第十八章 山陰路
明日の出発を前に、九人乗りでゆったりした空間のワゴンタイプ車をレンタルした。
諸々の買い物があるというので、汐音と町田母娘は街へ買い出しに繰り出している。
午後一時に巨大モニター画面前で待ち合わせ。その後、昼食がてらの旅行前夜祭を催すことになっている。
昼メシなのにどうして前夜祭なのかとか、どうせ旅先でも宴会をするのに、別に前日の真昼間っから呑まなくてもいいではないかとか思うが、何も言わない。どっちにしろ私は運転があるので呑めないし。
明くる朝五時、携帯の目覚ましがマックスの音量で鳴り響きだした。鳴っているのは私のではなく、汐音の枕元に置かれている彼女の携帯。
私自身はあまり寝起きが良い方ではなく、三回目のアラームでようやくテレビを点けて脳を覚ます準備に入る。
汐音はと言えば、さらに目覚めるまでのルーティンが長くかかる。
アラームを五度まで自分で止めて半寝を繰り返すが、六度目でも起ききれなければ、ベッドの下に設置されたコンプレッサーが作動して、敷布団の中ほどが空気によって膨らまされる。すると汐音の腰あたりが持ち上げられ、並の人間には耐え難い不自然な体位となっていやでも目が覚める。
実はこのシステム、宿直の駅員が確実に起床するため実際に導入されている強制目覚ましベッドなのだ。
そんな特殊寝具がなぜうちにあるのかと言うと、自分の寝防癖に業を煮やした汐音が、交流会やイベントの謝礼でいただいたお金を貯めて買い込んだのである。
今朝は特別な日でもあり、一度のアラームで起きてくると思いきや、いつもと変わらずコンプレッサーに強制起床させられたらしい。
普段より二時間も早く起きるのは、アンドロイドにも人間にとってもやはりしんどい。
十分ほどして汐音が低血圧っぽい表情と足取りで
「おはよー まだ外暗いよ 信じられない 朝来るのかしら」
などとつぶやきながら冷蔵庫を覗いている。
取り出したのは無添加のトマトジュース。五百ミリリットル入りのペットボトル一本を毎朝飲み干すのが彼女のその日最初の日課。
私も彼女の影響で毎朝トマトジュースを飲み始めた。
無添加では喉を通らないから、塩や塩コショウやタバスコを目分量で入れ、スペシャルトマトジュースカクテルにして飲んでいる。
そんなに塩分を入れちゃだめだよ、と汐音には言われるが、身体に良くないものほど実は美味しいのである。個人の感想なのでよい子はマネしてはいけないが、悪いおとなは試してみてください。
たったの二泊三日なのに、汐音の旅荷は一トンもあろうかと思われる量。温泉の帰りにキャンプをするかもしないから、その分も考えての荷物なのだろう。八階の部屋と地下駐車場を三往復してやっと積み終わった。
町田さん母娘宅に行く前に、アクアとあしるをペットホテルに預けなければならない。
ホテルは九時オープンなので、家を八時五十分に出た。
ホテルに着くなり、あしるは美人ペットシッターにすり寄ってノドをゴロゴロ言わしている。前回お泊りをした時に篭絡したのだろうか。美人シッターも特に迷惑がってはいない。
先客の男性ネコからはあしるがあざとく思われているかもしれないが、彼たちにもいろいろと男同志の競争や事情があるのだろう、きっと。
アクアの方は、このホテルの経営者である四十代半ばの女性シッターに挨拶している。
媚を売ると言うより旧交を温めているといった感じだ。
飼い主に似て、若い娘よりも齢を重ねた、面白い会話のできそうな女性が好みのようである。
余裕を見て四泊五日のお泊り予定にしておく。
私たち家族が出ていく際にはふたりとも特に後追いなどせず、むしろ数日間の自由に期待を膨らませている様子で、一瞬こちらに顔を向けた程度でまたシッターさんたちの気を引こうと懸命だ。
町田家に到着したのは九時半頃。みのりちゃんが玄関前で私たちが来るのを待っている。車影を確認するなり慌ただしく家の中に入っていった。
車を玄関前に着け、先に汐音が降りて戸を開き『おはようございまーす』と声をかけた。
奥から『はーい ちょっと待ってえ』とみのりちゃんの声が聞えてくる。
しばらく待機しているとみのりちゃんが、これまた一・五トンはあろうかと思われる荷物をひきずりながら運んできた。
私と汐音も手伝って三人でケースやバッグを積み込んだ。余裕のスペースと思っていた九人乗りだが、すでにハッチバックは追加積載するゆとりが無くなりつつある。
あとは町田さんが玄関に降りてくれば発車できるのだが、これがなかなか出てこない。
「ごめんなさい。うちの母、すごくノンビリ屋で出かける準備にとても時間がかかるんです。ちょっと呼んできますね」
そう言ってみのりちゃんが中に入りかけたので
「いいよいいよ、ゆっくりで。どうせ急ぐ旅じゃないし、慌てさせて忘れ物なんかするといけないからね」
と、母親を急かせに行こうとするみのりちゃんを私は呼び止めた。
「そうよそうよ。それよりわたしたちは先に後ろに乗って待っていよう」
ということは、必然的に助手席には町田さんが座ることになる。
娘たちは私と町田さんが並んで座れるよう気を使ってくれているのだ。なんてできた娘たちであろう。
娘たちの気遣いに感動していると、町田さんが秋色の装いで戸口から姿を見せた。
東京で見たバブリーファッションのインパクトが強かっただけに、今日はことさらに上品さが引き立つ。
見とれている私に
「お待たせしちゃってごめんなさい。さあ出発しましょう!」
と、例の私の脳をとろけさせる微笑みを浮かべておっしゃった。
私は助手席のドアを開け、少し高い位置の席に町田さんが乗り込むのを手助けした。
彼女がシートに落ち着き、ドアを閉じてシートベルトの固定される音を確認した直後、みのりちゃんが
「ちょっとごめんなさい」
と言って降りて行った。
いちど町田さんが施錠した鍵を開けて家に入り、二~三分ほどして出てきた。
改めて玄関に鍵をかけた後、何度かガタガタとドアノブを押し戻し、開かないのを確認して再び後部座席に乗車。
どうやらガス栓や水回り、窓の施錠などを再確認してきたらしい。
みのりちゃんらしいと言えばみのりちゃんらしい性格と行動である。
「それではご一同、出発してもよろしいですか?」
「オーケーです!」
「お願いします」
「左右確認、出発進行、ご安全に!」
みなそれぞれ応答してくれたので、ギアを入れブレーキペダルからアクセルに足を移し、軽くペダルを踏み込む。
エンジン音が少し高まりいよいよ発進! が、動かない。
「ありゃ? 動かん。なんで?」
そう言いながらギアを入れ直したりアクセルをふかせてみるが、反応がない。
横に座っている町田さんが素早く操作パネルを見やって
「サイドブレーキがかかったままじゃないんですの?」
とアドバイスしてくれた。確認すると確かにサイドブレーキのランプが赤く点いたままになっている。
「あ、ほんとだ」
あわててサイドブレーキを解除するとレンタカーは静々と前進し始めた。
さすが冷静な町田さん。見るべきポイントが的確だ。
「ちょっと、大丈夫? 藤村さん」
汐音がちゃかして訊いてきたので
「ぜんぜん大丈夫! となりに優秀なナビゲーターがいるからね」
これから三日間、ずっと町田さんが私の隣りに座ってくれていると考えると、幸福感と安心感で自然に笑みが漏れてくる。
福岡インターから九州道に乗り、中国自動車道の途中で浜田自動車道に折れて大朝インターを降りたのが午後二時頃。混んでいなかったのが幸いしたのか、途中二回の休憩を挟んだにしても、ここまではわりと早く来れている。
この後の予定では、国道二六一号線で島根県の邑南町を走行、県道三二号線に曲がって川本町を通過し、大田市温泉津町へと向かう行程。
高速道走行中は単調だったこともあり、最初ははしゃいでいた女性陣たちも、九州を出る頃には三人とも熟睡爆睡の体勢となっていた。
いよいよここからは町田さんが夢にまで見た、中国山地の紅葉帯の只中に分け入っていく山中コースである。
町田さんも娘たちも今はしっかり目を覚まして、これから繰り広げられるであろう、大自然が織りなす紅と金のグラデーションを一瞬たりとも見落とさない心持ちになっているはずだ。
今日は天候にも恵まれ、秋らしい澄んだ空の青と、暖かい陽ざしに照らされた常緑樹の深い緑が、暖色系に負けない力強さの鮮やかなコントラストで彩りを添えている。
走行中は山間の陽光に照らされた木々や、谷川に沿った岩と絶壁とが織りなす風光明媚な絶景ポイントが連続して現れ、何度も停車して写真や動画を撮ったのは言うまでもない。
午後五時を過ぎる頃になると、そろそろ暗くなってきて風景を愛でるのが難しくなってきた。
いくら時が立つのも忘れるほど見惚れる絶景と言えど、さすがに三~四時間も同じような情景を見続けていれば飽きてくるのが人情だ。
町田さんももう充分満足したといった表情だし、後ろの娘たちはSNSに撮ったばかりの写真をアップするのに熱中している。
頃合いを見計らって
「じゃあ時間も時間だから、そろそろ旅館に向ってもいいかな」
「はい。もう一生分の紅葉を目に焼き付けたので、次は地のお酒で身体を解しましょう」
「わたし、お腹すいちゃった。早く旅館に行ってごはん食べよう!」
「藤村さん、SNSに上げる写真だけど、顔だしオーケーなんですか?」
「別にかまわないよ。私なんかより町田さんとみのりちゃんと汐音の顔しかみんな見ないだろうから」
皆それぞれ今日のドライブに満足してくれたようなので、私も嬉しい。
あとは旅館まで安全運転に努める大仕事が残っている。
「旅館の名前、何て言ったっけ」
汐音との会話では単に《温泉旅館》で通していたから、正式名称を聞いていなかったのに今気づいた。
「おんせん旅館だよ」
「通称じゃなくてちゃんとした名称はなに?」
「だからおんせん旅館」
「ただの《温泉旅館》なの?」
「そう。ただのおんせん旅館」
「ああ、そう」
汐音自身もよく判っていないのかもしれない。
旅館自体がわかりにくい場所にあるそうなので、温泉津駅まで旅館の担当者が迎えに来てくれているとのこと。その人に旅館名を確認すればよい。
「こんばんは。藤村です。わざわざ迎えて来ていただきありがとうございます」
駅前の一般車降車場に《藤村さま御一行》のプラカードを持った旅館の関係者と思しき女性が待っていた。
「藤村様でいらっしゃいますね。ようこそおこしなさいました。
人数やお泊り日数はご予定通りでございましょうか?」
「はい、変更ありません。よろしくお願いします」
「ありがとうございます。ではさっそくご案内いたしますね。
ここから三十分ほどかかりますから、この旅館の車で先導しますので付いていらしてください。
道が狭いし暗いのでどうか気をつけて運転してくださいね」
受け答えの印象では旅館の女将らしい。接客態度は良さそうな感じだ。
『人里離れた静かな温泉宿』が旅館のホームページにあった謳い文句だった。その通り、これから車で三十分の移動時間ならけっこうな距離がありそうだ。
車間を充分とり、脇から跳ね出てきそうな動物にも注意して旅館の車の後を追った。
途中、前方からの車両が近づいてきたので、こちらの二台が脇のスペースに退避して離合するのを待つ。
参考までに補筆しておくが、狭い道で対向車が互いに走路を譲り合うことを「離合する」と九州では言う。私の住む北部九州では、この言い方が全国共通と認識している人が大半だが、実際は九州と山口県や山陰地方の一部だけで使われている言い回しらしい。
走り慣れない道での気の抜けない運転なので気づかなかったのだが、いま直前に停車している先導車のリア・ウインドウに大書されている旅館名が目に入った。
『温千旅館』と江戸文字風の書体で表記されている。
汐音の言っていた通り、そのまま読めば『おんせんりょかん』だ。よく見ると、旅館名の下に表記されているホームページ・アドレスにはwww.onsenryokan.xxxと、読み方を補強するように添えられている。
「なるほど、温と千でおんせんと読ませるんだ。超シンプルだけど覚えやすいね」
と私が誰に言うともなく言うと、汐音が
「そういうことだったんだ」
「ねえねえ汐音ちゃん、どうやってこの旅館を見つけたの?」
と町田さんが汐音に興味ありげに訊ねた。
「検索で《おんせん》って入れたつもりで変換したら《温泉》が出てこなかったんで、《おん》と《せん》を分けて変換し直したの。
そうしたら《温泉》があったからそれを押したつもりが《温千》を選んじゃったみたいなのね。
その温千と《旅館》、それに《山陰地方》のスリー・ワードでヒットしたのが、みんなに見せたあの綺麗な写真だったってわけ」
「そうだったの。本当にあの写真みたいな環境だったら正に瓢箪から駒ね!」
汐音らしいエピソードだが、彼女の場合は勘違いや失敗が思わぬ方向に転がって、本人も周りもハッピーになることが多いので、今回もその例に漏れない楽しいどたばた旅となる予感がする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます