第25話

間の悪いことに、スマートフォンが無いことに気が付いたのは寝る直前だった。


「うっわ、忘れた」

在りかは分かっていた。舞踊場だ。さっきの練習で動画を撮影して確認した、まではよかった。ダウンストレッチをするときに棚に置いて、そのままにしてしまったに違いない。


「舞踊場もう閉まってるかな」

と、時生が言うと、群くんが言った。


「たぶんね。でも、戸次先輩に言えば鍵貸してもらえるんじゃないかな。一緒に行こうか?」

「群くぅん~」


時生が首元に抱き着くと、群くんはやめてと言って笑った。

そういうわけで二人は鍵を借り、気休めにもならない薄暗い電灯を頼りに真っ暗な夜道をとぼとぼ歩いて、舞踊場の前に来たのだった。

鍵を開けようと思って時生は驚いた。


鍵は確かに閉まっている。だけど中から物音が聞こえる。音楽だ! そして、確かに電気が点いている。

時生が横を向くと、群くんの表情も硬かった。どうやら同じことを思っていたようだ。

(先輩たちじゃない)

と、声をひそめて群くんが言った。それもそのはずだ。数分前に鍵を借りに言ったとき、戸次先輩もマヨ先輩も生方先生と和室にいた。猪原先輩は夜になる前に離脱している。深川はプリンが食べたいからとコンビニに出かけたはずだ。そして、時生たちは二人ともここにいるのだ。

じゃあ誰が?

(用務員さんかな)

と、一縷の望みをかけて時生がささやくと、

(見回りで音楽かけるのか?)

群くんがばっさり切り捨てた。

舞踊場の使用許可が出ているのはダンス部だけだ。

ということは、中にいるのは自動的に無許可の人物ということになる。

生徒なのか、部外者なのか。どちらにせよなぜここにいるのか?

群くんが呟いた。


「前に屋上にタバコがあったよね……」

「えっ! もしかして」

舞踊場の曇りガラスの前で、群くんが神妙にうなずいた。

「そいつらかもしれない」


以前、戸次先輩が話してくれたことがあった。酒やたばこで問題を起こした部員がいた。

そのせいで部停になってしまったと。


時生は全身の血がかっと熱くなった気がした。

残念そうに、かみしめるように俯いていた戸次先輩の横顔が浮かんだ。

喧嘩なんてやったことがないけれど、今すぐに飛び込んでいって、そいつらの横っ面をはたいてやりたい。不良か何か知らないが、一度ならず二度までも、戸次先輩の邪魔をさせるなんて許せなかった。


「おい、待てって。相手が複数だったらやられるかもしれない」

群くんがとめた。頭の端が少しばかり冷静になったが、時生は腕を振り払った。

しかし、群くんは冷静だった。

時生の肩をしっかり掴んで言った。

「とりあえず、相手の顔を見よう。そこのドアの陰からそっとのぞいて ̄ ̄」


時生は群くんと一緒に、出入り口の扉を少しだけ開けた。中から聞こえてきたのはピアノの音だった。

そして中にいたのは、たむろする不良ではなく、予想に反してたった一人だけだった。


(うわっ……)

金色の風が舞っていた。

(鳥……?)


大きな鳥のように思えるくらい、その人は高く高く跳んだ。ピアノの音に合わせて、重力を無視して宙に浮かぶ。繊細なガラス細工の人形のような指先がすっと天井に向かって伸びている。

跳んだと思ったら床に転がり、あおむけになった体勢からまるで操り人形のように立ち上がった ̄ ̄手を使わずに。


舞踊場の蛍光灯は白かった。何の変哲もない平凡な風景のはずなのに、異世界に見えた。その人は溢れんばかりの光の中で踊っていた。金色の髪が光を受けて舞踊場の白い壁に溶けていきそうだ。息遣いも汗も感じない。動きが滑らかで優雅過ぎて、まるで生きているものに思えないくらい、いっそ人形のようなぞっとする美しさだ。だけどジャンプの着地の際に、一見細く見える脚に筋肉の筋がぐっと盛り上がって、その瞬間生命感が色濃くなる。


人間がこんなに飛び、周り、跳ねるのか。男が踊る。地に伏せ、起き上がり、自然に息を吐くように飛ぶ。呼吸が乱れる様子も、辛そうな様子もない。人形のような整然つぃた微笑みの後ろ側が見たい。天使が実在したらこんな感じかもしれないと時生は思った。可愛いキューピッドではなくて、背中に大きな羽のついた大きな天使だ。それは可愛い小鳥という風情では決してなくて、まるで猛禽類のように力強く雄々しくて、同時に美しかった。


時生たち二人は自分たちが何をしているのかも忘れて、扉の隙間からじっと中を見ていた。

ピアノの音が止まったことが分かったのは、男がポーズをとって静止してしばらくしてからだった。舞踊場には余韻というべき静寂が訪れ、そしてようやく男の胸が上下に激しく動いているのが見えた。汗が水のように床にポタポタと垂れていた。男は首に巻いていた自分のタオルを外し、床の水分を拭き取った。

それでようやく、男が本当に生きた人間なのだという実感がわいた。


時生はその場を動くことができなかった。それほどまでに、今ここで感じたものに圧倒されていた。硬直をといてくれたのは群くんだった。群くんは、時生の肩を少し力を込めてこづいて、

「おい」

と小さな声で促した。


我にかえった時生は自分でも知らないうちにびくっと体を震わせた。その拍子に、金属製の舞踊場の扉にぶつかって、ガンッと音を立てた。

男は素早く反応した。舞踊場を横っ飛びにこちらへ近づいてくると、

「誰だッ」

地の底から這うような声で吠えながら、ドアを全開にした。


(えーっ? おれらが悪者!?)


冷静に考えればとがめるのは自分たちの方なのに、余りの迫力に悪さをして見つかったのがこちらのような気になって、時生は思わずヒイッと情けない悲鳴をあげた。


「おまえこそ誰だよッ」

群くんが時生の肩ごしに怒鳴った。金髪は少し面食らった表情になった。

「……誰だっていいだろ」

「よくない。ここはダンス部の部室だろ。何勝手に入ってんだよ」

「部室?」

「そうだ。許可がないのに入ってるのは不法侵入だろ」

「不法侵入ねえ」

金髪は舞踊場を見渡して、フーッとため息を吐いた。

「侵入されたくなけりゃーな、こんなオンボロ小屋きちんとメンテしとけよ。舞台袖の裏口のドア壊れてんぞ」

「はぁ!? あ、おい、ちょっと!」


群くんが言い返す間もなく、金髪男は転がっていたショルダーバッグを肩にひっかけてするりと正面の出口から出て行った。

出て行く間際に男とすれ違った時生は気付いた。


(……タバコのにおいだ!)

群くんも同じことを思ったらしい。時生と目を合わせるや否や、群くんがいちはやく男の背中を追いかけようとした。


「おいっ待てよ!」

「群くん! 先に舞踊場! 中、またタバコとかあったらやばい」

群くんは目を見開いた。そして一呼吸置くと、

「分かった。僕がやる。追いかけて。あいつ」


時生はレースの板があがった馬のように、勢いよく駆け出した。


残された群は、舞踊場に入った。

ぱっと見た感じ、フロアは綺麗で大丈夫そうだ。更衣室はーー。


暗幕や制汗剤のシートのゴミや誰かのシューズがごちゃごちゃとした更衣室は、一見普段と変わったところはなかった。そういえばさっきあの不審者が裏口から入ったようなことを言っていた。舞台の袖の後ろには裏口がある。暗いところにあるので普段は使っていない。


ほこりっぽい舞台袖を抜けるとドアがあった。ノブに手をかけてまわすと簡単に開いた。鍵が確かに壊れている。ドアを開けた先の光景を見て、群くんは息をのんだ。


そこにはまだ煙の出ているタバコの吸い殻が一つ、落ちていた。


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