第24話


話は夏休みの前にさかのぼる。


深川はいつものように昼飯をもって第二音楽室への階段を上っていた。ここが一番涼しいのだ。第二音楽室はほとんど使われておらず、古い楽器の倉庫のようになっている。調律のされていない古びたピアノや、板のはずれた木琴が置いてあるだけの部屋だ。もちろんそこを使おうとやってくる生徒もいない。教室の前の階段は少しほこりっぽいが、静かで落ち着くし、何よりもひんやりとしている。学校中で一番涼しい場所を探して、最終的に深川がたどり着いたのがここだった。


すると、今日は先客がいた。

階段の踊り場で、背を壁にもたせかけて長い足をだらんと伸ばしている。

(外国のでかい猫みたいだ)

と深川は感想を抱いた。睫が長くて色が白く、人形のようだ。

(ホントに外人さんなのかもしれないねぇ)


よく眠っているようなので、深川は学生服の紺色の両足をまたいで、いつもの定位置に陣取った。教室に向かう階段の上から三段目は、右側に荷物が置けて座り心地がいい。

深川はそのまま、ビニール袋からジャムサンドを取り出してかぶりついた。カスタードのクリームパンと迷ったけれど、やはり今日はジャムサンドにして正解だった。授業で疲れた頭に、糖分がじんわりと染みこんでいく気がする。甘酸っぱいジャムは舌の上から深川を癒やしてくれた。


(でも、どうして苺ジャムサンドなのに、原材料のところ、リンゴ果汁が入ってるんだろう……。)


とうとうと考えながら、パンにかじりついていると、長い足がぴくりと動いた。


(あ、起きた)


深川は野良猫でも眺めるように、その生徒を見ながらパンを頬張った。

中等部のその生徒は、ゆっくりと長いまつげを開いた。しばらくぼうっとして、無防備にのびをしながら大きなあくびをした。


そして、伸ばしていた足を座ったまま左右に開いて、上体を倒した。手のひらが床につき、肘がつき、肩がつき、胸がつき、そして腹がついて、ペッタリと上半身が床に伏せられた。

深川は素直に驚いた。考えるよりも先に、つい言葉が先にこぼれていた。


「すっげー。猫みたい」

深川はジャムパンを頬張った。猫のような生徒はビクッと体を震わせて、開脚したまま顔をあげて深川を見た。

深川はくしゃみをして鼻をこすった。何だかむずむずする。そして、ジャムパンにかじりついた。男子生徒は警戒するようにこちらを見ている。まるで野良猫が様子をうかがっているときのようだ。


「すんごい柔らかいねぇ」

と深川は言ったつもりだったが、ジャムパンが口一杯に入っていたせいで、残念ながら

「ふんほいははははひへぃ」

としか聞こえなかった。

生徒は無言で足を閉じた。

深川もそのままジャムパンを食べ続けた。そして直後、信じられないタイミングで不測の事態が起こった。甘酸っぱかったジャムパンが、どことなくしょっぱい?

「あ」

深川は手元を見て、何が起こったのかを理解した。

生徒はそそくさと立ち去ろうとするところだった。


深川はあわてて声をかけた。

「ちょっと待って!」

生徒は足をとめず、不機嫌そうに深川を一瞥した。そして、ぎょっとした顔になって凍りついた。そこに――口周りが血まみれの深川がいたからだ。


「ティ、ティッシュ置いてって……」

深川は片手で顎の下をおさえながら、懇願した。突然の鼻血だった。さすがにこんな顔で教室に戻るわけにはいかないし、何よりジャムパンの危機だ。あと3分の1は残っているのに。


中等部の生徒は、学生服のズボンのポケットから青い布製のティッシュケースを取り出した。そして、そのまますぐに深川に手渡してくれた。生徒は終始無言だったが、鼻血にてこずっていた深川にはナイチンゲールのようにさえ見えた。ありがとう、学生服の天使。

しかし、何枚かティッシュを取り出しても、あてがうのに精一杯でなかなか血が止まらない。

ナイチンゲールは眉間に深い皺を寄せながら、もたもたする深川のためにティッシュを細く千切って止血のために丸めてくれた。


「ありがほう」

深川がふがふがしながら言うと、ナイチンゲールは初めて口を開いた。

「とりあえず、そのパン置けば」

言われて手を見ると、しっかりジャムパンを握っていた。血がついたのはパッケージの外側だけのようで、深川はあからさまに安堵した。

言われた通り、床に置いたビニール袋の上にジャムパンをそっと置く。両手が使えるようになって、ようやく渡されたティッシュを鼻につめられた。


そして深川は気がついた。

「あっ! ごめん!」


ティッシュケースに赤黒い染みがついていた。手渡されたときにつけてしまったにちがいない。男でティッシュケースを持っているなんて、几帳面か潔癖症かどちらかのはずで、どちらにせよこだわりの強いタイプであることに間違いない。深川は焦った。


「いいよ。別に」

と、仏頂面のナイチンゲールはそっけなく言った。

「返さなくていいから、そのまま捨てて」

「何言ってんだよ」

何故か深川は少し怒っていた。

ナイチンゲールの言い方が、どことなく自暴自棄に聞こえたからかもしれない。

「捨てないよ。もらうけど」


深川がそう言うと、ナイチンゲールはぽかんとしていたが、ほんの一瞬だけ表情を和らげた。

彼がその場を立ち去ってから、深川は彼の名前もクラスもきくのを忘れたのに気が付いた。だけど、中等部とはいえ同じ学校だというのは確実なのだから、きっとまたどこかで会うだろう。そのときには、彼にあげる代わりの新しいティッシュケースを用意しておこうと深川は思った。



そして、コンビニに買い物に来た現在。深川はスポーツドリンクとプリンの入ったレジ袋を片手に、あのときのことをまざまざと思い返していた。

「ああ、屋上の! ナイチンゲール君!」

「……誰だそれ」

と、少年はぶっきらぼうに言った。人間違いかな? と一瞬思ったけれど、そうではない。この子を他の人間と見間違うのは難しいだろう。アヒルの群れの中の白鳥のように、少年にはどこか周りの人間とは一線を画す何かがある。慈愛にあふれた天使のように見えるのは深川のひいき目だろう。


「だって君の名前知らないから」

と、深川は正直に告白した。

少年は数刻驚いたような戸惑ったような不思議な表情を浮かべ、次に疑うような探るような目付きでこちらを見た。深川がへらへらしているので、敵意はないと悟ったのか、それともこいつは本物のバカだと見切りをつけたのか、はたまたそのどちらもなのか。とにかく、全身の毛を逆立てて威嚇していたような少年は、ほんの少し脱力してため息交じりに名乗った。


「在田眞生(ありたまお)」

「たまお?」

「ま!お!」

「あー、まおって言うの? よろしくねえ。おれは深川七音。七つの音って書いてナオト。コンビニで会うなんて偶然だね。おれ、今合宿中なんだ。もう喉乾いちゃってこっそり出てきたの。ねえそういえばマオくんって外国の人? すげーキラキラしてるよねえ」

「(キラキラって……)じいちゃんがオランダ人」

「髪とかまつ毛とかさあ、金色っぽいっていうか。染めてるわけじゃないんでしょ? え? やっぱ地毛なんだ。へー、すげー」

「じゃあ、オレ、行くから」

「お、またねぇ」


ぺこ、と頭を下げてマオくんは店内に去っていった。

入れ替わりに深川は自動ドアをすり抜ける。


アリタマオくん。


今度ティッシュケース、返しに行こう ̄ ̄。




スポーツドリンクをぐぴぐぴと飲みながら、深川は学校に戻る道を歩いた。


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