私達の幸せな生活

葱巻とろね

彼氏

カクヨム:淡雪 Twitter:呂尚 (敬称略)の短歌からです 


お題98『久しぶりから始まる物語』-「久しぶり」

 1:君の声

 久し振り

 そう言った彼は

 既に亡く

 心の中で

 響くあの声


________________________


「久しぶり」


 聞きなじみのある声が私の耳に入った。私は反射的に振り向く。


「ゆう……た?」


 そこには彼がいた。暖色のコートを羽織り、ポケットに手を入れて立っている。垂れた瞳には私が映っていた。右目にある黒子ほくろが愛おしい。その人は散らかった物を足でのけながらこちらに向かってきた。


「戻って来ちゃった」


 彼は目の前でしゃがみ、私の顔に手を当てる。指で頬を撫でられた。懐かしい温もりに再度、涙が出そうになった。


「んはは。泣かないの。俺のこと、忘れたわけじゃないでしょ?」

「うぁ……だって、だってぇ……」


 日光をカーテンで防ぎ、薄暗い部屋の中で私は彼と二人っきり。自分のした選択が合っていたのかは今になっても分からない。ただ、この時は心の中が軽くなったような気がした。


「連絡がないから心配したんだぁ」


 散らかった衣類や放置していた食器を片付けながら呟く。彼と同棲していた時に使っていた物だ。赤と青のマグカップ。片方は欠けている。


 キッチンから鼻声が聞こえてくる。ふと、スマホに着信が入った。画面には優斗ゆうとの名前が書かれている。


「何? 今はコイツと付き合ってるの?」


 気が付けば隣にいた。彼の息遣いを感じる。手が震える。鼓動が激しくなる。彼と付き合っていた時の思い出がよみがえる。


 彼の__裕太ゆうたの気分でを受けた日々。人とは違う、扱いをしてくれた同棲生活。生きていく上で、彼が一番。他は二の次だった。裕太は私の身体に愛情の印をつけてくれるし、言葉もかけてくれる。彼が近くにいなくても、手首の印を見るだけで安心できた。彼のためならお金も身体も全て出し尽くせる。気持ちも生活も感覚も思考もすべて支配される。それが私の生きがいだった。


「……」


 数秒立ってスマホは静かになった。それでも裕太はこちらの顔を覗き込んで動かない。


「俺以外の男に手、出したの?」

「……うん」


 一年前、優斗と出会った。大学内で友達伝いに知り合ったあの人は優しくて、特に私に対して気を使ってくれた気がする。彼についての相談もいくつかした。


 それからだった。急に裕太の音沙汰がなくなった。電話をしても繋がらない。実家を訪ねても留守にされる。SNSのアカウントも更新されない。そんなときに心を埋めてくれたのは優斗だった。私のぽっかりあいた穴を少しづつ、隅々まで修復しようとしてくれた。


彩佳あやかさん。その、彼の事は忘れましょうよ。いなくなってしまったのは心配ですが、引きずっているともっと辛くなってしまいますよ!」

「でも、彼が……」

「……あの人は死にました! ……そう、思うことはできませんか?」


 優斗は私の手を握る。


「こんな酷い痣……! 僕はつけません。これから、僕の近くで過ごしませんか?」


 その時から、優斗と過ごすようになった。このまま一人で生きることは難しいからだ。あの人は裕太の事を忘れさせようと、いろいろなことをしてくれた。詳しくは覚えていない。


(裕太は私を捨てたんだ。私に構ってくれない裕太なんて裕太じゃない。私の裕太は死んだんだ__)


 と思ってからは日常を過ごすことが出来た。でも、彼を完全に忘れることはできなかった。


 胸の高鳴りが収まらない。身体が段々火照っていくのを感じる。


「駄目だよ? 彩佳は俺だけのモノなんだから」


 前髪を掴まれて顔が上がる。


「あぅっ……やめ__」


 頬に強い衝撃を受けた。一瞬、何が起きたか分からず、放心していた。左頬がジンジンと痛む。痛みを味わっている間にも彼の愛情は終わらない。裕太は私を押し倒し、馬乗りになる。そして、両手を私の首に忍ばせた。


「そんな奴より、俺の方がいいだろ?」


 顔立ちのいい彼から発せられた声は、その時の興奮を思い出させるのに十分だった。


 首を絞められる。喉が押されて呼吸ができない。頭が苦しさで溢れそうになる。


 懐かしい。この感覚だ。頻繁に痣ができていた腕に手を当てる。色白なもっちり肌に鮮やかな花がフラッシュバックする。自然と口角が上がる。やっぱり、私は彼に依存している。裕太は私のだ。


 現実の裕太はいなくなっても、心の中の裕太は永遠に構ってくれる。告白してくれたあの声は今でも覚えているよ。


「彩佳、愛してる」


 古ぼけたアパートの一室。そこには乱れた姿の女性が一人、ベッドで横たわっていた。生きているのか、死んでいるか分からない程衰弱している。しかし、表情は幸せそうだった。



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