日現場にいるはずの、知り合いの柚香のファンに電話をかけ、体調が悪くて救急車で運ばれることになってしまったので、今日いけないことを伝えた。その人が柚香にも伝えてくれるだろう。


 救急車が来るまで、駅員室で休ませてもらっていた。でもやはり良くならない。このまま死んだりしたらどうしよう。そんなことを考えながら待っていた。数分すると、駅員室に救急隊が来た。僕は車椅子に乗せられ、救急車に運ばれた。


 結果だけ言うと、幸いなことに僕は脳梗塞ではないようだった。でも色々検査した結果、原因不明とのことだった。安堵はしたものの、安心はできない。原因不明というのも、なんとも怖い。だが今は、脳梗塞ではなくてよかったと思うしかない。今後は、色々、気を付けて生活しよう。そう思って自分の気持ちを引き締めた。


 撮影会に行けなかったことは、以前、殺陣のイベントに行けなかったことより落ち込んだ。柚香の、撮影会ありがとうというつぶやきに、行けなくて、後悔しているとリプを送った。すると翌日、柚香から、返信があった。基本、イベントに行った人にしかしないのにだ。僕は驚いていた。


「私は、春人くんが生きていて良かった。心底安心した! 今は、ゆっくり休んでほしい! 後悔なんかすんな! 無理して一生会えないほうが辛い! リプライありがとう。少しでも元気になってもらえるように、パワーを送り続けるから! 早く良くなりますように……」


 何もいうことはなかった。僕なんかのために、柚香はこんなにも心配してくれる。くよくよしている場合じゃない。僕はそのとき、柚香を一生推そうと決めた。

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