第5話「初デート」

ソワソワと落ち着かない気分で人を待つのは久しぶりだ。約束の時間に遅れないように少し早めに到着する様にしたのだが、待ち合わせの十五分も前に到着するのは早すぎただろうか。


着いたよと連絡をしようと思ったのだが、焦らせても悪いと考え、今日の待ち人である健斗に連絡するのは待ち合わせの五分前にしようと決め、杏里はスマホを握りしめたまま立っている。


今日の恰好はおかしくないか、メイクは崩れていないかと気になり何度も確認しているのだが、何度確認しても変わりはしない。何となくデートらしい恰好をしようとワンピースにしたが、意識していると思われるだろうか。


「早くない?」

「ひぇ」


後ろから声を掛けられ飛び上がった杏里が振り向くと、先日飲みに行った時と同じように前髪とマスクで顔を隠した健斗が立っていた。


「ごめんね、待たせて」

「や…さっき着いたとこで…」

「そう?本当はもう少し早く着く予定で動いてたんだけど、乗り換えミスった」


待たせたくなかったのにと悔しそうな顔をしているが、杏里はそれよりも周りにユキがいるとバレないかと気になって仕方がない。

健斗は人より背が高い。190㎝もある体は目立ってしまう。


「早く行こう。目立つし」

「目立つかなあ…結構出かけるけど、声かけられた事無いよ?」

「今日もそうとは限らないでしょ!」


コソコソと話し、杏里は道はどっちだと周囲を見回す。

出掛けようとDMが来た後、水族館に行かないかと追加でメッセージが届いていたのだ。ゆかりにその話をすると「行くって返事しな!今!」と迫られ、勢いに負けて返事をしてしまった。


水族館は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。クラゲがゆらゆらと泳いでいるのをぼんやりと眺めるのも好きだし、イルカショーを見るのも好きだ。

元恋人は人込みが嫌いだと言って付き合ってくれなかったし、誰かと一緒に水族館に行くのは久しぶりだ。


「イルカショー昼からなんだって。行くでしょ?」

「行く!」

「あとねー、アシカショーもあるよ。こっちは午前」

「行く!」

「おっけー」


スマホを見せてくれた健斗は、嬉しそうにしている杏里を見下ろして目を細める。

身長差がある為殆ど旋毛しか見えないのだが、はしゃいでいる事は分かるようだ。


「健斗さんは水族館好き?」


飲みに行ってから、杏里は健斗を名前で呼ぶようになった。外でケンケンと呼ばれるのは恥ずかしいと言われたし、ユキなんて呼ぶわけにはいかないからだ。


「うん、好き。俺海の傍で育ったからさ、よく浜辺で遊んでたんだよ」

「へえ…カニとかいた?」

「指挟まれた事ある」

「いたそ」


健斗の顔を見上げ、「うへぇ」といった顔をした杏里の表情が面白かったのか、健斗は小さく肩を震わせて笑う。

笑うんじゃないとむすくれるが、先程まで緊張していたのにすっかり忘れている事を思い出した。


仮にも交際を申し込んできた相手と二人で出かけるのに、こうも緊張しないとはどういう事なのだろう。

男として全く意識していないのか、それとも長年の友人と遊びに行く感覚なのか、それとも恋愛というものが久しぶりで色々と忘れてしまっているのか…何なのかはよく分からないが、不思議と健斗と歩くのは、居心地が良かった。


「杏里ちゃんってヒール穿かないの?」

「え?ああ…今日は水族館だって言ってたから、歩きやすい方が良いかなって思って」


ワンピースに合わせるのは難しかったが、踵の低いパンプスにした。シューズボックスに入っている靴の殆どがヒールの低いものばかりで、最初から選択肢に無いのも理由の一つだった。


「あんまりヒール持ってないの」

「そうなんだ?似合いそうなのに」

「えー、そうかな?」

「脚長いしさー。前に仕事で会った時スーツだったじゃん?パンツスーツ似合ってたよ」


褒められて悪い気はしないのだが、仕事と言われて思わずぐっと言葉を飲み込んだ。

忘れておこうと思ったのに、隣を歩いている男が大好きなユキである事を思い出してしまったのだ。


「今度は映画にしよ。それならヒールでも大丈夫でしょ?」

「持ってないんだって」

「じゃあ映画の前に買いに行こ。誕生日近いしプレゼントするよ」


にこにこと嬉しそうにしているのは良いが、自然な流れで次のデートの約束を取り付けられているような気がした。

ただの友人だったなら、きっと悩む事なく応じていただろう。だが、健斗は結婚前提に付き合ってくださいと言った。そんな相手に、その気も無いのに期待させてしまうような返事をしても良いのか分からない。


どう返事をしようか悩んでいる杏里が黙っていると、健斗は困らせている事に気付いたのか、「考えておいて」とだけ言って話題を変えた。


「お昼何食べる?館内にレストランあるみたいだし、イルカショーあるならそこの方が良いかな?」

「そうだね、その方が良いかも。あ、そうだ…同期がお土産買って来てねって言ってたから、帰りにお土産コーナー寄りたい」

「同期?仲良いんだ」

「そ、同じ歳の超可愛い子。でも中身は結構おっさんなんだよ」


ゆかりの話や、砂川の話を簡単に話し、杏里は先程の少し気まずい雰囲気を吹き飛ばす様に口を動かす。

健斗は杏里の話をよく聞いてくれるし、時折相槌の他に質問をしてくれたり、けらけらと楽しそうに笑う。デートという事を忘れてしまう程、健斗と話すのは楽しかった。


◆◆◆


数年ぶりの水族館はとても楽しかった。水辺の生き物ゾーンにいた蛙は色が華やかで見ていて面白かったし、川魚はどれが何という種類の魚なのか分からないものの、説明板を見ながら二人で「これじゃない?」なんて指を指す。

アシカショーもイルカショーも楽しめた。イルカショーは少し前の方の席に座っていたせいで飛沫がかかったが、着替える程は濡れていない。ただ、「濡れた!」と笑い合うのが楽しかった。


「はー…楽しい」


ほう、と息を吐いた健斗は、少し疲れたのかクラゲの水槽が並んでいるエリアの端、ベンチに座っている。杏里も隣に座ってゆらゆらと水槽の中を漂っているクラゲを眺める。何も考えず、ぼうっとしているこの時間は楽しい。

昔付き合いたての頃、元恋人にせがんで一緒に水族館に行った事がある。あの時はまだ優しかった元恋人は、内心どう思っていたかは知らないが楽しいねと言って付き合ってくれた。だが、クラゲは見ていて面白くなかったらしく、もう少し楽しみたいのにさっさと抜けて行ってしまった。


それをふと思い出し、杏里は何となく嫌な気分になってもぞもぞと足を動かす。


「足痛い?結構歩いたもんね」

「え?ああ、大丈夫…健斗さんは大丈夫?」

「俺は平気。ちょっとはしゃぎすぎて疲れたけど」


へらりと笑った健斗は、のんびりとクラゲを眺める。綺麗だねぇなんて呑気に呟いているが、それは本心で言っているのだろうか。

もしかして気を遣ってくれているのでは?なんて考えてしまうのだが、どうやら健斗は本当にクラゲに見惚れているようで、あのクラゲは何という種類かなと杏里に微笑みかけた。


「ハナガサクラゲじゃない?すっごい強い毒持ってるんだって」

「へえ、詳しいね」

「…ごめん、さっき案内板見ちゃった」


感心してくれていた健斗は、ネタ晴らしをすると声を殺して笑った。他の客に気を遣っているのだろうが、顔を背けて肩を震わせながら笑われていると何だか気恥ずかしい。


「正直でよろしい」


うっすらと目尻に涙を溜めている健斗にそう言われたのだが、涙目になる程笑うなとむすくれても許されるだろうか。


「ね、写真撮らない?」

「クラゲの写真って綺麗だもんね。撮りに行こうか」

「違うよ、二人で撮りたい」


立ち上がろうとした杏里の手首をそっと掴み、健斗はじっと杏里を見つめる。マスクと前髪で殆ど顔は見えていないし、クラゲの水槽があるこのエリアは他のエリアに比べて薄暗い。それでも、健斗の顔が赤くなっているような気がした。


「ツーショット、駄目?」

「え…何で?」

「デートの思い出が欲しいなって」


改めてデートと言われると、忘れていた気恥ずかしさが戻ってきてしまった。しっかりと掴まれてしまった手首。ごつごつと節がしっかりした大きな手を、どう言えば離してくれるだろう。指が長いな、綺麗な手だなと見つめている杏里の視線に気づいたのか、健斗は慌ててその手を離す。


「ごめ…あの、好きな子とのツーショットが欲しいと思って…駄目?」

「それは、その…」

「付き合うとかそういうのは一旦忘れてもらって良いんだけど、好きなのは好きなんで…思い出、駄目?」


もう頼むからその口を閉じてほしい。じっと見つめてくるその視線が、「お願い」と訴えているような気がして落ち着かない。


「あれだ、チェキ感覚で良いから」

「…一枚おいくらですか」

「本日大出血サービス、お一人様限定で無料となっております」

「タダより怖いものって無いんだよ」


ぐっと親指を立て、サムズアップしている健斗が面白くなって、杏里は小さく笑う。チェキ感覚なら良いよとスマホを持ち、杏里は立ち上がり、健斗に向かって手招きをした。


「どうせならクラゲと一緒に撮ろうよ。ジェリーフィッシュ可愛いよ」


杏里の言葉に健斗は嬉しそうに立ち上がり、自分のスマホをしっかりと握りしめながら杏里の元へと向かう。ジェリーフィッシュが何なのか分かっていなかったようだが、ぷにぷにとした見た目の可愛らしいクラゲに目を輝かせ、可愛いと繰り返しながら何枚か写真を撮った。


「カメラ、多分健斗さんの方が画質良いかも」

「じゃあ俺ので撮ろうか」


インカメに切り替え、健斗はそっと杏里と距離を詰める。ツーショットなのだから当然の行動なのだが、杏里の胸がドキドキと騒いだ。


健斗の身長はとても高い。杏里をフレームに収めるには距離を詰めて身を屈めなくてはならないのだが、流石にここまで密着しなくても良いのではなかろうか。


「ちょ、マスク…」

「皆水槽に夢中だから大丈夫だよ」


邪魔になるからか、健斗はマスクを顎までずらし、前髪を少し整えた。しっかり顔が出ており、もしファンが見ればすぐにユキだと気付いてしまうだろう。


「はい、笑って」


笑えと言われても、今の杏里は気が気でない。頼むから見られませんように、気付かれませんようにと祈りながらスマホの画面を見つめるしかなかった。


「表情固くない?」

「早くマスク!」

「心配性だな…」


はいはいと呟きながら、健斗はずらしていたマスクを戻す。どうやら周囲の客たちは気付いていなかったようだが、杏里はまだドキドキと煩い胸が落ち着いてくれない。きっとこの心臓は、距離が近くてドキドキしているのではなく、騒ぎにならないか緊張しているドキドキなのだと自分を納得させるように深呼吸を繰り返す。


「ね、あっちのクラゲ何?超でっかい!」

「あ、待って」


巨大な水槽を優雅に漂っている大きなクラゲに興味を持ったらしく、健斗は杏里を置いて歩いて行ってしまう。それを追いかける杏里は、まだ煩い心臓を沈めるにはどうしたら良いのか検索をかけたくなっていた。

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