9(ここは、小さな神様がいるところ)

 ――時々、小さな箱の中に入りたいと思うことがあった。

 膝を丸めて横になったとき、ちょうど体がぴったり収まるくらいの、小さな箱。自分だけがそこに入れて、それ以外の何も入れないくらいの、小さな箱。

 何の物音もしなくて、何の光もなくて、じっとしていると世界がもう終わってしまったのかどうかさえわからなくなる。

 わたしはその小さな箱の中に、ただ静かに横たわっている。目をつむっているのか、開けているのか、自分でもわからない――

 そこでは、自分が自分でいられて、自分以外の何者になることもできない。



「後悔しているのかね?」

 と、その猫は言った。

 ――猫、猫のはずだ。ちょっと太めの、不機嫌そうに眉間にがよった感じの猫。いわゆるブサカワというタイプのやつ。それは猫という以外に、どういう言いかたもできそうにない。

 そういえば、人間の心は猫に似ている、ってお姉ちゃんは言ってたっけ――と考えたところで、はたと首をひねる。

 ここは小さな箱――クローゼットの中で、わたし以外には誰もいないはずだった。実際、あたりは真っ暗だし(そのわりに猫の姿ははっきり見えるけど)、ほかには誰の、何の気配もしない。

 そこで、わたしは気づく。つまるところ、これは夢なのだ。だったら、ここに猫がいる理由も、しゃべれることも、暗闇で姿が見えることも、全部説明がつく。たぶん、わたしはいつのまにか眠ってしまったんだろう。

 ――にしても、ここはわたししかいないはずの場所なんだけど。

「私は神様じゃからな」

 ――神様?

「そうさな、クシカタミノヒコノミコトじゃよ」

 神社に祀られている、小さな箱の神様のことだ。

 とはいえ結局のところ、ここはわたしの夢の中でしかない。つまりこの神様にしても、わたしのイメージでしかないのだ。ちょっと偉そうなしゃべりかたをするのも、わたしのイメージする神様がそうだからでしかない。まあ、神様の口調があんまりファンキーだったりフレンドリーだったりするのもどうかとは思うけど。

 もっとも、太めでくしゃくしゃに丸めたティッシュみたいな顔をしたその猫の姿は、あまり神様らしくないし、威厳にも欠けている。ありていに言ってしまうと、ありがたみというものがない。

 わたしがそんなことを思っても、猫の神様は何も言わなかった。手をなめては、猫っぽく顔を洗っている。神様はまひろほど勘が鋭くないのかもしれない。

 それで、わたしは訊いてみた。

 ――さっき、後悔してるかって?

「そのとおり、君は後悔してるんじゃないのかね」

 ――何を?

「姉が死んだことについて、じゃよ」

 ――――

「後悔しているんじゃろ?」

 それは、確かにそうだ。わたしは姉の死を、いまだにちゃんと受けいれられていない。そのことを心のどの場所に置いていいのか、まだわかっていない。

 同時にそれは、わたし自身の心の置き場所がわかっていない、ということでもあった。

「ならば、それが正しいのじゃろうな」

 ――正しい?

「問題は解決することのほうが少ない。もしも今、それでバランスがとれているのなら、それで正しいのじゃろう。人はすべての傷を癒せるわけではない。時には、傷を傷のまま抱えていく必要もある」

 ――――

「何にせよ、それは君自身の問題じゃ。あるいは、その問題が君自身だとも言える。せいぜい、悩み、苦しみ、考え続けることじゃ。それこそが、この世界の意味であり、人間らしさなんじゃからな」



 目が覚めたとき、わたしはクローゼットの中にいた。

 どこにも猫の姿なんてないし、声も聞こえない。そこにあるのはいつもと同じ、静寂と暗闇と、それから自分だけ。

 やっぱりあれは、夢だったみたいだ。その夢の記憶もあっというまに曖昧になって、水に滲んだ文字が読めなくなってしまうみたいに、思い出せなくなる。

 わたしは少しだけ、息を整えた。

 こうやってわたしがクローゼットに閉じこもるようになったのは、姉が死んでからだった。姉の死は、わたしに深くて大きな傷を残していった。その傷はたぶん、永遠に残り続けるのだろう。

 清島さんは、自分には目に見える傷が必要なんだと言った。そうやって可視化してしまえば、対処するのがずっと楽になるから、と。

 でもたぶん、わたしに傷は必要ないだろうな、と思う。

 だってそれは、いつもそこに見えているから。そこにないことによって、いつもそこに見えているから。

 ――時々、姉と無性に話したくなることがある。

「お姉ちゃんにとって、この世界はどういう場所だった?」

「いろんな物事のバランスがとれなくなったとき、お姉ちゃんはどうしてた?」

「心の正しい置き場所を、お姉ちゃんは見つけられていた?」

 でも――

 もちろん、そんなのは無理だ。この世界のどこにも、もうお姉ちゃんはいなかったし、残っているのは何も教えてくれない、本だけでしかない。

「――あたしはね、ただ強くなりたかっただけ」

 そう言ったのは、まひろだった。中学の時、姉の死をまだ強くひきずっていたわたしは、ある日まひろにそう言われたのだ。

「あたしはね、世界をこれ以上ややこしい場所にしたくないんだよ。そうでなくても、もう十分ややこしいんだからさ。だからあたしは、ただ強くなりたいんだ。あんたたちみたいに、余計なことでごちゃごちゃ悩まずにすむように」

 うん、そうだね――

 それはいかにもまひろらしい言葉で、わたしは今でもつい笑ってしまう。確かに、世界をこれ以上ややこしくする必要なんてない。

 結局のところ、わたしたちなんて吹けば飛ぶような悩みを後生大事に抱えているだけの、そんな存在でしかないのかもしれない。世界にはそれよりもっと大事な、重要なことがいくらでもあるのだから。

 けれど――

 たぶん、姉の死はわたしの中で生き続けるのだろう。それを、捨てたり、忘れたり、なかったことになんてしてしまうのは不可能だ。

 わたしにとっては、それがバランスのとれている場所だった。それが、心の正しい置き場所だった。

 その場所で、わたしはわたしの形がよくわかっている。自分が何者で、何がしたくて、どこに行こうとしているのかが。


 ――そこは、小さな神様がいるところに似ている。


 だから、わたしは大丈夫だ。このややこしい世界を、ややこしいままで生きていくことができる。小さな箱の中で、わたしは自分自身の形がわかっているから。

 そう思いながら、わたしはクローゼットの扉を開けて外に出ていく。明るくて、騒々しくて、不確かで、どこにも境目なんてなくつながっている世界に。

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ここは、小さな神様がいるところ 安路 海途 @alones

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