都市伝説
遠部右喬
第1話
連日の残業に、男は草臥れきっていた。繁忙期の忙しさに加え、半年前に人事異動でやってきた上司とは反りが合わない。こんなのはよくある話だ、と自分を納得させる段階はとうに過ぎていたが、どうしたらいいのか分からない。
男は最終電車を待ちながら、ベンチに腰掛け、ホームに設置されている時計をぼんやりと眺めた。針は十二時五分を指している。
やはり今日中に家に帰ることは出来なかった……いや、もう今日じゃなくて、昨日か。一日が二十四時間だなんて嘘だろ。俺の一日はまだ終わってないぞ。そう考える男の顔に浮かんでいるのは、憤りではなく諦めだった。
余りにも疲れているからか、明日は久しぶりの休みだというのに、まるで気が休まらない。会社への不満すらも浮かばない。
極度の緊張と過度な弛緩に蝕まれた男の虚ろな目が、線路に吸い寄せられる。
(危ないな)
何処か客観的に己を眺めているもう一人の自分が、心の奥で警鐘を鳴らす。だが、その音は余りにも遠く、何重にも綿で包まれているようだ。立ち上がる気力もないことは、男にとって寧ろ幸いだった。
男は無意識に枕木の数を数え始めた。
(一、二、三……)
視線だけを動かし、ゆっくりと数えていると、視界の端で白い何かが蠢いていることに気付く。
男の心臓がドクン、と跳ねた。横目だった為、はっきりとは分らなかったが、それは……人の脚のように見えた。
線路に人が居るなんて見間違いだ、男は自分に言い聞かせる。コンビニの袋とか、不届きな誰かが捨てたビニール傘とか、多分そういうものだ。きちんと確認すれば、何てことない物の筈だ。そう思い込もうとする男の呼吸が乱れる。どれ位の時間が経っただろうか、男は先程とは異なる違和感を覚え始めた。そして、違和感の正体に気付いた時、彼の心臓が再び跳ねた。
平日の深夜とは言え、ホームに何の気配も無いのは何故だろう? 駅の職員も、酔っ払いも、自分と同じ様に疲れ切ったサラリーマンも居ないどころか、風の音すらしない。待てども来ない最終電車。まるで、目に見えない膜で、世界から隔絶されたようなホーム。
先程までと比べ物にならない魂の奥底から滲む恐怖に、男の口中に酸っぱいものが込みあげ、冷汗が背を伝う。
ここは本当に俺の知っている駅か?
どうして時計の針は、十二時五分から動かないんだ?
俺は本当に、まだ生きてるのか……?
再び線路を横目にすると、相変わらず下半身がレールの上を飛び跳ねている。もう、見間違いだと自分を誤魔化すことも出来ない。襲われるかもしれない恐怖に、男の身体が縮こまる。
だが、リズミカルに飛び跳ねる下半身が男に近付く気配は無かった。次第に落ち着きを取り戻した男はゆっくりと顔を上げ、じっくりとそれを観察した。
(幽霊? いや、都市伝説で聞いたことがある……テケテケ、だっけ。待てよ、あれは上半身だけの怪異だったか。それに、女だって聞いた気もするぞ)
見た処、下半身は若い男のものだ。ハーフパンツから伸びた膝下は長く、しっかりと筋肉が付いている。履いているスニーカーも洒落ていて、如何にも今時の若者といった感じだ。
(あれが履いてるの、もしかしてエアジョーダン1か。まさか、復刻版じゃ無いなんて言わないよな……よく見りゃハーフパンツもナイキじゃん。ストリートでブイブイ系ってか)
下半身は時折、臓物を覗かせつつとんぼ返りをしたり、ステップを踏んだりと、運動神経を誇示する様に線路を飛び跳ね続けている。
恐怖が薄れた男の胸で、どす黒い感情が頭を擡げ始めた。
(どうせああいう奴は、公園でスケボーだのパルクールだのって、女の子にキャーキャー言われてたんだろ。通行の邪魔だっつーの。あーはいはい、かっこいいかっこいい)
下半身だけの存在を持て囃す女性が居るかどうかは、最早男にとって重要ではない。
(お前等みたいなのが屯してると、深夜のコンビニに寄り辛いんだよ)
仕事あけの疲れた体を引き摺る様に帰宅する途中で、夜食の調達に立ち寄るコンビニという、細やかな楽しみを奪う憎き輩。偏見は、男から一時恐怖を忘れさせた。
唐突に、脚の動きが止まった。
(やっぱり気付かれてたか! ヤバい、襲われる!)
男は焦るが、下半身の爪先は、男の居るホームでは無く線路の先を向いている。つられて線路の先に目を向けると、ぼんやりとした何かが、脚に近づいて来ている事に気付いた。程なく、男の目がそれの形をはっきりと捉える。
それは制服と思われるスカートを履いた、ほっそりとした少女の下半身だった。
(え? 待ち合わせ? まさか……デート?)
人を散々ビビらせておいて、自分達はデートか、リア充で結構な事で、と、男の苛立ちが増す。だが、駆け寄るかと思われた少女の下半身は、若者の下半身の1m程手前で動きを止めた。
(なんだ? 様子がおかしいな)
下半身達の間には、奇妙な空気――緊張感――が流れていた。
「あの、すいません」
「はひっ!」
突然、足元から聞こえてきた声に、男は引き攣った声を漏らす。恐る恐る視線を落とした男は、再び引き攣った声を漏らすことになった。
男の視線の先で、セーラー服を着た上半身だけの少女と、もう一人、Tシャツを着た上半身だけの青年が這っている。血と泥に塗れ、内臓を引き摺っている彼等の姿は、明らかにこの世の者では無いと判る。男は、足元から視線を逸らすことも出来ず、震え続けよりなかった。
少女の口元が動いた。
「驚かせてすいません」
少女は、乱れたロングヘアの隙間から充血した眼で男を見上げ、頭を下げた。その弾みで、額をコンクリートの床に強かに打ち付けた「ゴン」という鈍い音が、ホームに響く。
男は思わず、少女に声を掛けた。
「ああああ、あの、凄い音したけど、だだ、大丈夫ですか?」
「心配してくれるの? ありがとう、優しいのね」
少女は頭を上げ、血塗れの顔に微笑みを浮かべた。ちらりと覗く前歯にも、血が絡んでいる。
(ひぃ、笑っても怖い……)
それでも、意思疎通が可能と判明したお陰か、男に落ち着きが戻って来る。それを察したらしい若い男の上半身が、思いの外気さくな調子で話し掛けた。
「あのさ、突然で悪いんだけど、あんたに頼みがあるんだよね」
青年の顔も、少女と同様に血と泥で汚れ、おまけに左目も潰れていて、かなり恐ろしい見た目だ。黙り込んだ男の顔を、青年が下から覗き込んだ。
「なあ、おっさん、聞いてる?」
「あ、はい、聞いて……ます。あの、頼みって、なんでしょう?」
おっさん呼ばわりされ、内心ムッとしつつ丁寧に答える男に、青年が頷く。
「おっさんに、審判やって欲しいんだよね」
「は?」
青年の言葉に男がきょとんとしていると、少女が説明を始めた。
「私、最近この辺に越して来たんだけど、この人と縄張りが被っちゃってるんです。それで、どっちがより優秀なテケテケか勝負するから、おじさんにジャッジして欲しいの。で、敗者は縄張りから出て行く。そういうルールなの」
「一つの縄張りに、二体のテケテケは要らない……おっと、逃げようとしても無駄だぜ。線路にいる下半身達、あれは俺等の相棒なんだ。おっさんが逃げたら、何処までも追いかけてくぜ。まあ、結界を張ってあるし、逃げられないんだけどな」
青年の言葉に少女が頷く。
「この中では時間の流れが違うから、外の世界ではほんの一瞬のことだし、おじさんに危害を加えたりもしません。勝負が終われば結界を解くって、約束します」
男の脳が、人生最速で情報処理を行う。
(おじさん……女子高生からすると、三十歳って、やっぱりおじさんなのか……ていうか、こいつらは本当にテケテケなのか。テケテケの数え方って、『人』じゃなくて『体』なんだな。それに、優劣なんてどうやって決めるんだ? 縄張りとかあるの? いや、それより……)
男は肝心な事を口にする。
「その、もし、審判をお断りしたら……」
テケテケ達はニタッと笑った。
「一生、この駅から出られないね……」
シンクロした返答に、男は頷かざるを得なかった。
「……わかりました。で、勝負の方法は?」
「まずは、怪異らしく恐怖対決からだ」
「いやあの、『まずは』って、君達、何本勝負する気なの?」
どうやら、何方がより男に恐怖を与えるかを競うという勝負らしい。危害を加えないって言ったのに……という男の呟きはあっさり無視される。
じゃんけんの結果、先攻は青年に決まった。
ふ……と、ホームの照明が薄暗くなる。
蛍光灯の一つがちかちかと明滅し、生ぬるい空気に鉄臭さと呻きが混じる。男が呻きの聞こえる方、ホームの端に顔を向けると、青年の上半身が血の跡を残しながら、ずるずると音を立て這い回っている。
びちゃり……一際濡れた音を立て、上半身は動きを止めた。青年が、伏せていた顔を徐々に上げる。青年の隻眼と男の眼が合う。唐突に青年の這い寄るスピードが上がった。青年は男の足元まで辿り着くと、げらげらと嗤い乍ら、血塗れの手で男の足首を掴んだ……。
男が、重々しく口を開く。
「七十三点」
「嘘だろ、点数低くね?」
ホームの照明が元に戻る。青年は男の足首から手を離し、不満そうに唇を尖らせ溜息を吐いた。
「いや、悪くは無いよ? 最後の笑い方も、狂気を感じさせて中々怖かった。ただ、全体的に、君自身のオリジナリティが感じられないって言うか……」
「オリジナリティて」
青年が唸り乍ら腕を組んだ。その弾みで、青年の腹部からこぽり……と血が零れる。
「君、かなりガタイが良いし、オラオラ系っぽいっていうの? そもそも、ピアスやらTシャツやらタトゥーやら、おしゃれ過ぎなんだよ。そのスマートウォッチ必要? 歩数でも計るの? 近距離だと、こっちもそう言う処に目が行っちゃうんだよ。ホラーの怖さより、カツアゲされそうな怖さっていうかさ。恐怖がぶれるんだよね」
「えぇ……テケテケだからって、好きな服着たらいけねーの?」
眉を八の字にする青年が気の毒に思えてきて、男はアドバイスした。
「いや、ルックスを生かした表現を考えれば良いんじゃないかな。ある程度相手と距離を取って、ガタイを生かした小道具を使ってみるとかさ。キャラクターとしての背景を感じさせるのもいいかも。いかにもバスケとかしてそうだから、ボールを周りで跳ねさせるとかさ」
男の言葉に青年は溜息を吐き、首を振った。
「ボール使うと、透明ドリブラーとネタ被りになるから……」
「そうよ、それこそオリジナリティに欠けるじゃない。それに、都市伝説が学校の怪談をパクるなんて、プライドが許さないんだから」
少女が、何て酷いことを言うの、とばかりに男に非難の目を向ける。
「でも、学校の怪談にもテケテケって登場す……すいません、何でもないです……」
テケテケ達に睨まれ、男はそれ以上言葉を重ねることを止めた。
「まあいいわ。今度は私の番ね」
ブツブツと、スケボーに乗って登場てっのはどうだろう、と呟く青年を無視するように、再びホームの照明が薄暗くなる。
ずる……ぺた……水っぽいものを引き摺る音が、男の座るベンチの目の前の線路から聞こえて来る。男の視線の先で、芋虫の様なものが、一本、また一本とホームに這い上る。所々赤黒く汚れたそれは、人間の指だ。指は止まること無く蠢き、手の甲、右肘、左肘と、ゆっくりとその全貌を露にしていく。やがて頭部から肩、そして制服姿の千切れた胴がホームに姿を現す。乱れた髪の隙間から覗く、血走った少女の眼が男を捉えた。少女は肘を使い、男ににじり寄る。その姿が、引き摺った臓物が残す夥しい血の跡ごと忽然と消えた。驚愕し、きょろきょろと左右を見回す男の動きが止まる。男の肩越しに聞こえる、荒い息遣い。唐突に男の肩が掴まれる。男は掴まれた左肩を横目で確かめると、そこには男の顔を覗き込む血走った眼が……。
「九十五点」
少女はガッツポーズを決めると、そのままベンチから転げ落ちた。
青年が唇を尖らせる。
「おっさん、女子高生相手だからって、点数甘くないか? 脅かしのド定番しかやってないじゃん。オリジナリティはどうしたよ?」
あからさまに不満気な青年の言葉に、男は反論した。
「ド定番ってことは、多数の人が恐怖を感じるってことだろ? 敢えての定番なら、オリジナリティを凌駕することもあるさ。ああいうゆっくり姿を現す演出は、驚かされるって知ってても怖いよ。特に、ロングヘアから覗く恨みがましい眼は秀逸だった。乱れた長い黒髪、それだけで恐怖度が上がるね。難点は時間が掛かるってことかな。失神したり心臓発作を起こしたりで、最後まで見られない人も居そうだ」
「ジャッジがそう言うんじゃ、しょうがない。取り敢えず俺の一敗だ。チッ、俺も髪伸ばそうかな……どうしたんだ? いつまで転がってるんだよ?」
青年は苦虫を噛んだような顔で、隣に転がる少女を見た。
「ゼー、ゼー……瞬、間移動、も、ゆっくり、動くのも、疲れ、る、のよ……腕、だけで、ホーム、上るとか、超辛い……瞬間移動なんか……しなきゃ、よか……オエッ」
「君、もっと体力つけた方がいいよ……」
「しゃあねぇな、一寸休憩すっか」
次の勝負は、少女の回復を待って行われることになった。暫しの後、呼吸を整えた、少女が青年と男に頭を下げる。
「待たせてごめん。もう大丈夫、勝負を続けましょ。次は、ガチバトルよ」
「っし、かかってこいやあ!」
テケテケ達の遣り取りに、男が慌てて口を挿んだ。
「一寸待ちなさいって、かかってこいやあ!……じゃないよ、相手は女の子だぞ。君も何言ってんの、さっきあんなに息を乱してたのに、男相手に勝てる訳ないだろう」
少女はニタッと笑った。
「ご心配ありがとう。でも大丈夫。戦うのは私達じゃなく相棒達、下半身よ。私、足技にはちょっと自信があるの。体力だけが戦いの全てじゃないってことを教えてあげるわ」
「面白い。なら、手加減は無しだ」
「急に、バトルものの漫画みたいなこと言い出したね……」
線路に佇んでいた下半身達が、軽やかな動作でホームに飛び乗り、それぞれ屈伸やジャンプで、男にやる気とコンディションをアピールする。
男の合図と共に、バトルが始まった。
先に仕掛けたのは少女の下半身だ。青年の下半身との距離を一気に詰め、右脚を高く上げた。捲れ上がったスカートから覗くショートスパッツに反射的に舌打ちした男と青年を、少女が「やらしい!」と、血走った目で睨みつける。
青年の下半身は落ち着いた様子で、振り下ろされた少女の踵下ろしを後ろに飛んで躱し、着地の勢いを利用して身体を捻ると、地面すれすれの足払いを繰り出した。少女は膝を撓め垂直に飛び上がると、真下を通過する青年の右脚に向かい、勢いよく膝を伸ばす。横に転がり少女の蹴りを躱した青年はすぐに身を起こし、少女の腰に向け左からのミドルキックを放つ。瞬時に開脚して沈み込んだ少女の腰の直ぐ上の空間を、青年の脚が薙ぎ払う。
二体の下半身は一旦距離を取り、互いの隙を伺う。体格と力で有利な青年と、柔軟なバネを生かす少女は、今の処互角に見えた。
上半身達が不敵に笑う。
「そんな細い脚で、中々やるな」
「貴方こそ、思ったより身軽ね」
「そんな事より、俺、血塗れなんだけど……」
全身を覆うぬるつく感触と酷い臭気に、男がうんざりとした顔になる。下半身達の激しい動きであちこちに飛び散った血や体液は、男の座るベンチにまで及んでいた。
少女が慌てて胸ポケットからハンカチを取り出し、男に差し出す。
「ごめんなさい。でも、暫くしたら消えるし、後も残らないから。よかったら、これ使って」
「そうそう。マジックで使う消える血みたいなもんだと思って、もうちょい我慢してくれよ」
「絶対、こんなに生臭い小道具なんて無いでしょ……」
少女から受け取ったハンカチの重みに、男が手元に目を落とす。案の定、血でべったりと濡れそぼっているそれを、男は丁寧に畳み直し、「お気持ちだけで」と言って少女に返した。
その間も下半身達は戦い続けている。生のストリートファイトなど見る機会の無かった男は、テケテケ達の手に汗握る熱い展開について行けない。
「あの、思った以上に本格的なんだけど」
男の言葉に、少女が微笑む。
「ガチバトルって言ったでしょ。安心して、金的蹴りだけは勘弁してあげるわ」
「女子が『金的』とか言うな!」
男と青年の同時の叫びに、少女は肩を竦めた。
彼等の遣り取りを聞いているのかいないのか、今度は青年の下半身が仕掛けた。右脚を軸に、少女の膝の横に鋭い蹴りを放つ。少女は一歩下がり、身体を沈め左脚に力を込めると、右脚を前方に思い切り伸ばした。少女は開脚しながら青年の股下を潜り、青年の背後に回り込む形で蹴りを躱すと、開脚したまま重心を移動させ、青年の右脚に己の左脚を巻き付けた。バランスを崩し、ぐらついた青年の脚が倒れ込む。その機を見逃さず、少女の下半身は両足で青年の右膝の関節を固めた。
(決まったか!)
少女と男が、彼女の下半身の勝ちを確信したその時、
「まだだ」
相棒達の戦いから目を離さず、青年の上半身が呟いた。
青年の下半身が、自由が利く左脚の膝を曲げ、立てた膝を横に寝かせ始めた。ゆっくりと青年の下半身が左に捻られ、じわじわと少女を絡みつかせた右脚が持ち上がる。やがて、青年の右脚は、少女を絡みつかせたまま完全に宙に浮いた。青年は己の右脚を思い切り地面へ振り下ろす。地面に激突する直前の危ういタイミングで、少女は青年から離れた。両者は互いに地面を転がる。先に飛び起きたのは青年の下半身だった。
飛び起きたばかりの少女の下半身に、青年の下半身が足払いを掛けた。辛うじて避けた少女がバランスを崩す。青年はその隙を見逃さず、少女の左足の甲を己の右足で踏みつけ、身動きが取れなくなった少女の腰に左脚を撓らせる。空気を焦がすような鋭い膝蹴りに、男と少女の上半身は、思わず顔を伏せた。
何時まで経っても聞こえない衝撃音に、男と少女が恐る恐る頭を上げると、少女の腰のすぐ脇で、青年の膝が止まっている。
男と少女が、青年に目を向けた。
「ふん」
青年が鼻を鳴らす。男が慌てて「勝者、オラオラ君」と宣言し、下半身達が離れる。オラオラじゃなくてテケテケだよ、と憤慨する青年に、少女が小さな声で尋ねた。
「どうして……?」
「縄張りが欲しいだけで、お前が嫌いな訳じゃないし。体格が不利でも真っ向勝負する度胸は、悪くないぜ」
「…………」
少女が青年を見詰める。彼等の遣り取りを横目にする男に気付き、少女が慌てて青年から目を逸らした。何も気付いていないらしい青年は、意気込んで口を開いた。
「これで一勝一敗だな。よし、次の勝負は……」
「あのさ」
青年の言葉を男が遮った。
「二体で協力って、したらマズいの?」
テケテケ達が男に反論する。
「だから、一つの縄張りに二体は要らないんだよ」
「そうよ。そういうルールなんだってば」
男は、君等の業界の基準は分んないけど、と前置きし、腕組みをした。
「もっと柔軟に対処できないもんなのかねえ。世の中には、沢山のカップルがいるじゃない。君達、歳も近そうだし、カップルって設定でテケテケやったら駄目なの? ルールは大事だけど、縛られ過ぎてたら何にも出来ないでしょ。うちの会社の上司もそうなんだよ。今日もさぁ……」
延々と続く男の愚痴など耳に入らない様子で、テケテケ達は互いに見詰め合った後、何方からともなく目を逸らした。
「……な、何言ってるの? そんなこと、その、無理に決まってるでしょ」
「そうだそうだ。俺達別に付き合ってる訳じゃないんだ、仮面夫婦とかそういうのは、何か、多分、良くないぜ」
(いや、どっちも顔真っ赤……真っ赤? 真っ黒?)
動揺するテケテケ達に、男があっさりと言った。
「じゃあ、付き合っちゃえばいいじゃない。まあ、嫌ならしょうがないけど。余計な口出しして悪かったね、次は何の……」
「別に、嫌じゃないっていうか……」
「え?」
男の言葉を、青年がもごもごと遮った。
「だから、別に、嫌なんて言ってないっての」
青年はぶっきらぼうにそう言うと、少女を振り返った。
「俺はおっさんの案、良いと思う。テケテケ同士で協力ってのは、アリっていうか。お前、センスと根性あるし、体力無い分は俺がカバーするとか、そういうのも悪くないかなって」
少女は無言で青年を見詰めた。
「さっきも言ったけど、お前が嫌いって訳じゃないし、寧ろ、今回のことで知らなかった一面を見れたって言うか、体張ってて、応援したくなるって言うか。それに、お前、何気にずっと俺の右側にいるじゃん。俺の左目が潰れてるから、気を使ってくれてるんだろ? いい子だなって思う、ってか……つまり……」
「……つまり?」
青年が勢いよく頭を下げた。ごん、と、地面に額を打ち付けた鈍い音がホームに響く。
「俺と付き合って下さい!」
少女が、おろおろと周囲を見回す。やがて、消え入りそうな声で
「お友達から、なら……よろしくお願いします」
顔を赤黒くした少女の答えに、青年は顔を上げ、照れくさそうに笑った。いつの間にか彼等の傍まで来ていた下半身達が、互いに右上段蹴りの姿勢で一度脛を合わせ、華麗にステップを踏む。
(えっ、何、急に? カポエラ? あ、ハイタッチ的な?)
充満する青春の甘酸っぱい空気の中、男の目がどこか遠くを眺めた。
「あの、俺、もう帰っても良いかな」
「ごめんなさい、すぐに結界解くわ」
少女の言葉通り、男は途端に空気が軽くなるのを感じた。ホームの時計の針は、十二時六分を指している。血塗れだった男の身体も、いつの間にか綺麗になっていた。
「巻き込んで悪かったな、おっさん。それと、ありがとう」
「いつか、おじさんの耳にも私達の噂が届く様に、頑張るわ。おじさんも、お仕事頑張ってね」
「いや、君等はあんまり頑張らないでいいからね」
男の足元で、二体のテケテケが満面の笑みを浮かべていた。
(やっぱり、笑ってても怖いな……)
テケテケ達の姿がゆっくりと空気に溶けた。
遠くから、電車の近付く音が聞こえて来た。誰も居ないホームに、間延びしたアナウンスが流れた。
(やけに音割れしてるな、壊れてるのか? あ、まさか、あいつ等のせいか? いくら都市伝説でも、物を壊すのはやり過ぎだろう)
もしもまた会うことがあったら、あいつ等に言って聞かせるか、と男は考え、首を振った。悪いやつらでは無かったが、再び会うのは御免だ。男の口元に苦笑が浮かんだ。
雑音混じりの不快なアナウンスに被るように、電車がホームに滑り込む。
男が乗り込むと、間もなくドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。平日の最終電車ということもあってか、男以外に乗客の姿は無い。
男は座席に腰かけた。真っ暗闇な車窓には、男の疲れた顔が奇妙に歪んで映っている。だが、男の心はどこか晴れ晴れとしていた。
(帰ったらビール……いや、まずは風呂だ。シャワーじゃなくて、久しぶりに熱いお湯でも張ろう)
それから、冷凍の枝豆でも食いながらビールだ。明日は休みだし、こんなおかしな目に遭ったんだ、偶には自分を労ってもいいだろう。男は微かに笑い、眼を閉じた。
うとうとしかけた男の耳に、雑音混じりの車内アナウンスが流れ込んだ。
「ご乗車ありがとうございまぁす。この電車は最終便んん、あっち行きでぇす。ご乗車の皆様は、ご愁傷さまでえぇえぇぇす。次の停車駅はぁ、きさらぎ駅~、きさらぎ駅ぃ~」
男は目を開けた。そして、長い一日がまだ終わらないことを悟った。
都市伝説 遠部右喬 @SnowChildA
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます