第五章 ヴィーナスの誕生
「利き手をそっと両手で包むように握ると目を覚まします」
御茶水氏にアンドロイドが届いた旨を電話で連絡すると、彼女を目覚めさせる方法を教えてくれた。
「利き手、ですか?」
「そうです。彼女たちにも右利き、左利きがあります。握って目覚めた方が利き手です」
個性の違いがどうやって設定されているのか知りたいが、まずはこの子とのファースト・コミュニケーションが先だ。
電話を切ろうとすると御茶水氏が
「先日、一緒にお伺いした町田みのりちゃんのお母さんから言伝があって、藤村さんの娘さんが到着したら藤村さんに連絡を取りたいと言うことでした。藤村さんの携帯番号を町田さんにお教えしてよろしいですか?」
「町田さんがですか? もちろんかまいませんが……何かご用かな」
「私も用件は聞いていませんが、何かお役立ちになるアドバイスではないでしょうか」
電話をテーブルの上に置いて彼女の横に戻った。さっきは気づかなかったが、よく見ると静かに呼吸をしており微かな寝息も聞こえる。
彼女の両手はそれぞれの側の腰あたりにあるので、まずは右手を持ち上げて私の両手で握ってみるが反応はない。
そっと右手を下ろし、次に左手を持ち上げ同じように握ってみた。すると身体全体が僅かに動き、続けて両手を頭の斜め上にピーンと伸ばして
「うーーーーーーん」
と背伸びをした。目を半分くらい開けて辺りの様子を窺い、私と視線が合うと、いきなりガバッと上半身を起こして
「おはようございますこんにちは初めまして!」
と一気に初対面の挨拶を繰り出した。
呆気にとられて彼女の動作を見守っていた私も
「あ、どうも初めまして」
と挨拶を返した。見たところ寝ぼけている様子ではない。もっとも寝ぼけることがあるのかどうかは判らないが。
取りあえず箱から出てもらってソファーに座るよう促す。
腰かけると部屋の中を興味ありげに見まわし始めた。これから自分の暮らす家がどんな環境なのかを認識しようとしているのだろうか。話題が思い浮かばないので取りあえず訊いてみた。
「何か飲む?」
「あ、お構いなく」
「遠慮しなくていいよ。これからここが自分の家になるんだから、食べたり飲んだり、家の中にある物を自由に使っていいからね」
「ありがとうございます。じゃああの、コーヒーを……」
「砂糖とミルクを入れる?」
「砂糖は少な目、ミルクは多目でお願いします」
人見知りするタイプではなさそうなのでひとまず安心。私自身が驚異的に人を見知る人間なので、とりあえず会話が少ない家庭にはならなさそうである。
渡したコーヒーカップを両手に持って飲んでいる表情がとても幸せそうだ。女性のこんな顔を間近で見るのはかなり久しぶりである。
「コーヒーは好きなの?」
「コーヒー好きです。それにミルクも! コーヒーとミルクのコラボは世界食糧遺産級の美味しさですよね」
「好き嫌いはある?」
「苦いものとスパイスが効きすぎているものはあまり好きじゃないです。あとは大体食べられます」
食べるものにはあまり気を使わなくて済みそうだ。
「自分はいつも外食なので料理スキルはほぼゼロだけど、これから少しずつ研究しながら覚えていくから、当分の間、味は我慢してね」
「バカ舌なのでなんでも美味しくいただけますよ!」
と言って彼女がにっこり笑った。
バカ舌とはまた予想外の言葉。まだそんなに会話をしていないが、彼女の表現力とボキャブラリーの抱負さに驚きを禁じ得ない。
ぶ厚い辞書に収録されている全ての言葉を頭の中に記憶しているのだろうが、それらをうまく使いこなして感情表現をするとなると、それはまた別の能力であると思うので、改めて彼女たちが持つ他者とのコミュニケーション能力の高さを実感させられた。
「私も一緒に料理のお勉強をさせてください。美味しいものを作って食べたいし食べさせてあげたいです」
なんとまあできた子なのだろう。昨今の言葉も行儀もちゃんと躾けられていない若者に聞かせたい見せたい彼女の態度である。
「あの」
「なに?」
「なんてお呼びすればいいですか?」
そう言えばまだ私の名前を名のっていない。
「藤村丈彦と申します。なんと呼んでもらうかは考えてなかったな」
「それと、私はこの家でどんな位置と言うか立場になるんでしょう」
「一応、私の娘としてあなたをお迎えしたんだよ」
「そうですか。だったらお父さんですね」
お父さん? 確かに続柄は父親だから『お父さん』が妥当だが、これまでお父さんなんて呼ばれたことないし、何かくすぐったく感じる。
「お父さんはちょっと……」
「じゃあパパ」
「パパもなんだかなあ」
「ダディ、父ちゃん、おとっつぁん」
「おとっつぁんは如何なものかと思うが。
じゃああの、しばらく慣れるまでは苗字でいいよ。藤村さんで」
「わかりました。では藤村さんで」
意外とあっさり納得してくれた。
「私の名前はもう考えてくれていますか」
実はこれが難題で、何個か案は用意しているが決定までには至っていない。
「いくつか候補があるけどまだ決めてないんだよ。一緒に選ぼうと思って」
「そうなんですね。じゃあこれからミーティングを始めましょう」
「あ、はい。ちょっと待って、お茶とお菓子を持ってくるから」
彼女のリードで名前選考会議がスタートした。
二時間ほど二人で検討した結果、二十近くあった候補を三つまで絞り込むことができた。残った名前は《あくあ》・《あいな》・《しおね》。
《あくあ》は片仮名でアクアにしてみてはと私が提案した。
しかし彼女は
「漢字の持つ雰囲気が好きなので漢字の名前がいい」
と希望して脱落。
《あいな》は読みの語感を彼女が気に入ったので、どんな漢字を充てるか色々と組み替えて《愛和》がいいねと意見が一致し、メモに走り書きをして最終候補として残すことにした。
最後の《しおね》だが、これは私が事前に漢字も考えていたので、それを彼女に書いて見せると甚く気に入ったようだった。
《しおね》と言う響きも好感を持てたようである。
と言うことで、彼女の名前は『汐音』に決まった。
最後まで候補に残った《アクア》と《愛和》は、汐音の生活環境が整ったあと、ワンちゃんの弟か妹を迎えてその子につける名前とすることにした。《アクア》もメモに書き留めておく。
私が仕事で家を空けることが多いため、汐音がひとりでは寂しいだろうと思い、生活パターンが安定したら犬か猫に家族となってもらうのだ。
会議が終わり汐音がハイタッチのポーズをしたので、私も彼女に合せて右手を上げパンッ!とハイタッチ。
ハイタッチなど生涯で一桁の回数しかしたことがない。こんなのは軽薄な高校生大学生や、年齢とガタイは大人だが中身は薄っぺらの若い奴らが、仲間であることを誇示するポーズと決め込んでいた。
が、たった今交した我が娘とのハイタッチの、手のひらと手のひらが合った瞬間の心の動きはなんなのだろう。感動や感激などの平易な言葉では言い表せない、心の底の底に眠っていた喜びを初めて経験したような気持ちである。
しばらく片手を上げたままその感動に浸り固まっていると汐音が
「どうしたんですか藤村さん?」
とめずらしいモノを見るような顔つきで声をかけてきた。感動で身体が硬直していたと白状するのは私のプライドが許さないので
「ちょっと腕の筋肉が攣ったみたいで下ろせなかったんだよ」
と答えをはぐらかした。
「そうですか。それよりお腹、空いてないですか? わたしぺこぺこ」
そう言えばもう十二時をとっくに過ぎて一時になろうとしている。名前選びに集中していて時間のことを全く気にしていなかった。
「どうしようか。コンビニに何か買いに行く? それとも街に食べに出る?」
「せっかくだから外で食事がしてみたいです。でも……」
「でも、なに?」
「この服、ダサくないですか」
汐音の着ている服のことなど気にも留めていなかったので答えに窮する。
「へ? そう? 自分は女の子のファッションに関しては知識が皆無だからわからないよ。誰がその服を選んだの?」
「知りません。今日、目が覚めたらこれを着ていたので、私が寝ている間に誰かが着せてくれたんだと思います」
「そうかあ。でも洋服や身の回りのものはこれから一緒に揃えようと考えていたから、今は着替えられる服がないなあ」
「そうですよね。じゃあ今日はこれで我慢します」
汐音がちょっとがっかりそうな表情をして視線を落とした。
「だったら食事をする前にショップに寄って、汐音に合う服を見てみよう」
そう言うと汐音がサッと顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。やっぱり女の子なんだなあと改めて思う。
外出する前にキッチンで湯呑や皿を二人でガチャガチャと洗っていると携帯が鳴った。
私の携帯電話の番号を御茶水氏から訊いた町田さんが電話をかけてきたのだ。
「名前はもうお決まりになりました?」
「はい。サンズイに夕の《汐》と《音》で『しおね』です」
「あら綺麗なお名前! 藤村さんがお考えになったの?」
「ふたりで選考会議を開いて、いくつかの候補の中から選びました」
「そう。それは良かった。さっそく共同作業をなさったのね。ところで今日は何かご予定がおありですか」
これから一緒に街へ行き、汐音の洋服を買って食事をする旨を伝えると
「お洋服を? ちょうど良かった。お下がりで申し訳ないんですけど、結菜が……ジャマイカに嫁いだ娘がファッションにすごく興味があったのね。それで向こうへ行く時に自分が着ていた服を家にたくさん置いてったんです」
レゲエ・マニアが昂じ、来日中のミュージシャンと結婚して海を渡ったみのりちゃんのお姉さんで、町田さんの実の娘さんのことを思い出した。
「それでね、あの、汐音ちゃんの普段着にでもと思って、差し出がましいようだけど結菜の洋服をお渡ししようかってみのりと話してたんです。
一回か二回ほどしか袖を通してないから、ほとんど新品と変わらないの。
みのりはちょっと趣味が合わないみたいだし、処分するのももったいなくて、ずっと箪笥の中で眠っているのね」
「それはありがたい! 私は洋服の事がぜんぜん判らなくて、落ち着いたら少しずつ揃えていこうくらいに考えていたんです。
しかし、いざ外出しようとしたら汐音が今着ている服は、その……ダサくて外に出るのがいやだと言いだして……」
「いやとは言ってないよ! ちょっと恥ずかしいだけ」
と汐音がキッチンから大声で訂正した。
「いやじゃなくてちょっと恥ずかしいだけだそうです」
と彼女の言い分をそのまま町田さんに中継した。
「そうなのね。実はみのりが家にやってきた時のコーディネートも、ちょっとその、あの子に合ってないと言うか、みのりの年齢にはそぐわないくらい幼過ぎる感じだったの。だから汐音ちゃんの気持ちもわかる気がします」
言われてみれば確かに汐音が着るにはちょっと派手っぽくある。色使いが女子中生くらいの子が好みそうなデザインだ。
町田さんの話しでは、新しく家族に迎えられていくアンドロイドが身に着ける服は、御茶水氏の双子の娘さんのどちらか、あるいは二人で選んでいるとのこと。
彼女たちのセンスで流行りのものを買い、それを御茶水氏が事務の笹木さんに渡してアンドロイドに着せて上げているのだ。
「だから汐音ちゃんやみのりくらいの年齢の女性には、外で着るにはちょっと憚られるようなカワイイ系のファッションなんです」
御茶水氏も私と同じく女性のファッションに関しては知識が暗いだろうから、娘から渡されたものをなんの疑問も持たず、そのまま笹木さんに渡して引き継いでいるらしい。
「結菜の服は今着ていらっしゃる服よりも大人っぽいだろうし、バリエーションが多いから汐音ちゃんが気に入る物も何着かあると思うの。
サイズはみのりにぴったりだから、汐音ちゃんにもきっと合うでしょう。
見ていただくだけでもいいから、よろしければこれからお持ちしますわ」
「とんでもない! こちらからお伺いします」
「いいのいいの。私たちも汐音ちゃんと会ってお話ししてみたいし、それに汐音ちゃんが履く靴はお有りになって?」
あ。そう言えばそうだ。汐音が履けそうな外履きは私のビーチサンダルくらいしかない。
「やっぱりね。着るものには男の人でもある程度は気が回るけど、靴のことはすっぽり考えから抜け落ちているのよね」
正にその通りで、もし町田さんからの電話がなければ、出かける準備がすっかり整った後に『履くものがない!』となっていただろう。
「そちらに向かう途中で靴屋さんに寄って、汐音ちゃんに合いそうな履物を見繕ってきます。
お洋服の譲渡会が終わったら、そのままみんなでお食事に行きましょうよ? お邪魔じゃなければね」
「邪魔だなんてとんでもない! 喜んでぜひっ!」
と言うことで今日の午後からのスケジュールが決まった。
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