第4話 掌と背

 放課後の教室で話した二人きりの時間。

 あの日の出来事以来、僕は天ヶ瀬宝が怖くなってしまった。


 気持ち悪い。

 気味が悪い。

 何を考えているのかわからない。


 あまりにこやかに人と話す人間でなかった僕を、こう思うクラスメイトは多かったことだろう。

 けれど、僕に普段向けられているであろう意識は、僕から天ヶ瀬宝に向いた。

 教室の真ん中にいつもいる、ずっと口角を上げている子ども。

 アレを僕は、人間として見ることができなかった。


 幸いにも、彼と同じクラスになることはそれ以来なかった。

 僕はそれなりに勉強をして、遊んで、笑って。

 なんとなくで日々を過ごしていたら冬も失せて、卒業の季節になった。

 

 花冷えの季節。

 新しい制服に着られながらも、入場した見慣れない体育館。

 ステージの上でマイクに向かって話す男子生徒は、見たことのある顔だった。


 結局、天ヶ瀬宝の名前は僕の生活から離れることはなかった。

 伸びていく背、成績表の数字、校内をさまよう噂話。

 いたるところから、自分と他人のものさしが生まれる。

 しかし、彼は数多くのものさしを向けられても常に高評価を得られていた。

 中学校で顔を見ることはなかったけれど、彼の名前だけは嫌でも耳に届いた。


 高校生になれば、おおよそ期待の持てない身長に諦めがついた。

 入学して少し経ってから、天ヶ瀬の名前を聞いた。

 でもそれはまったく別の天ヶ瀬で、気がつけば身体の力が抜けた。

 今思えば、この頃がいちばん良かったのかもしれない。


 大学では、初めてサークルというものに入ってみた。

 本の虫だった僕は文芸サークルに入って、作品を書いてもみた。

 このあたりから、すでに記憶は曖昧になっている。


 そして、社会人になって現在。

 医者にうつ病だと診断された帰り道、パニックを起こして過呼吸になった。


 子どものように泣きわめく僕は、大人になった天ヶ瀬宝に介抱されている。


「大丈夫だよ、大丈夫」


 背中に人の手が触れる。

 何年も感じていなかった人の体温に抵抗が生まれた。

 

「大丈夫だから」


 何がだよ。

 何がどう大丈夫なんだよ。


「落ち着いて。ゆっくり息を吐いて」


 僕は、素直に従った。

 ふーっと吐いて、肺の空気がなくなると、身体が自然と息を吸いはじめる。


「そうそう、上手だよ」


 呼吸が上手ってなんだよ。

 口には出ない悪態が頭から勝手に出てくる。

 他人に毒づけるくらいには、回復していたらしい。

 もう過呼吸は収まっていて、気分もいくらか落ち着いていた。


「まさか、こんなところで才に会えると思ってなかったよ!」


 今の今まで忘れていた男。

 顔を見るだけで、声を聞くだけで、頭の片隅から引っ張り出せる記憶。

 何を考えているのかわからない瞳が、こちらを見る。


「久しぶり! 才は今何をしているの?」


 彼の手から伝わった生温かい体温が、まだ僕の背中にこびりついている。

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