【短編】押入れには兄がいる【ホラー】

桜野うさ

第1話

 アニキが押入れに引き籠りはじめたのは二年前、おれが小学四年生の冬だった。二度と顔を見なくてすむからせいせいした。でも、おれは「イイ子」だからそんなこと母さんには絶対に言わない。

 ひとつ嫌なのは、その押入れがおれの部屋にあることだ。アニキの部屋をもらったからしょうがないけど。時々ふすま越しに視線を感じるのが鬱陶しかった。

――今みたいに。

「なに見てんだよ、気持ち悪い」

 ふすまを力いっぱい殴った。アニキはいつも通りもなんの反応も見せなかった。

 アニキにムカついた時、他のなにかにムカついた時、今とおんなじようにふすまを殴った。そのせいでふすまは所々へこんでいた。 

 家族の中でアニキだけが駄目なやつだった。母さんは優しいし、けっこう美人だ。ヘンクツな父さんに文句のひとつも言わなかった。二年前に父さんが事故で死んでからも、心配かけないようにいつも笑顔でいてくれた。

 父さんは有名な画家で、個展を何度もひらいていた。個展っていうのは、父さんの絵を美術館みたいに飾ることだ。美術館と違うのは、どの絵も売りものだってこと。

 個展が終わると父さんの絵は売れた。百万円くらいする絵もあったのに。父さんが稼いだお金がいっぱいあるから、母さんは働きに行かなくてすんだみたいだ。近所のおばさんが言っていた。

 引き篭る前のアニキは、美術の大学にもろくに通わずに遊び歩いていた。芸術家気どりの趣味の悪いハデな格好ばかりして、おんなじような服を着たやつらといつもつるんでいた。父さんに憧れてあんな格好をしていたんだろうけど、芸術家じゃなくて売れない芸人みたいだった。

 母さんたちに内緒でどこかに泊って、朝に帰って来ることも多かった。そういう日にすれ違うとお酒のにおいがした。お酒のにおいは嫌いだ。もっと嫌いなのは、本当の親じゃない母さんに心配ばかりかけているアニキだ。

 アニキは父さんの前の奥さんの子どもだった。前の奥さんは事故で死んだらしい。母さんは、アニキと俺を平等に扱っていた。

 おれは母さんの自慢の子どもでいるために、勉強を頑張るのはもちろん、誰を友達にするかも選んでいた。アニキよりずっと立派だった。なのにアニキは、時々嫌なものでも見るような目でおれを見た。

 ある日、その目をおれに向けてこう言ったんだ。

「お前は異常だ」

 あの時の怒りや嫌な気持ちが、記憶と一緒に蘇った。

 アニキは家族の足を引っぱっている。お金は無限にあるわけじゃない。おれはまだ働けないから、アニキが働いて家にお金をいれなくちゃいけないのに引き篭もったりして。こういうやつを「ゴクツブシ」と言うらしい。ネットで見た。

 あいつはおれの学校に来たときも足を引っぱった。二年前の冬のことだ。

 四時間目の休み時間、友達と次のテストの話でもり上がっていた。大半は、いかに勉強をしていないかについての自慢合戦だった。おれは毎日三時間は勉強をしていたけれど、「みんな」に合わせてまったくしていないふりをした。「みんな」からあぶれるのは「イイ子」じゃない。

「四年三組、河野優二(こうのゆうじ)。すぐに職員室まで来なさい」

 担任からの呼び出しの放送が響いたとたん、教室の雰囲気がガラリと変わった。「なにをやらかしたんだ?」と言わんばかりに、クラスメートはざわついた。心臓に嫌な汗をかいた。

 うちと違って受験がいらない小学校では、担任からの呼び出しはちょっとした自慢になるらしい。おれの学校では別だった。ほんの少しの「やらかし」が、容赦なく落ちこぼれのレッテルを貼りつける。落ちこぼれと思われたら最後だ。体育の時間や遠足でチームを作るときに入れてもらえないし、LINEの裏グループも教えてもらえない。

 なんでもない風を装って教室を出た。後ろでひそひそ声が聞こえたけど気にしないふりをした。

 職員室が近づくたびに不安が大きくなった。成績は落ちてない。教師に反発もしていない。喧嘩なんてもってのほかだ。どこに落ち度があった?

「失礼します」

 職員室の扉をひらくと、担任の隣によく知っている姿が立っていた。宇宙人みたいな銀髪、黒ぶちメガネに黒い中折れ帽、裸の女の人がプリントされたTシャツ。目がちかちかする紫のズボン。――アニキだ。

 いくつもの視線がおれを刺していた。職員室にいる教師はもちろん、職員室の前の廊下を通る生徒もこっちを見ていた。その視線は、この芸術家くずれとおれが関係者なことに驚き、憐み、あざ笑っているようだった。

「なんで学校に来たんだよ」

「優二……大事な話があるんだ」

 アニキは切羽詰まった様子だった。だけど勝手に学校に来られた方が気にかかった。

「スマホに連絡くれればよかっただろ!」

「緊急事態だから、お前を連れて帰ろうとして……」

 おれはアニキを力いっぱいつき飛ばした。

「二度とおれに顔を見せんな!」

 走って職員室をあとにした。

 全部終わりだ。あんなアニキがいるなんて知られたら「みんな」からあぶれてしまう。

 あとで知ったことだが、アニキはこの日、父さんが死んだことを伝えに来たらしい。その日からすぐ、アニキは引き籠った。


 小さい頃はアニキとの関係も悪くはなかった。幼稚園のときはアニキと一緒によく絵を描いていた。

 おれが使っていたのは四十八色入りのクレヨンだ。父さんは他の子よりも立派なクレヨンを買ってくれた。期待してくれていたんだ。でもおれには絵の才能がなかった。父さんがおれの絵を見て、がっかりした顔になったのを今でもよく覚えている。

 アニキは、アニキだけはいつもおれの絵をほめてくれた。

「優二はセンスがあるな。うまいぞ」

 アニキの手がわしゃわしゃとおれの頭をなでた。それだけで誇らしい気持ちになった。

「にーちゃんの方がうまいよ」

「年上なんだから当たり前だろ」

「もっとうまくなりたい。にーちゃんやとーさんみたいにすごい絵が描きたい。にーちゃん、おれに絵を教えてよ」

 アニキは照れ笑いを浮かべた。

「わかった。教えてやるから、同じものを描こうか」

「うん!」

 あの頃はいいアニキだった。血は半分しか繋がってないけど仲良くやっていたと思う。

「優二の好きなものを描こう。なにがいい」

「かあさんがいいな!」

「……優二は母さんが大好きなんだな」

 今にして思えば、あの時のアニキは少し変だった。引きつった顔をしていた気がする。

 その後、二人で母さんの絵を描いた。アニキが描いた母さんの絵を見て、嫌な気持ちになったのを思い出した。

「にーちゃん、それ、かあさんなの?」

「ああ」

「かーさんはそんな顔じゃないよ! そんな××××みたいな顔してない!」

「優二にとっちゃ優しい母さんだもんな」

 アニキがどんな絵を描いたのかはまったく思い出せなかった。どくんと、心臓が病気になったように強く跳ねた。今すぐその絵を思い出さないといけない気になった。

 アニキは描いた絵をすべて押入れにしまっていた。あの絵も、捨てていなければここにあるはずだ。

 夕日に照らされ、赤く染まるふすまにおれは手をかけた。

 とたんに吐き気が込み上げた。手が震え、体が芯から冷たくなって行く。ふすまをあけることを体が拒んでいた。

 どうしておれはこれまで押入れをあけなかったんだろう。ふすまをあけさえすれば全部思い出せるはずだ。目をかたくつぶって、震える手で押入れをひらいた。

 押入れのなかにあったのは、いくつものキャンバスだ。ゴミみたいに無造作に折り重なったキャンバスが、押入れのスペースをほとんど奪っていた。

 すべてのキャンバスは引き裂かれたり、ぐちゃぐちゃに塗り潰されていた。うらみでもぶつけられたみたいだ。

 キャンバスには、どれもひとりの女の人が描かれていた。全部同じ女の人に見えた。顔はすべて消されていたけれど、背格好が似ている。誰だろう。少なくとも母さんじゃない。

 キャンバスをひとつずつ取り出した。アニキはどこにいるんだ。

 アニキは背が高かった。うずくまっていても、キャンバスで埋め尽くされた押入れに入るわけがない。わかっていたのにアニキを探さずにはいられなかった。

 シャツの下で心臓があばれている。

――ゴロン。

 それを見つけるまでは数分もかからなかった。白くて丸いものがおれの足元に転がって来た。おれは両手でそれを拾い上げた。

 ぽっかりとあいた二つの暗い穴がおれを見ていた。嫌なものでも見るような目をしているかどうかはわからない。目なんかとっくになくなっているのだから。

 この頭蓋骨が誰のものか、すぐにわかってしまった。

 ある記憶が頭のなかに溶け出した。汚れた絵筆を水で溶かしたときみたいに。それはアニキの描いた、母さんの絵の記憶だった。

 ギッ、ギィッ。

 階段のきしむ音が部屋の外でひびいた。一階から誰かがおれの部屋に向かってやって来ている。母さんだ。この家にはもう、おれと母さんしかいないんだから。

「優二、ご飯よ。早く来なさい」

 足音が止まった。扉のひらく音がした。音につられるようにして、扉の方を向いた。

「ゆう……」

 母さんはおれが手に持っているものをじっと見つめていた。すぐに顔を上げて、いつもみたいな優しい笑顔を向けた。

「ご飯、冷めちゃうわよ」

「母さん、これ……」

 おれは、母さんが二度と視界に入れようとしないものを持ち上げた。

「なぁに?」

 普段通りのやわらかな母さんの口調に、それ以上何も言えなくなってしまった。

 母さんは笑ったままの顔を押入れに向け、そのあと悲しそうな顔をつくった。

「お兄ちゃん、いつになったら出てきてくれるのかしらね」

 どうしておれは今まで疑問に感じることが無かったんだろう。人間が押入れから一歩も出ず、二年も生きていられるわけがない。

「余計なことは忘れなさい」

 その言葉にデジャブを感じた。同じことを言われたんだ、二年前に。

「優二はイイ子だから全部忘れてくれるわよね。お兄ちゃんとは違うでしょう」

 母さんはおれの周りに散らばっているキャンバスに視線を落とすと、ゾッとするような冷たい表情になった。キャンバスを引き裂き、塗り潰したのが誰かを理解した。その時の母さんは、きっと今と同じ顔をしていたのだろう。

「お兄ちゃんは、前のお母さんのことを忘れてくなかったの。ワルイ子よね。お父さんに似たのよ。お父さんも忘れてくれなかったんですもの、前の奥さんのこと」

 表情はやがて憤怒の形になる。アニキの描いた、般若みたいな母さんと同じ顔だった。

 父さんが事故に遭った日、いつも家にいる母さんはたまたま外にいたそうだ。友達とご飯を食べていたなんて言っていたけど、母さんの友達なんて見たことがなかった。

 どうして忘れていたんだろう。アニキがおれに嫌なものでも見るような目を向けるとき、うしろに誰かがいたことを。おれはそれが誰かを知っていた。

「こんなに散らかして、しかたない子ね」

 母さんは作りものめいた優しい笑顔にもどっていた。おれの手から白くて丸いものを取り上げると、押入れにそっとしまった。散らばったキャンバスも全部元通りにした母さんは、音も立てずに押入れをしめた。

「お母さんはあなたがいれば他の誰もいらないわ。優二だってそうでしょう?」

 母さんの問いに、おれは二年前と同じ返事をした。

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