豊穣の女神の甘い誘惑

 大英雄を喫茶店から、主神であるオーディンの宮殿まで送り届けた後、ラティは理由もなく宮殿内部をうろつく。 

 そうしていると、中庭で魅力的な女性がくつろいでいるのを発見した。


 豊穣の女神であるフレイヤだ。

 向こうもラティの存在に気がついたようだ。

 黄金の柱にもたれかかり、ラティに手を振る。トロンとした目元をしているから、かなり酒が進んでいる様子。

 月が上ったばかりの時刻だというのに、これだけ飲んでいるのだから、さすがとしか言いようがない。

 

「あー、可愛い子リスがいるぅ。こっち来て、あたしと一緒に蜜酒飲間ないー?」

「蜜酒!? うはぁ、喜んで!」


 ラティは美しい女性が大好きだし、甘くて美味しい酒も好む。

 つまり誘いを断る理由がないのである。


 フレイヤがくつろぐ敷物の隣に足を組んで座り、その辺に転がる金の杯を拾って適当に自分で蜜酒を注ぐ。

 口に運び「おおう」とうめいたのは蜜酒の美味しさと、いかにもフレイヤらしいお酒のチョイスだったからだ。

 甘く優しい口当たりだからどんどん飲めてしまう。だけどたった一口でもクラリとするほど度数が強いから、アルコールに弱い者ならすぐに酔いつぶれそうだ。

 そして、そうなったら最後、彼女にお持ち帰りされてしまうだろう。


「あいかわらずで安心したよー」

「えー? なんの話ー?」

「内緒!」

「ふふふ。リスは最近つれないよねー。しかも世界樹の葉っぱの影でコソコソしちゃってさー。イヤらしい事してんでしょー!!」

「イヤらしいことなんかじゃないよ。君には伝え忘れちゃってたんだけど、世界樹の真ん中あたりに喫茶店を開いたんだ。今日もお客さんに美味しいお茶を入れてあげた!」

「もしかして、さっきあんたがこの宮殿に連れて来ていた人間?」

「そうそう。普通だったらワルキューレがここまで連れてくるんだけど、時々はぐれる人間がいるじゃん? そういう変わった人と話すのが楽しいんだ!」

「え、ずるーい! 詳しく聞かせなさいよー!」

「どこから話そうかな」

「全部よ全部! あたしもあんたも飽きるほど時間があるんだからさー、ちょっと話すくらいいいでしょ!」

「そうだよね。まーいいか」


 思い返してみると、喫茶店を始めたことや、そこでの活動を誰かに話すのはこれが初めてだ。だからつい話が弾む。

 しかも相手は聞き上手なフレイヤ。度数のアルコールも手伝って、怪しいで延々と話をしてしまう。

 あまりにも心地よい時間だったから、このまま彼女に持ち帰られてもいいかな、と適当なことを考えてもいた。


 ––––––だから心底驚いた。


 気がつくと豪華な中庭ではなくオーディンの宮殿の門の前に座り込んでいたし、頭から浴びせかけられた水がやたらと冷たく感じたし、隣にいたはずのフレイヤはいつの間にかどこかに消えてしまっていた。

 ラティは都合の良い夢でも見えていたんだろうか?


「……あれ? フレイヤはどこ?」

「フレイヤ様なら昨日、お前さんを中庭に置き去りにして、人間の恋人の元に行ったぞ」

「置き去り!?」


 どこから声がするのかと辺りを見回すと、門の上にワタリガラスが一羽乗っていて、ラティの方を見もせずに声高く「アホーッ!」と鳴いた。

 このワタリガラスはオーディンのしもべだったと記憶しているが、こんなところでラティの相手をしているのは、彼の主人に命じられたからなんだろう。


「フレイヤ様はニオイスミレスイートヴァイオレットの香水を望んでおられた。人間の植物に詳しいお前さんなら、問題なく入手できるだろう? ニオイスミレのエキスを抽出したなら、彼女に届けるがいい」

「分かったけど、なんで君が偉そうに指図するんだよ。腹が立つなー!」

「オーディン様の美しい中庭でグースカグースカ寝るような者など、雑な扱いで十分だ。ほらさっさと帰れ」

「はぁ……、起きてそうそうこの扱いだもんなー。じゃあね」


 ワタリガラスの甲高い声がやたらキンキンと耳に刺さり、だんだん腹が立ってくる。

 しかし、主神であるオーディンの僕に対して怒っても、なんの得にもならない。

 ラティは門の前から早々に立ち去った。


「それにしてもニオイスミレかー。私の植物園には植えてないんだけど、どうやって調達したものかな」


 ボケた頭ではうまく思考が回らない。だけどなんとなく最近ニオイスミレについての話を聞いた気がして、必死に記憶を辿る。


「えーと、どこで聞いたんだったかな。あぁ!! そうそう、大英雄殿から聞いたスミレのシロップが、ニオイスミレを使うんだった!!」


 フレイヤがスミレの香水を望んだのは、今がニオイスミレが咲く時期だと知っているからなんだろう。


 ラティはミズガルズの地理を思い出そうとし……失敗する。


「うーん。香水用となると、結構な量が必要になるはずだよね。ミズガルズの人間に直接聞いてみようかな」


 ラティは思い立った後、すぐに行動する。

 まずは自分の植物園に行き、艶やかなトマトや、パンパンに実ったトウモロコシ、先端が鋭いオクラなど、人間の舌に合う野菜を複数収穫する。

 喫茶店に戻ってからも、風呂敷に必要な備品をまとめ、カウンター下の棚を勢いよく開く。


 棚の内部はぐるぐると渦を巻き、この中に入ったならタダでは済まなさそうな雰囲気を醸し出している。

 誰もが突入を嫌がりそうな穴に、ラティは躊躇なく飛び込む。


 ––––ラティが出て来た先は、人間の民家の一室だ。


 舞い上がるホコリに咳き込みながら、部屋の窓を全て開ける。


「うわぁ、人間用の家ってなんでちょっと掃除しなかっただけで、こんなに空気悪くなるんだ! 暮らしがハードすぎるよ」


 建物二階の住居部分から、一階の喫茶店に移動する。

 こちらもやはりホコリが舞っていて、この状態で飲食店をやっては、苦情が殺到してしまいそうな状況だった。


 実はラティはミズガルズにも喫茶店を開いていて、世界樹の喫茶店と繋げているのだ。とは言っても、二店舗を同時に回すのは不可能に近く、どちらかを長期間で休業状態としてしまいがちだ。

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