第11話  サチ 3



 朝の教室の扉が勢いよく引かれる。

 タナカは大股で歩きながら入ってきた。


 「出席をとるぞお。席につけー」


 相変わらず声が大きい。


 補習の初日から教室の机はがらがらにいていた。

 進路希望調査を進学と書いて提出した者の大半は、涼しい予備校の夏期講習にでも参加しているのだろう。


 ナオコは早く働きたいと、就職を希望していた。



 タナカの現国とカシワギの理科は、交互に一日おきの予定になっている。メインは数学と英語だった。特に英語は検定に向けた補習になる。


 黒板をルーズリーフに写す手を止めてナチを見ると、なにかに気をとられたように窓の外を眺めていた。


 英語と数学はキライなナチ。


 日本語が話せればダイジョウブ。お釣りの計算ができればOK! ナチとナオコはそれが口ぐせだった。

 ナチが好んで聴いているのは洋楽なのに。……その矛盾はなんだか可笑しくて笑ってしまう。


 そんなことを考えていると、ふっとナチが振り向いた。



 補習授業が終わると、近くのコンビニエンスストアでアイスキャンディを買って食べながら帰る。お店のアイスボックスの中でカチコチに凍っていたアイスキャンディなのに、暑さですぐに溶けてくる。


 棒を伝って指にまでとどく冷たくて甘い水。


 ナチとふざけながら食べるアイスキャンディは夏の味がした。


 いつまでも、この夏が続けばいいと思っていた。




***




 補習の最終日は朝からひどく蒸し暑かった。


 白くて大きな入道雲は、絵に描いたような真夏の空を演出している。額の中にこの空を入れることができるのなら、コンクールで賞を取ることなどわけがないくらいに完璧だ。


 「折り畳み傘でも持っていきなさいよ」とママ。

 「こんなにいい天気の日は、突然に崩れるかもしれないわよ」と。


 だけどもうとうに、どこかの荷物の中に紛れていた。



 三時間目の授業が終わるころには、黒い雲は空一面を覆っていた。強い風が吹いている。低い雲の流れてゆく速さでわかる。


 窓を開けて腕を伸ばし、細かい雨が降りだしているのかを確かめた者がいた。開けた窓から入ってきた空気は、冷やされた教室の中の空気と混じり合う。


 雨の降る匂いがしていた。


 昇降口で上履きを脱いだときに、灰色のコンクリートの上にぽつぽつと黒い滲みがつくられて、あっという間に真っ黒に染まった。


 雨に備えていた者は、色とりどりの傘をそれぞれに開きながら昇降口から出ていった。傘を持たずに走ってゆく者もいたが……。


 ナチは傘を持ってきてはいなかった。わたしも置き傘さえない。なんとも用意の悪いわたしたち。

 顔を見合わせて途方に暮れて、靴箱の前に座り込む。


 「な、ん、で傘、持ってこないかなー?」


 リズムをつけてふざけた口調のナチ。

 黒い髪が肩の上で揺れる。


 「ナチもね」


 「サチが持ってくると思った」


 「ナチが持ってくると思った」


 雨は瞬く間に本降りになる。


 補習を受けていた生徒で残っているのは、傘がなくて帰れないわたしとナチだけ。


 あかりを点けているのに暗い昇降口。

 床は湿気でべとついている。腕や脚やスカートにも湿気はぺたりとまとわりついた。

 ナチとわたしの声。クスクスという笑い声。

 廊下は昏い海の底に変わり、這うように響いては消えてゆく。

 ほかには雨の音だけしか聞こえない。


 まるで、この世界にはわたしたちしかいないみたいに。

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