昔書いた短編集

【実はヤンデレな幼馴染が機会を伺い得たがすでに?】

 朧げな光が差し込んでいた。

 遠くを走る車の音、通勤ラッシュが遠く遠く。耳鳴りのように地鳴りのように耳が痛い。

 昨日、夜遅くまでゲームしていたから眠くてしょうがない。

 定期をかざしてホームへ入る。少し肌寒く囁きのような朝日。駅員さんの沈黙めいた頷きが、なぜだか僕は好きだった。

 自分では僕って呼ぶけど、外では俺って言っている。

 ポケットのスマートフォンを手に取る。ストラップについているのは昔流行っていたベーゴマのストラップ300円。クリスマス会の予算、プレゼントが一人300円だったから。

 まばらな人達がこの街の活気のなさを象徴しているようで、でもそれがなぜだかとても自然なもののように思えた。

 階段を上がり外の景色が流れる。歩行速度にそって一歩一歩。

 階段を下りる。

 降りる直前の手すりへと手をかけると、数人の中のある人物が僕の視界の中へと入ってきた。

 幼馴染の女の子。近くて遠い女の子。目が合うと気まずさを覚える。

 きっと向こうもそうだ。それなのに視界の端でも捕らえてしまってため息が漏れる。見たくないし意識したくないのに視界に入ると嬉しくて心が跳ねる。嬉しいなんてやめてくれと、傷つきたくないと感情を噛み殺すのに意識してしまっている。

 小学生低学年まではよく一緒に遊んでいた。

 けれど、高学年になると次第に離れていって、中学ではあまり口を利かなかった。おう、とか、あっ、とか、会話しない。向こうは同性の友達がいつも一緒だったし、からかわれたと言うのもある。一番は恥ずかしかったから。

 なぜ一緒にいるのをからかわれると恥ずかしかったのか今思うと謎だけど、そのせいでずっと気まずいまま。

 誤魔化すようにポケットからスマートフォンを取り出し画面を見る。ちらりと見た彼女もスマートフォンを眺めていた。

 小さい頃は男とか女とか些細な問題だったのに。

 どうして壊されなきゃならなかったのだと思いつつ、意気地がなかったからでしょと自分に釘が刺さる。

 高校は別、きっとこのまま別。

 今更声をかける勇気も理由もない。恥をかきたくないでしょと自分を納得させる。一歩だけ踏み込んでみようか。やめとけ傷付くだけだ。向こうはお前の事なんてなんとも思っちゃいないよ。そうだね。昔は友達だったよ。昔はね。今は他人だ。迷惑をかけるな。でも。やめろ。でもさ。やめてくれ。変な言い訳ばかりがグルグルグルグル。

 瞳の中の彼女。長い黒髪と垂れ目。口元の黒子。

 幼心の君がそのまま大きくなった姿で既視感を覚えた。面影が重なって心がささくれるような喉が渇くような、このまま遠くに行くのだろうかと。

 一緒に歩く姿を想像して振り払う。そういう想像は相手に迷惑だ。ゲームの事を考えようと彼女を見ると何も考えられない。

 声もでない――。

 駅のホームは同じでも行く方向はきっと真逆。

 視線がこちらへ向いて、目合うと彼女は少しだけ驚いていて、そしてゆっくりと笑みに変わった。思わず周りを見回してもう一度見ると彼女は笑っていた。

 握ったスマートフォン。

 彼女がスマートフォンを持ち上げる。その先には僕と交換した折鶴のストラップ300円が揺れていた。動揺しないでくれ。心臓が痛い。

 近づいて来た彼女は久しぶりと言った。

 手が伸びてきて、寝癖を撫でられて、襟首を正される。

「だらしないなぁ」



【鼓動が邪魔】

 最近気が付くと奴を見ている。

 今日も廊下で友人たちとふざけて笑っている。手を通すと柔らかそうなふわふわの髪、小奇麗に歪む口の端。ちょっとだけ引いた笑い方。

「男子ってホント馬鹿よねっ」

「うん」

 でも本当に馬鹿なのは私の方だ。

 あぁもうどうしたいのと自問自答する。話しかけたいのに話しかけられない。口が上手に動かない。傍に行くだけで鼓動が高まり普通にできない。言葉がでない。近づきたいのに体が離れようとする。それなのに気になって何時も姿を探してしまう。他の女の子と仲良さそうにしていると喉を爪で引っかかれているかのように乾く。その子の事が好きなのと、付き合っているのと妄想ばかりで嫌になる。

 壊れてしまいそうで、

 もっと近づきたいのに。

 廊下の距離、およそ3m。 

 これ以上近づけない。



【積み重ねしこと】

 付き合って4年の彼女がいる。

 お互い働いているので会うのはほぼ夜なのだが、今日はお互い休みという事で俺が借りているアパートの一室で、久しぶりに彼女と午後を過ごしていた。

 机に座って頬杖を付き、なんとはなしに彼女を見ていた。

 付き合いはじめの頃は妙にそわそわしたり、心臓が爆発しそうなくらい焦ったりもしたけれど、ここ最近はそんなこともなく、いれてくれたコーヒーの湯気と香が流れていくようにゆったりしていた。

 床に正座し洗濯物をたたむ後ろ姿。

 茶色く染めた髪、昔より落ち着いた化粧、清潔な匂い。

 洗濯物をたたむ細かな指の動き、プレゼントした耳飾り。

 細かった体は女性らしく丸みを帯び始めそれを前よりも魅力的に感じていた。手を握ると震えていた彼女を今も良く覚えている。

 せっかくの休日なのに何処かに出かければ良かったと少しばかり後悔していた。

「なぁ?」

「んー?」

「結婚、しようか?」

 彼女は洗濯物をたたむ手を止めて正座を崩さずに手を床へ付き足を動かすと、こちらへと振り向いた。

 少し驚いた顔、開いた目、ゆっくりとゆっくりと表情が変わっていく。手を差し出してきて、俺の手を正面から繋がるように握った。

「うん」



【人魚姫】

 騒がしい喧噪の中、潮流を眺めていた。

 張り裂ける22人の波。この目の中にあなたがいる。

 寄せては引いて、引いては寄せて。

 校舎裏の夕日、頑張っているあなたの姿を知っている。一人、影で泣き崩れるあなたを知っている。

 今年が最後の年。

 がんばれ、がんばれ、がんばれ。

 でも私の声は小さすぎて。

 きっとあなたには届かない。



【成就するなら藁でも掴むし古のまじないだってする】

 休み時間に消しゴムを拾った。

 誰の消しゴムだとあたりを見回す。ところどころにできたグループ。草原のようなざわめき、談笑、眠い目、まるで寝てくれって言っているような温度の波。

 これで寝るなって方が無理だろ。

 なんとはなしに消しゴムのカバーを外していた。

 吉岡、と漢字で書いてある。

 あーこれ吉岡のか。吉岡は黒板近くで男女に囲まれて笑っている男子だ。

 1、消しゴム落ちていたぞと言って渡す。

 2、吉岡の机に置いておく。

 2だな。あの連中の中に入って空気読めよ感だされると心が痛むから嫌だ。

「あっ‼」

 隣の女子が俺の手の中の消しゴムに声を荒げた。

 無理やり消しゴムを奪い取ると俺をにらみつける。消しゴムのカバーをゆっくりと元に戻していた。

 ちなみにこいつの名前は柊。名前に似ているのか似てないのか、ショートでガサツで乙女心の欠片もない俺を良く蹴る女だ。

「見たやら?」

「何をだよ。拾ったんだよ」

「そっそう……」

「お前のだったのか?」

「え? いや!? ちがっ」

「お前ら、授業始めるぞ、席につけ」

 授業がはじまる。

 袖を引かれる。なんだよ。先生か。寝ていません。起きています。微睡んでいるだけです先生。袖の引かれた方をぼんやりと見ると、隣の席の柊が俺の袖を引いていた。

 なんだよーと意思表示を向ける。

「勘違いするなや」

 何をだよ。

 なぜか消しゴムを机の端に置いてきた。

 まさか俺が消しゴムを忘れたと誤解しているのか。俺は黙って筆入れから消しゴムを出して見せる。消しゴムを返そうとするとなぜだか柊の顔が歪む。牙を剥きだすとはこう言う事を言うのだろうか。消しゴムのカバーを外して俺に渡してくる。

「これがあたしの消しゴムやら」

 小声で言ってくる。そんなのは見ればわかるよ。一体何が言いたいのだコイツは。

 消しゴムには俺の苗字が書いてあった。意味がわからん……。

 俺が首を捻ると、椅子を思いっきり蹴られた。

「そこ‼ なにやってんだ‼」

 俺のせいじゃねーよ。

 柊を見ると消しゴムを頭に投げつけられた。

 なんなんだコイツ。



【プラネタリウム】

 なんで私こんなん気になっているのやら。

 不愛想やし、すぐ寝るし、空気読まんし……。

 でも大木のようにどっしりしとるところが、なっなに言うてんのやあたしは。

 消しゴムのまじないが台無し。今も寝とるし、なんかイライラしてきた。

 今日文化祭やで。なんでこいつ寝とるん。ばかなん。ねぇばかなん。おい。

「いって‼ なっなんだ⁉」

 クラスの出し物はプラネタリウム。カーテンの暗幕には簡易な星と人々の影が映っていた。それなのにこいつは暗幕の裏に隠れて寝とるんよ。

「お前馬鹿、柊お馬鹿‼ ぼこすかぼこすか蹴るんじゃねーよ‼ ほんとお馬鹿‼」

「馬鹿はお前や」

 ったくせっかくの文化祭やのに、さそえーや。せっかく暇なプラネタリウムにしたんに一緒に回る時間が減ってく。吉岡君達みんなもう遊びに行ったんよ。なんで誘わんの。

 どうなってるん。コイツの頭の中は。一回見てみたいわ。

「他んみんな、遊びに行ったんに」

「だから蹴るなよ。ナチュラルに蹴るなっつっーの。俺はサッカーボールかなんかなのかよ」

 ゆっくりと立ち上がると、私より少し高い背で見下ろされる。

 ちょっと待て。髪を直し埃を払う。よし。はいどうぞ。

「で? 何のようだよ?」

「蹴るで?」

 誘えや。なんで誘わんの。かわええやろ。あたしかわええやろ。今日は特別かわええやろ。文化祭一緒にまわる言え。

「もう蹴ってるよ馬鹿っお前お馬鹿、なんでそんな蹴りたがるの? もうほんとお馬鹿、いっておまっ」

「っ」

 なんか、私、抱きしめられとる。両手でぎゅってされとる。

「地味に痛いんだよ。すぐ暴力振るいやがってこの野郎。大人しくしとけ‼ 蹴らないって約束しろ‼ じゃねーと離さないからな‼」

「蹴る」

「は?」

「蹴る」

「はぁ⁉ いや、お前さ」

「蹴るからもうちっとこうしとけ。ぼけっ」

 もうちっとぎゅっとしとけボケ。



【レイトショー】

 入社してから半年が経過していた。

 正直言って、辛い。肉体的なのもあるし、精神的なのもある。うまくやろうと頑張っているのにミスをしてしまう自分に嫌気も指す。

「ばかやろ‼ こんな事もわからないのか!? こんなの常識だろ!?」

 どうしてこんな些細な事で怒られなければならないのか。

 自分がやめてもいくらでも代わりはいるという振る舞いも心に重く影を落とす。

 入社して一番最初に教わったのは電話の応対だった。

「もしもしは使うなって言ってるだろ!?」

「すみません」

「学生気分でいるんじゃねーよ、きびきび動け。金もらってるんだから」

「すみません」

「すみませんって言えば、なんとかなると思ってるのか!?」

「いえ、そんな、すみません」

「整理整頓ができない奴は、どんな仕事もできやしない‼」

 正当性が肩に重くのしかかってくる。もうやめてしまおうか。ブラックだと言って、次々に辞めていく同期。休日でも仕事が気になって心が休めない。

 叱られるために仕事に行っている。

 続くサービス残業。

 みんな要領よくやっているのに、俺は何時まで経ってもサービス残業から抜け出せなかった。

 今日も一人で残っている。言われた事を順にこなす。やらなければならない。責任、大人の責任として重くのしかかってきて逃れることができない。

 机の上に缶コーヒーが置かれた。

 見上げると、いつも俺を指導してくれる先輩が立っていた。少しぼさぼさの髪に、服の上からでもわかる曲線。

「先輩も、残業ですか?」

「まぁな」

 ぼさぼさの髪をまとめ、適当な化粧をなくすか直せば、先輩はもっと美人なのに。

「いつも遅くなっているが、これじゃデートもできんだろ」

 何気ない先輩との会話に、俺は何処か頬を緩めていた。

「生まれてこの方、女性とは縁がないですよ」

 高校を卒業して数年ふらふらしていたが、やっと就職する事できた。大学には行っていないので、経歴からすると肩身も狭い。

 安月給なのにしがみついているのは、将来に不安を感じているのかもしれない。体面もある。

「先輩は?」

「はったおすぞ」

 はったおすぞって少し笑ってしまった。

「先輩、残業終わったら映画、見に行きませんか?」

 初めて女性を何かに誘ったかもしれない。断られたら少し気まずい。冗談で茶化してもいいけれど、逃げたくもなかった。

「おっおう」

 どうせ断られる。断られない。驚いてしまった。その瞬間なぜだか一時疲れていることを忘れていた。

「いいんですか?」

 顔を上げると。

「れっれいとしょーには間に合うだろ」




【もうちょっとだけ】

 買い物袋を抱えて、玄関のドアを開けた。

 パートが終わり、鍵穴に鍵を指す瞬間――この瞬間をいつも待ち望んでいる。

 玄関に荷物を置いて、廊下から夕陽を眺める。目に優しい日の光も、左手のリングに反射する光も、雨の日のしとしととした音も、ここではなぜだか心地よかった。

 部屋へ入り玄関のドアを閉め鍵をかける。台所に買い物袋を置いて中身を冷蔵庫へ。賃貸マンションに住み始めてはや3年。やっと周りにも馴染みはじめ、戸惑いなくご近所に接することができるようになってきた。

 解放感。私だけの空間。私の空間。 

 ソファーに寄りかかると、ほっとした安心感からか私は眠りに落ちていた。

 温かい。心臓の音が聞こえる。

 トクントクンって。この匂い。覚えてる。この、匂い。

「ふふふっ」

 目を開けると、あの人が私を抱きしめていた。胸の中、ソファーに横になって頭を撫でてくる左手。柔らかくて、リングの感触がする。

「ごめん、起こした?」

 私は顔を胸に摺り寄せる。この瞬間が何よりも――。

「今日は、俺が作ろうか?」

「ううん。このまま、もうちょっとだけ」



【かまってほしくて】

 私には7年来の友達がいる。

「はぁ……」

 落ち込んだ様子で、いつも私の元へと帰ってくる。

「これこれこうだったんだけど、こう言ったら、なんか変な雰囲気になってさ。気まずい」

 彼女はいつもこうだ。

 私は彼女の話を話半分に聞いている。まともに聞いているときりが無いからだ。この七年で学んだこと。彼女と接するのに深く考えすぎてはいけない。

「どうせ今話している話題の途中で、急に別の話題に切り替えたんでしょ」

 私はそう言ってそっぽを向いた。

「そんな事してないよっ」

 座る私の頭に頭をのせて寄りかかってくる。わずかな胸の感触。ちっぱいだ。こいつちっぱいなんだ。背も小さいし、どちらかと言うとお姫様のようだ。 

「じゃあメール文章?」

「メール文章ってなに?」

 こいつのメール文章はかなり多くて長い。無視すると増える。私のスマホはこいつのショートメール文言であふれている。一日に50列は軽く超える。返事はしない。無視すると増えるが無視するのが一番いい。

 こいつは三人以上の輪に入るのが苦手だ。なぜなら自分が中心だと思い込んでいるから。二人なら相手が合わせて通るけど、三人以上だと反発が起きて孤立する。

 男子受けはいいけれど、女子受けは恐ろしいほど悪い。魔性の女ってコイツの事を言うのだろうなと私は思う。男子との距離が近い。彼女にとって女子も男子も関係無いからだ。

 何度も注意はしているけれど直っていない。

「聞いてる~?」

「聞いてる」

 まったりと持たれかかってくる。顔はいいのに。顔は。

「いいんだけどねー」

「そう」

「冷たい」

「冷たくない」

「今日、泊まりに行っていい?」

「嫌って言ったら?」

「絶対行く。お風呂も一緒に入る」

「嫌って言ったら?」

「絶対入るし一緒に寝る。くっついて寝る。絶対くっついて寝る」

「嫌」

「絶対くっついて寝る‼」

 私も人の事は言えないけれど、きっと私もひねくれている。

 最後に私の傍にいればそれでいい。

「絶対一緒に寝る‼ お風呂も一緒に入る‼ 手も繋ぐ‼」



【虚構の妹】

 兄妹はそんなに仲良くなれないと言うけれど、うちはそんな事ない。

 兄は少し抜けているけれど。

 最近兄がバイトを始めたので、帰ってきたらバイトに行く兄を見送りすぐに洗濯と夕ご飯の支度をする。うちは母子家庭なので、家事は私がしなきゃね。私がっもっと小さい頃は、兄がこれをすべて一人でこなしていた。

「よしっ」

 学校にいるのも好きだけど、家にいるのも好き。

 留守電を確認すると、ママは今日も遅くなるって。ママ、大丈夫かな。最近いつも遅い。納期が、納期がと、寝言でも呟いているけれど一体何の仕事をしているのだろう。

 洗濯籠には溜まった洗濯物、兄のシャツ。

「すんすん」

 兄の匂いがする。洗濯機のスイッチを押したら、

「ふふっくさい。昨日も頑張ったのね、お兄ちゃん」

 学校帰りに買ってきた食材で今日はカレーを作る。

 ルーは甘口と辛口。お餅を刻んで入れ、インスタントコーヒーの元を少量加えるのがうちのスタンス。野菜は全てミキサーで細かくする。

 ルーを入れる前にじっくり煮込んで、その間に洗濯物を室内に干す。干したら簡易の棒付き布巾でフローリングを掃除。お風呂も浴槽を洗って。

 煮込み終わったらルーを入れて弱火でコトコト。

 居間で兄の帰りを待ちながら宿題と明日の予習復習をする。

 お兄ちゃん。早く帰ってこないかな。膝の上には買ってもらったコート。こんな高いの、いいのに。友達からのショートメール。みんな好きな人の話しばかりする。

 好きな人ができるのってどんな感じなのか興味がある。まだ好きな人がいない。

 お兄ちゃん、早く帰ってこないかな。カレー食べて美味しいって言ってほしい。

 今日もいい子いい子って頭撫でてもらいたい。料理上手だねって褒められたい。

 兄がいつもチョコレートを買って帰ってきてくれるのを楽しみにしている。

「あーん」

 って口に入れてくれるのを楽しみにしている。

 あっ。ごはん焚き忘れてた。



【些細なこと】

「んあーもうだめだぁ」

 玄関にたどり着く時にはもうへとへと。朝、仕事場に行く前と仕事が終わって家に帰る直前が一番だるい。

 玄関のカギを回して家に入るともうだめだ。

「ただ~いまぁ」

 玄関に倒れ込む。もう動けない。動かない。うーごーかーなーいー。

「うわっ、母さん」

 終電上がりだから今12時ぐらいだよ。息子よ。まだ起きていたのか、愚か者め。早く寝なさい。とは言っても無理か。夜更かししたいお年頃だものね。どうせゲームでもしていたのだろう。愚か者め。

「ふぁ~あ、どうしたの? お兄ちゃん」

「いや、悪い、起こしたか?」

「ううん。ママ?」

「ただ~いまぁ」

「ただいまじゃないでしょ母さん、まったく」

「連れてって、居間まで連れてって」

 息子に抱っこされるとは生きているかいがあるというもの。たくましくなったじゃないか我が息子よ。息子にお姫様だっこされるとは。おほー最高だな。

「母さん、軽くなったね」

「うふーふ」

 一日の疲れもぶっ飛ぶというものだ。

「今日はカレーだけど食べる?」

 おー我が娘よ。そなたが作ったのか。いただこう。太るかもしれないがまぁいただこう。だがその前に風呂だな。

「いただこう、だが先に風呂に入るぞ息子よ」

 頭を洗い体を洗い湯船につかる。ん。なんか、湯船が綺麗だな。娘は湯船に入ったが、息子は湯船に入っていないな。あの野郎。湯船に入らないと体が臭くなるぞあの野郎。この野郎、あの野郎。

 湯船から上がり真っ先に冷蔵庫へ。飲むはビールだってビールもいいだろう。だが私は野菜ジュースだね。断然野菜ジュース。タバコをやめてからコーヒーばっかり飲んでしまってダメね。

「ふふふっあははっあははははっ」

「母さん。またそんな恰好で」

「いやぁね、うふふふっ」

 野菜ジュースをきめてしまったのでテンション高いのだ。

「風邪引くよ母さん」

「ママ。胸隠して胸」

「あらあらごめんなさい。わたくしとしたことがはしたない。やーんはずかしい」

「早くご飯食べてくれ」

 この野郎。それにしてもでかくなったなこの野郎。もっとでかくなってもいいんだぞこの野郎。おー我が息子よ。

「母さん、離れてくれよ」

「いやだね」

 このスキンシップがたまらない。

 まったくたまらないわ。

「私もう寝るよ」

「おー我が娘よ。寝る前に抱きしめさせておくれ」

「いいけど」

「むっちゅっちゅ。まったく娘は最高だわ。それに引き換え息子ときたら」

「はいはい」

 まったく最高だわ。

「今日は私が作ったんだよ? カレー」

「おほーっう‼」

「……お兄ちゃん。今日一緒に寝てほしいんだけど」

「まぁいいけど」

「なんだと‼ じゃあ三人でねよーぜ」

 家族って最高だわ。



【虚構の妹2】

 きらきら舞うチョークの粉と少しだけ開かれた窓。風に揺れるカーテン。お昼を食べたあとのまどろみと先生の子守歌。

 眠い目を覚ますために私は机の中でスマホを開いた。

 先生にばれないようにそっとそっと。

 待ち受け画面には、変な顔で佇む兄と母の姿があった。

 むふー。

 こうして兄と母の顔を眺めると眠気が吹き飛ぶような気がした。

 放課後からあとはずっと楽しみだ。

 兄は今日バイトが休みだと行っていたから、きっと真っ直ぐに帰ってくる。一緒に買い物に行きたい。普段は重くて買えない物も買える。

 一緒に夕ご飯とか作るのかな。何作ろうかな。何買おうかな。チョコレートおねだりしちゃうんだ。

 携帯を閉じて黒板に描かれた文字列をノートに写す。

「ここ、先生の話を良く聞いておいてね、テストにだすわよ。いい? 30点問題よ」

 この先生は授業中にこういう事言うんだよね。だからしっかり起きていないと。

 私は……ブラコンなのかな。

 待ち受けが兄の画像はないって友人には言われるけど。

 私は兄に抱きしめて貰うのが好きだ。頭を撫でて貰うのが好きだ。ぎゅって抱きしめて包んでもらうのが好きだ。兄の腕の付け根を枕にして寝るのが好きだ。

 料理をする兄に後ろから抱き着くのが好きだ。そんな私を見て兄の目が優しげ微笑むのを見るのがたまらなく好きだ。

 ママだと別にいいやってなる。なんでだろ。

 ブラコンなのかな……。

 終わりのあと五分がなかなか過ぎなくてもどかしいわん。わんわん。



【何度目かの春】

 何度目の春だろう。

「また来たの?」

「あぁ」

 ため息が漏れる。

 頬がゆるむのはなぜだろう。

「お酒は持ってきてくれた?」

 持ってきた一升瓶は彼女の一番好きだったお酒だ。

「飲みすぎるなよ」

「だって好きなんだもん」

 沢山の花を買ってきた。沢山沢山。でも実は適当に選んでいるから花言葉とかそういうのは勘弁してほしい。

「相変わらずずぼらだなー」

「来るのが遅くなったね」

「ひどいなー。ほんと遅いよ。何時間待たせるんだよ」

「ゆっくり待っててよ」

「気長に待ってるよ。でも……」

「最近寝不足だったけど、仕事もやっとうまくいきはじめて、軌道にのったって言うのかな」

「仕事もいいけど、規則正しい生活をしないとだめだぞ。体が資本なんだから」

「これからはもっと来れるようになると思う」

「話聞いてる?」

 彼女はすぐ拗ねるんだ。きっと今も拗ねている。でも拗ねた表情は一層可愛い。ずっと拗ねてればいいさ。

「来年は来なくてもいいとは言ってくれるなよ」

「泣かないでよ」

「愛してるよ」

「そんなのわかってるよ……」

「大好きだよ」

「私もだよ……でも、でも」

「さよならとは言ってくれるなよ。君以外を好きにはならない」

 君の笑顔は一等可愛い。

「ごめんね。ごめんね。ダメなのに嬉しくて仕方なくて……」

 目を閉じると、春の風が温かくて心地よかった。

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