第6話「救世主様」

健斗と過ごす時間は楽しかった。二人でお揃いのストラップを買おうと言われた時はどうしようかと思ったが、結局押しに負けてお揃いのイルカのストラップを買った。

スマホケースにぶら下げたイルカを眺めながら、杏里はあと十五分で終業時間を迎える。


今日はユキの新曲MV配信日。早く帰ってやらなければならない事を済ませ、配信時間五分前には動画サイトを開いて待つつもりだ。


「杏里!」

「ぐっ」


あと少しで帰れる。そう考えながらぼうっとしていた杏里に、ゆかりが思い切り飛びついた。勢いに負け情けない声が漏れたが、ゆかりは今それどころでは無いらしい。


「どうしよう!マジでヤバイ!」

「どしたの…てか苦しいんだけど」

「モデルがいなくなりました」

「…うん?」


ゆかりが焦っている事は分かるのだが、焦っている理由が分からない。何があったのか詳しく説明しろとゆかりを宥めたのだが、すぐに杏里も慌てふためく事となった。


明日ゆかりが担当している仕事は、雑誌の表紙撮影だった。だが、撮影する筈だったモデルがスケジュールの管理ミスにより来られなくなってしまったと先程連絡をもらったらしい。


「え、ヤバくない?」

「ヤバイもヤバイよ!どうしよう明日急に来てくれる男性モデルっている?!」

「いや無理じゃない?!」


さあ大変だ、さあどうしよう。二人で必死になって解決策を考えるのだが、残念な事に素敵な案は浮かんでこなかった。


「山内さんどうしましょう!」

「今度はどうした篠崎ちゃん!」


最近入って来た新人が、涙目になりながらゆかりの元に駆け寄ってくる。彼女は仕事熱心だが、まだまだ新人であるが故にミスが多い。

何かやらかす度にぺこぺこと頭を下げ、何とかしようと頑張る姿を見ている杏里とゆかりは、大丈夫だよ頑張ろうと励ましながら手伝っているのだが、今このタイミングでは勘弁してほしかった。


◆◆◆


「ありがとう!ほんっとうにありがとう!」

「貸し一つね」


先日来たばかりの撮影スタジオに駆けつけると、杏里は撮影を終えたばかりの健斗の手をがっしりと握って深々と頭を下げる。

昨晩ユキの新曲MV配信開始の通知を見て、すぐに健斗に連絡をしたのだ。他のモデルにも手当たり次第連絡をしてみたのだが、あまりに急なお願いだったせいで、頼りは全滅していた。


背に腹は代えられないと、ダメ元でゆかりの前で健斗に電話を掛けたのだ。


「まさかユキさんが来てくださるなんて…」


呆けているゆかりは、撮影を終えてもまだ信じられないといった顔をしていた。まだ詳しい事は説明していないが、この間ユキの撮影にインタビュー担当で行った事を知っているからか、その時に連絡先を交換したと思われているらしい。


「友達が半泣きで助けてーって電話してきたら…ねぇ?助けてあげられるならいくらでも」


にっこりと爽やかに笑う健斗に、ゆかりはぽーっと見惚れている。整った顔をした男性に微笑みかけられれば、どんな女でもそうなるだろう。


「え、友達…え?」

「それは!また!ね!」


それ以上何も言うなと健斗を睨み、杏里はゆかりに撮影データの確認に行かなくて良いのかと声を掛ける。慌ててカメラマンの元へ走って行ったゆかりを見送りながら、杏里は改めて健斗に礼を言う。


「本当にありがとう。自分の仕事もあったでしょ?」

「午前中なら時間の都合つけられたから大丈夫。でも撮影してるとこ見てほしかったな」

「後でデータ見せてもらうよ」

「かっこいいから、心して見てね」


にんまりと笑って、健斗はぐいと背中を伸ばす。元々用意していた衣装はサイズが合わなかったようで、窮屈らしい。


「今度何かお礼しなくちゃ」

「じゃあ映画デートして」

「まだ言うか。…でも、断れないね」


助けてと泣きついたくせに、誘いを断る事は出来ないだろう。仕方ないなと眉尻を下げれば、健斗は嬉しそうに満面の笑みを浮かべてスマホを取り出した。


「えっとね、この日が丸一日フリーで、この日は夕方からなら大丈夫」

「待って、平日私仕事だから一日は無理だな…あ、この日なら大丈夫かも」

「おっけ、じゃあ…」


二人でスマホのスケジュールアプリを見ながら予定を考える。映画は何を見るだとか、どこで見るのかだとか、考える事はまだまだあるというのに、健斗はデートの誘いを受けてもらえた事が嬉しいのか、少し浮かれているように見えた。


「あ、やば…そろそろ行かないと次の仕事間に合わないかも」

「えっ、ごめんね本当…次どこ?タクシー呼ぶよ」

「助かる。次ねー、テレビの取材なんだよ」


来週朝の情報番組で流れるらしいよと言いながら、健斗は急ぎ足で控室へ向かって行く。それを追いかけながら、杏里はいつも利用しているタクシー会社へ電話をかけようとスマホを操作した。


「杏里ちゃん」

「え?」

「お仕事、頑張ってね」

「うん、ありがとう。け…あ、ユキさんも」


周りには他のスタッフもいる。そんな中で本名を呼ぶわけにはいかないと気付き、杏里は「健斗」と呼びかけた口を一度閉じて「ユキ」と呼び直した。


目の前で笑っているのはユキだ。大好きで、いつまでも眺めていられるような人、推しと呼んでいつも応援して大騒ぎしている相手。


だというのに、会話をしているとユキではなく「米倉健斗」という名の、昔から仲の良い友人であると思ってしまう。


「じゃ、着替えてくるね」

「お疲れ様でした!タクシー呼んでおくので、着替えが終わったらすぐ向かってください!」


落ち着け。これは仕事。今控室に入って行ったのは友人である米倉健斗ではなくユキ。ユキと仕事をした、ただそれだけ。


頭がぐちゃぐちゃとして落ち着かない。

考えるなと自分に言い聞かせても、扉の向こうで着替えているのが推しであるユキなのか、それとも仲の良い友人である米倉健斗なのか分からなくなってきた。


「もしもし、タクシーを一台お願いしたいのですが…」


考えるな。今はまだ仕事中。気持ちを切り替えようと、杏里はスマホを耳に当て、電話を掛けた。


◆◆◆


「杏里ぃ…?」

「ハイ…」


オフィスに戻り、コーヒーを飲んでいた杏里は、後ろから肩を組んできたゆかりに怯えた顔をしながら両手を差し出す。手錠を掛けられるのを待つような仕草に、ゆかりは「逮捕!」と言いながら杏里の手首を掴んだ。


「詳しく!」

「お友達ですぅ…」

「ユキに狂ってたアンタはどこ行った!新曲発表される度に無言で私の肩バンバン叩いて来た松本杏里はどこへ行ったんだ!吐け!」


ぶんぶんと両手首を揺さぶられ、杏里は先日話した友人が実は有名人だったという話をゆかりに振る。


「あれ、ユキの事なんだよね…」

「…推しと十年近くSNSで繋がってた上、それ知らずに推しが見えるTLで推し狂いしてたの?」

「やめてぇ!あれもこれも本人に見られてましたよぉ!」


わっとテーブルに突っ伏す杏里の背中をぽんぽんと優しく叩きながら、ゆかりは「憐れ」と小さく呟く。杏里が普段使っているSNSは、ゆかりも相互フォロワーの一人なのだ。


「推しと遊園地デート…したいっすねぇ」

「やめて!私は愚かなファンでした!」

「推しの鎖骨のラインが最高にえっち」

「うわあああああ!!!!」

「だからかぁ、さっき撮影する時ユキさん鎖骨のライン綺麗に出ましたー?って言ってたんだよ」

「殺す気か…」


穴があったら入りたい時はきっと今だ。

健斗も健斗で、そんな事を言う必要は無い筈なのに、杏里がいないからと好き勝手したのだろう。


「ほら見てみ、最高のショットじゃない?」


ゆかりがタブレットを杏里に差し出す。表示されているのは、先程撮影したばかりのユキの写真だった。ゆかりが言った通り、ユキの鎖骨は綺麗に映り、表情も素晴らしいものだった。


「推しの造形が良い…」

「これは惚れるわ…鎖骨絶対文字で潰したくないねこれ」

「引き延ばして部屋に飾りた過ぎる」

「お、こっそりやる?」

「各方面から怒られる気しかしないんだけど」


バレたらどうなるか分からないからと断ったが、許されるのなら是非データごと頂きたい。

他の撮影データもついでに見てみたのだが、どれもこれも拝みたくなる程素晴らしい。


「うわあ…わあ…」

「お、狂ってる時の杏里が戻って来たな」

「え、待ってこれ私が命を刈り取られるショット」

「どれ?」


タブレットに表示した写真をゆかりに見せると、納得したように「ああ」と呟かれた。

口元を両手で覆い、少し虚ろな表情をしているユキがそこにいる。何を見ているのだろう。何を思ってのこの表情なのだろう。たまらん!と声を漏らして再びテーブルに突っ伏したが、ふと思った。


満面の笑みが無い。


健斗と話している時、彼はよく笑う人だと思った。笑い方にも色々あるが、満面の笑みはユキの時には見られない表情だと思った事がある。ユキと同じ顔をしているのに表情が違う事に気付いた時には面白かったが、あの笑顔は健斗である時にしか見られないと思うと、何故だか胸がぎゅっと締め付けられたような気がする。


ユキのファンは沢山いる。大勢いるファンの中で、あの笑顔を見た事がある人はどれだけいるのだろう。もしかしたら見た事があるのは、杏里ただ一人なのではないか。そんな浮ついた事を考えてしまった事が恥ずかしくなり、低く呻く。


「撮影前、杏里ちゃんは?って言われてね。後で来ますよって言ったらずーっと出入口ソワソワしながら見てたんだよ。飼い主待ってる大型犬みたいで面白かった」

「うわあ…それはちょっと見てみたかったかも」

「隠し撮りしておけば良かったかね」


あははと笑ったゆかりは気が済んだのか、タブレットを仕舞って杏里の背中をポンポンと叩いてまた笑った。


「本出来上がったら、ユキさんにも一冊渡してね」

「喜ぶと思う」

「杏里も買うでしょ?」

「あたぼーよ」


ぐっと親指を立て、杏里はふうと小さく溜め息を吐いて首を動かした、テーブルに置いたスマホケースには、水族館で健斗と一緒に買ったイルカのストラップが付いている。健斗がお揃いにしたいと騒いだから買ったのだが、それを見て思い出した。


「お土産あるんだった」

「忘れてた!何買って来たのー?」

「ダイオウグソクムシのぬいぐるみ」

「うわあ…センスどうなってんの?」

「可愛いじゃんダイオウグソクムシ!」


デスクに袋ごと置いてあることを思い出し、杏里は戻ろうとゆかりを誘いながら立ち上がる。数時間後映画はどれを見る?と健斗から連絡が来てまたゆかりに騒がれる事になるのだが、それより遅れてしまった仕事をどうにかする方が先決だった。

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