第十四章 東京ふたり 街歩き

 午前九時三十分、ロビーに降りると町田さんがすでに待っていた。

 私たちのホテルと汐音たちが泊まっているホテル、どちらも十時チェックアウトなので、少し早めに出て近くの喫茶店に入り、ふたりがホテルを後にするところを確認することにした。

 昭和の雰囲気が残る喫茶店内に入り、道路側に面した窓のある席に座る。

 外からは見えにくい加工を施したガラスなので、もしも彼女たちがすぐ横を通っても、顔をつけて覗きこまないかぎり気づかれはしないだろう。

 モーニングセットを食べていると、店内に流れるFM放送から十時の時報が聞えた。

 「そろそろ出てきますよ」

 「今日は特に予定が書いていないから、そのまま駅に行っちゃうのかな」

 「多分そうでしょうね。駅なら向こうに歩いて行くだろうけど、古本屋街に寄るならこっちに来るので、この店の前を通ることになる」

 「気づかれないとは思うけど、その時はブラインドを下ろしてもらいましょうよ。

 でも店内に入ってこられちゃ万事休すね」

 「そうなったら四人一緒に新幹線でワイワイ話しながら帰りましょう」


 五分、十分と時間は過ぎていくが一向に出てくる気配がない。

 「出てきませんねえ。昨日夜更かしするってメールが来てたから、ふたりとも寝過ごしているかもしれない」

 「わたしの携帯電話にも夜中三時ころにメールが届いていたのを、目が覚めて気がつきました。

 あんな遅い時間にいまコーヒーを飲んでるって写真がくっついてた」

 「あの子たちはカフェインを摂取しても影響ないはずだけど」

 さらに十分がたった。さすがに不安になってきた矢先、みのりちゃんから町田さんに電話がかかってきた。

 「はい、みのりちゃん?」

 「……」

 「え、今日まで?」

 なんだろうと町田さんの表情を窺っていると私の携帯が鳴りだした。

 目覚まし機能を使ったまま、マナーモードに切り替えるのを忘れていたのだ。

 多分みのりちゃんも知っているこの呼び出し音、町田さんの電話に拾われるとマズいと思い、咄嗟に店内のマナーボックスに向った。

 ドアを閉め応答ボタンを押す。

 「もしもし」

 「あ、藤村さん? わたし。あのね、あと一日こっちに居ていいかな。せっかく東京に来てるのに銀座とか原宿や巣鴨へ行かずに帰るのは女子にあるまじき行為だってみのりちゃんと話したの。それにディズニーランドにも行くかも。

 今度いつ来られるかわからないから。ね、ね、いいでしょ」

 「ホテルは大丈夫? 今日も同じ所に泊まれるの? みのりちゃんのお母さんには電話した? 銀座と原宿と、巣鴨?」

 「さっき訊いたらホテルは空いてるって。みのりちゃんのお母さんからは許可を得たそうです。銀座・原宿・巣鴨と、可能ならディズニーに行くの」

 「銀座・原宿・六本木じゃないっけ。まあいいけど、

 明日は帰ってくるんだろうね」

 「帰るかえる。おみやげ期待してていいから。じゃあOKね」

 「ああいいよ。楽しんできなさい」

 「ありがとう。藤村さんも今日はゆっくり楽しんでいいよ。じゃあねっ!」

 マナーボックスから戻ってくると町田さんもちょうど電話を終えたところだった。

 「私の電話の音、みのりちゃんに気付かれていませんでした?」

 「なにも言わなかったから聞えなかったんでしょう。

 なんだか気が抜けちゃった。親がこんなに心配しているのに、子どもは気楽に一日延長だって」

 「まさに親の心、子知らずですね。汐音は『今日はゆっくり楽しんでいいよ、じゃあね』だって。

 どこの親もこんな風に子どもに振り回されるのかな」

 「そうなのよ。わたしなんて振り回されっぱなし。結菜のあとをみのりがちゃんと受け継いでくれているみたい」

 「そうなのか。そんなものなんですね。親と子ってのは」

 「でも、まったく手のかからない、完全無欠の世話いらず娘だったらなお不安かも。

 わたしはみのりや結菜や汐音ちゃんみたいな、個性豊かな性格のわかりやすい子の方がやっぱりいいかなあ」

 「私は子育て経験が初めてだけど、汐音で良かったと思います。基本的に素直だし、こっちの言うことを百パーセント受けとめてくれるし、適当にさばけたところもあるし」

 「汐音ちゃんは娘として百点満点だわ。わたし自身はあんな性格の女の子になりたかった」

 「へえ、そうなんだ。確かに性格はいいけど、ドジなこともよくやってます。

 もう慣れましたが、最初の頃は傍で見ていてハラハラしたり、笑いを堪えるのに必死だったりで大変でした」

 「そこが汐音ちゃんの魅力なのよ。男の子って女の子のそういう部分に惹かれるんでしょ」

 「確かに私が汐音のクラスメートだったら、あの子を好きになっていたでしょうね。多分、恋敵も多かったでしょう」

 「だから変な虫がつかないよう、気をつけてあげないと」

 「みのりちゃんもでしょう。ちょっと神秘的な雰囲気をたたえた存在感、年下の男の子が憧れそうな女性です」

 「みのりは大丈夫よ。ファンは多いみたいだけど、敷居が高いから簡単には近づけないみたい。わたしに似てしっかりしてるし」

 そう言って町田さんはまた埴輪の笑い目をして微笑んだ。この笑顔が好きだ。こちらの心をとろけさせてしまう。

 今回の予期せぬ旅で確実に町田さんのファンとなってしまった。

 でもみのりちゃん同様、町田さん自身も敷居は高いのだろうな。


 「わたしたち、どうしましょう。予定通りに午後の新幹線で帰ります? それとも少し時間をずらしてお買い物でもする? それとも早く帰っちゃう」

 と町田さん。そうだった。私たちの予定も考えなければならない。

 「どうしましょうか。

 一、当初の予定通り、午後一時頃の新幹線で帰路に着く。

 二、買い物をして、遅い時刻の新幹線で帰る。

 三、早く帰って向こうでゆっくり食事。

 四、今日も探偵ごっこ。

 この四パターンの中から選ぶことになりますかね」

 「そうね。四番は無いかな。あの子たちに付いて人ごみの中を歩く元気はもうないわ」

 「まったく同じ意見です! じゃあ一から三の中からお選びください」

 「うーん、二番かな。せっかく東京に来てるんだから、ちょっとくらい自由時間があってもいいでしょう」

 「そうですよね。いっそ私たちも今日一日は東京観光をして、明日の早い時間に帰りませんか?」

 「あら、いいわね! どうせ家に帰っても誰もいないし、あの子たちと会わない場所に行ってぶらぶらすればゆっくり楽しめそう」

 ダメ元で提案したプラン、すんなり町田さんがOKしてくれた。

 「いいんですか? なにか忘れているご用事はありません?」

 「わたしは大丈夫よ。藤村さんは? ワンちゃんたちはどうしてるの?」

 そうだ。ペットホテルが延長できるか確認しなければならない。

 「そうでした。ちょっとペットホテルに電話して、延長できるか訊いてみます」

 再びマナーボックスに入りペットホテルの番号に電話をかける。


 「はい、ペットハウス《タマとポチ》です」

 「ああ、藤村と申しますが、いつもお世話になります」

 「お世話になっております。アクアちゃんもあしるちゃんもお元気ですよ。いま二人ともお散歩中です」

 「そうですか。ところで今日の夜、迎えに行く予定だったんですが急用ができまして、あと一日延長することは可能ですか?」

 「少々お待ちいただけますか。確認いたします」

 「お願いします」

 待っている間、電子音で《いぬのおまわりさん》が流れている。

 「お待たせしました。確認しましたら藤村さんのふたりは今日までの宿泊になっております。明日の夜にお迎えということでご予定を伺っておりますが」

 「え⁉ そうでしたか。それじゃあ私の勘違いでしょうね。

 じゃあ予定通り明日の夜に迎えに行きます」

 「かしこまりました。いつもご利用いただきありがとうございます。失礼いたします」

 「よろしく」

 ペットホテルを予約する時、慌てていたので一日余分に言ったのかもしれない。

 結果オーライとは言えアクアとあしるの心配はしなくてもよくなった。


 「OKです。私たちの宿も確保しないと。同じホテルでいいですよね。もう一度電話してきます」

 「今度はわたしがかけてきます。あなたは食事を済ませてください」

 そう言って町田さんがマナーボックスに向った。

 トーストとサラダの残りを素早く平らげ、冷めたコーヒーを胃に流し込んで町田さんが戻ってくるのを待った。

 ボックスに入って三分ほど経過しているが、なかなか通話が終わらないようだ。週末だから空きがないのかもしれない。

 さらに二分ほどしてやっと彼女が戻ってきた。

 「どうでした? 金曜日なのでもう予約がいっぱいだったんじゃないですか」

 「そうなの。シングルは全室、予約でいっぱいでした」

 「仕方ないですね。じゃあほかの宿を探しましょう」

 「シングルはだめだったけど、ツインが一部屋空いていたんでその部屋をとっちゃった」

 「え、ツインですか? ひとりなのにもったいないですね」

 「あら、あなたと二人だからちょうどいいじゃない」

 「私とっ⁉ 同じ部屋で? それはまマズいんじゃ……」

 「どうして? ベッドは二つだからいいんじゃない」

 「いや、まあそれはそうですが……

 それにしてもいい齢の女と男……もとい、それなりに齢を重ねた女性と男が同じ部屋で夜を共にするとなると、無用な憶測を呼ぶことになるのでは」

 「誰が憶測するんです。こんなところで知り合いに会うことはないし、万一見られたとしても悪いことをしているわけじゃなし。

 それに藤村さんは変なことをするような人じゃないってわかるの」

 「はあ、どうも。以前も同じことを別の女性に言われたことがあります。『藤村さんと一か月、同じ家で暮すことになってもぜんぜん安心』と。これって男として喜んでいいのかどうか」

 「やっぱりね。女の直感って言うのか、無害な人はわかっちゃうのね。だからツインでも予約したの。

 それに別のホテルを探すのは面倒くさいでしょ。もっと時間を有効に使わなくちゃ」

 無害か。まあいいけど。有害よりはマシだ。

 とにかくこれで私たちの宿の確保もできたわけだが、今夜は隣りで眠る町田さんを意識して眠れないかもしれない。


 「どこに行きますか。渋谷、浅草、池袋。ちょっと足を延ばして箱根に日帰り温泉ツアーとか」

 「そうねー。街に行くとみのりたちと鉢合わせしそうだし、あまり遠くへは行きたくないし……」

 「近場でゆっくり散策しましょうか。

 今日は神田神保町界隈ならあの子たちが来ることもないだろうから、そのあたりのお店をぶらぶら。と言っても古本屋さんばかりか」

 「わたしはいいわよ。本屋さんは好きだから。それに古書をゆっくり見る機会なんてそうはないもの」

 「じゃあ今日は私たちが古書店巡りを楽しみましょう」


 午前中は古書の専門店や洋書を扱う店、アンティーク・ショップなどをまわって過ごした。

 お昼を過ぎたのでレストランに入ろうとしたが満席で、五人の先客が待機ブースに座っている。

 ふたりともわざわざ待つほど洋食が食べたいわけではないので店を出た。

 何店か覗いてみるがどこもいっぱい。

 汐音たちの訪れた蕎麦屋に寄ってみると、ふたり入れる余裕があったので、結局そこに落ち着く。

私は昨日、汐音が食べていた天ざる定食が気になっていたので、それを注文することにした。町田さんは天丼セット。

 待つ間、午前中の収穫を見せ合う。

 私は買いそびれて絶版になっている文庫本を五冊と、ついジャケ買いしてしまった一九五〇年代の洋楽シングル盤二枚。

 一方、町田さんは単行本を二冊、CD一枚、それに満月印が押された金魚の七円切手。

 「切手を集めているんですか」

 「いえ、集めてるって訳じゃなくて、子どもの頃におじいちゃんからもらった古い切手の中にこれと同じ絵柄があって、もう無くなっちゃったんだけど、その事を思い出して懐かしいから買ったの」

 「そうなんですか。私も小学生の頃、切手を集めてましたよ。

 当時は小学生の間で切手収集がちょっとしたブームで、百貨店の切手・古銭売り場によく行って、外国の使用済み切手がたくさん入ったセットを親に買ってもらってコレクションを増やしていました。

 子どもだから系統立てて集めるなんてことはしないんですが、ちょっと高尚な趣味を持った気分を味わえましたね」

 「そうそう。友だち同士で見せ合ったりして。ディズニー切手や立体切手とかとても綺麗だからたくさん持ってました。実家に行けばまだとこかにしまってあるかも」

 ふたりとも同じ世代だからブームが共通する部分は多い。

 「この本はご存知?」

 そう言って、町田さんが手に取った一冊の本のブックカバーを外して私に表紙を見せた。

 「あ、それ、大昔に出版した私のレコード評論本。どこで見つけました?」

 「一件目の古本屋さんで。音楽関連の書棚に並んでたの。どんな文書をお書きになるのか読んでみたくて」

 「ああ……担当した作品をべた褒めしているか、辛らつに批評しているかのどっちかです。読んだら捨ててください」

 「あらどうして? 大事に本棚へ並べておきます。

 藤村さんはどんな本をお求めになったの?」

 「ああ、これですか。むかしテレビや映画のシリーズで宇宙船の艦長役だった俳優さんが書いた、同じシリーズのノヴェルです。

 上下巻とも買い逃していたので、今日みつけられてラッキーでした」

「知ってるわ、スターなんとかって言う宇宙物でしょう。映画を見ました」

 町田さんの『何とか』の部分がウォーズかトレックかはわからないが、そこは深く掘り下げない。

 「小説をお読みになるのね」

 「いや、小説はほとんど読みません。今までに読んだ小説は十冊か二十冊くらいです。

 書いたこともありますよ。短編を一度だけですが」

 「小説をお書きになったの⁉ すごいじゃないですか。今度読ませてください」

 「それが、自分の手許には原稿も掲載誌もありません。

 原稿は編集者に渡したきりで戻ってきていないし、掲載された雑誌は見たくなかったので処分しました。

 私にとっては消したい過去なので、それこそ古書店で丹念に探してみつけない限り、二度と目にすることはないでしょう」

 「そうなの。残念ねえ。藤村さんの創造する世界がどんなものか知りたかったわ。

 ねえ、どんなストーリーだったの?」

 「女の子が江戸時代にタイム・トラベルして、そこで騒動を起こしたり活躍もする内容です」

 「ファンタジーね。藤村さんがその系統をお書きになるのはちょっと予想外」

 「うーん。ファンタジーとは違うと思うけど、まあそんなところです」

 「ますます読みたくなったわ。タイトルはなんていうの。掲載された雑誌の名前は?」

 「タイトルは『タイム・トラブル』です。雑誌名は忘れちゃいました」

 「インターネットで検索してみるわ。ネットオークションに出品されているかもしれないし、どこかの図書館の蔵書になっているかも」

 「その作品は評論の仕事とはぜんぜん関係ない出版社から出たので、名前も変名を使っていました。だから私とその出版社の人間以外、私が書いたものと誰も気づかなかったでしょうね。

 発行部数が少なかったし、出版社自体が去年の夏に倒産してしまったので、当時は売れずに在庫があったとしても、今は再生紙となって違う形となって役立っていることでしょう」

 ちょうど会話の節目に差し掛かったところで注文の膳が届いた。


 時間をずらしてふたり分を別々に持ってくるのではなく、それぞれの膳をふたりの店員さんが分担して同時に運んできた。

 そしてどちらがどっちの注文かなど私たちに確認せず、ちゃんと注文者の前に膳を据えて

 「ごゆっくりどうぞ」

 と頭を下げ店員さんたちは去って行った。

 値段はそれなりに高いが、おもてなしの心もそれに見合った素晴らしさで感心する。

 そして料理。昨日汐音が送ってきていた、写真に写っていたお吸い物の浮遊物はやはり松茸であると確認できた。正真正銘の《松茸のお吸い物》である。

 薄味の吸い物に松茸の香りが食気を豊かにしてくれる。

 天ぷらがまた格別。衣のサクサク食感は言うに及ばず、歯ごたえのある海老と纏わる天つゆの香ばしさが味覚中枢を幸福感で圧倒する。

 ザルそばのそばつゆと天つゆを共用にして出してくる乱暴なソバ屋もあるが、ここはちゃんとセパレートされており、そばつゆ・天つゆそれぞれに大根おろしが添えられている。

 そばつゆにはほかにワサビとネギの定番薬味のほか、更にうずらの卵も付いてくる豪華版。

 つゆへ大根おろしとウズ玉を投入するとわずかにトロミが加わり、コクが出てこってり系のそばつゆへと進化する。

 『ザルそばはあっさりしているからこそいいんじゃないか』と反論されるだろうが、そう思う人には是非一度試してみなさいと言いたい。きっとザルそばを語る際のボキャブラリーが増えるだろう。

 むかしは普通に薬味と並んで、つゆの上の小皿にウズ玉が鎮座していたが、私の周りのザルそばを出す店では昨今、つゆにうずらの卵が添付されているのを見かけることは皆無だ。

 関西では今も標準的に添付されているらしいが。


 町田さんの前に置かれた天丼セットの膳もちょっと変わった配置だ。

 ご飯の入った丼と、丼内のメインになるえび天は別皿に盛られている。

 天ザルと同じ大きさのえびが四尾で、天つゆも別の小皿に用意されている。それに松茸のお吸い物。

 これだけでは天ぷら定食にみえるが、丼の白飯は予め出汁がかかり、卵でとじられている。

 客はえび天を丼に入れても良いし、つゆに天ぷらを漬けてダイレクトに食べても良い。食べ方は客の自由なのだ。

 天丼用の追い出汁が入った急須が別に用意されており、丼に継ぎ足すこともできる。

 一般的な天丼は、運ばれてきた丼の中にすでにえび天が入っていて、出汁が充分にしみ込んでサクサク感は完全に失われてしまう。

 私は楽しみを後に取っておく派なので、丼内のえび天に箸をつける頃にはえび本体と衣が分離して、箸でつかむとえびだけが持ち上がり、出汁を吸って重くなった衣はその場に脱ぎ捨てられ、単に丼の具と化す。

 この店の方式だと、客は自分のタイミングで天ぷらを丼に投入できるので、食べる直前にえびを乗せ、出汁をかければサクサクを楽しめるわけだ。

 町田さんはどのようにするか観察していると、まず二尾を丼に入れて急須の出汁を三分の二ほど注いでいる。あとの二尾は別皿のつゆに漬けて、普通に天ぷらの食べ方で食すようだ。

 一膳で天丼のしっとり感と天ぷらのサクサク感のどちらも楽しめるのである。


 通常は少食派なので昼食なしの日が多いのに、今日は夕食ばりの食量を摂って、歩くには若干身体が重くなった感じがするし満腹感で眠気も催してきた。

 町田さんも同じようで、どちらも午後の街歩きはちょっとしんどい雰囲気。

 店員さんが膳を引いたあとに持ってきた食後のお茶を啜りながら

 「これからどうしますか。御茶ノ水辺りをブラつきます? ちょっとゆっくりしたい気もするけど」

 と私が水を向けると、町田さんはちょっと考えて

 「もうお腹が満たされちゃって歩くのが面倒くさくなりました。

 わたし、前からやってみたかったことがあるんだけど、付き合ってくださる?」

 「勿論もちろん。どんなことですか」

 「山手線を一周してみたいの」

 「山手線を? ただ乗っているだけですか? 沿線を歩くんじゃないですよね」

 「歩いて一周するのはまた来世か再来世の機会にして、そう、ただ乗っているだけで車窓を流れる風景を楽しみたいんです。ビル群や家並みや森が混ざり合ったメトロポリスって、世界中探してもそんなにないでしょ。

 わたし、全線を通して乗ったことがないんです。

 ね、せっかくの良い天気だし、一緒に風景を楽しみましょうよ。ね、ね」

 「そうですね。私も昨日から歩き通しで足首が痛くなってきてました。じゃあ午後は電車で東京観光しましょう。

 あ、オプションでゆりかもめから夜景を愛でるツアーも追加しませんか」

 「あ、それ当たり! 採用! そうしましょうそうしましょう」

 午後のスケジュールが決まった。


 山手線はけっきょく二周した。一周目は町田さん、二周目は私が熟睡。腹が満たされたふたりにとって電車は心地良いゆりかご。

 ゆりかもめでは新橋と豊洲の間を一往復しただけだが、お上りさん状態で東京の夜景を思う存分楽しんだ。

 ホテルに着いてチェックインしたのは午後九時近く。

 シャワーを浴びると遅くなるので、荷物だけ部屋に置いて昨晩と同じ居酒屋に向った。


 暖簾を分けて玄関を開くと大将が

 「いらっしゃい」

 と言って迎え入れてくれた。

 今日は少し遅く来たからか席に余裕がある。テーブル席もあるが昨日と同じカウンターの席に尻を落ち着けた。

 私はハイボール、町田さんは生ビールを注文。今夜は双方ともひと口目に冷えたものを流し込みたい気分だ。昼に天ぷらを食べたせいかもしれない。


 「お疲れさまでした」

 「お疲れでした!」

 冷たい液体で喉を潤し、やっと心も身体も一段落ついた感じだ。

 「今日はわたしのわがままに付き合っていただいてありがとうございました」

 と言って町田さんがぺこりと頭を下げた。

 「いえいえとんでもない! わたしの方こそ楽しい時間を一緒に過ごさせてもらって感謝しています」

 「電車の振動があんなに心地いいなんて初めて知ったわ」

 「仕事帰りに電車に乗って座っていると、知らず知らず寝ちゃいます。何度も乗り越しそうになりましたよ」

 「ローカル線なら寝過ごしてもそんなに遠くまでは行かないけど、新幹線だと大変ね。

 のぞみだったら一駅越しちゃうともう隣りの県に行ってしまって、その日の内に帰って来れないなんてことになっちゃうかも」

 「あり得ますね。その点、山手線はエンドレスでぐるぐる回る路線だから安心して眠れる」

 「わたし、変な顔をして寝てませんでした? かなり熟睡していたと思うから口とか開いちゃってたかも……」

 「いや、気持ち良さそうに穏やかな寝顔でしたよ。

 あ、別にじっくり見ていたわけじゃありませんが」

 実のところ、外の風景より町田さんの寝顔を見ていた時間の方が長かったのだが。

 「藤村さんの肩を枕にしていませんでした? 三十分くらいはまったく意識がなかったからどんなだったか心配」

 「時々カクっと横に倒れそうになったけど、すぐ姿勢を立て直していましたよ」

 本当は十分くらい、私の肩枕で静かに寝息を立てていたことは伝えないでおこう。

 私にとって至福の時間だったことは言うまでもない。

 「私はどうでした? 私も二周目はかなり熟睡していたと思うけど」

 「それはもう鼾とか寝言とか歯ぎしりとか…… ぜんぜんありませんでしたわよ。

 時々、口をぬぐってらっしゃったけど」

 と言って例の悪戯っぽい微笑みを浮かべている。

 ヤバい。よだれが垂れているのを見られたかもしれない。無意識に手を口へ持っていっただけなら良いが、確かに居眠りをすると口もとが緩くなる嫌いはある。

 まあ万一見られたからと言って、穴に入りたくなるほど恥ずかしいと感じる齢ではないが、あまり人前で晒したくない醜態。特に町田さんには。

 「……よだれ、垂らしてましたか?」

 恐るおそる訊いてみると

 「大丈夫。わたしの見た限り、白糸は垂れていなかったわ」

 良かったよかった。とりあえずだらしない姿は見せていないらしい。


「なんになさいましょう」

 大将が注文を取りに来た。今夜はお任せの刺身盛り、焼き鳥四品を二本ずつ、それに町田さんが揚げ出し豆腐、私は鶏の唐揚げにする。


 「明日は何時に出発しますか。お疲れだから飛行機で帰るでしょう?」

 昨日今日と歩き詰めなので、気を使って移動時間の短い航空便の利用を提案した。

 私もこの際、我慢して飛行機に乗ることにしよう。

 すると意外そうな顔をして町田さんが言う。

 「あら、せっかくだから新幹線に乗りましょうよ。車内で駅弁を食べたいし、車内販売のアイスクリームやコーヒーも味わってみたいの。

 それにお話しもたくさんできるでしょ。なにより高所恐怖症の人が脂汗をかいて座席に沈んでいるのを見るのは忍びないわ」

 座席に沈んでいるうんぬんは半分本気、半分からかっているような口調。

 「町田さんがお疲れじゃなければ私は新幹線大歓迎です」

 「じゃあ新幹線は決まりね。時間はみのりたちの様子を見て考えましょう。

 あの子たちのことだから昼いっぱい遊んで、そして最終列車に乗ると思うの。だったらわたしたちもそんなに急ぐことないし」

 「そうですよね。私たちも可能な限りゆっくり楽しんで帰りましょう」

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