二「生徒会の出願」①

         二


 少し日が落ちるのが早くなった放課後、俺はいつもこの時間に読んでいるはずの文庫本を鞄に仕舞い、代わりに一枚の紙を取り出した。紙には丁寧に俺の名前が書かれている。

 先週、仕事の早く終わった姉に無理矢理書かれたこの生徒会立候補用紙を、俺は最後の抵抗として教室のゴミ箱に投函したものの、すんでの所で我が悪友に見つかってしまったのだ。奴さえいなければ、姉さんには無くしたとでも言ってやり過ごせたかもしれないのに。


 俺は堪らずため息を漏らした。これまで約半年間守られてきた俺の平穏は、たった二人の人間によって侵されようとしている。だがそれに抗う程の労力をかけられないのが園原春馬という人間でもある。

 何故なら、そんな非効率的で面倒くさい事はしたくない。

 手に持った用紙を再度鞄に仕舞い、俺はゆっくりと立ち上がった。するとそれを見越していたのかのように、勢い良く教室の扉が開け放たれる。


「おっす! お待たせ!」

「掃除は終わったのか?」

「まーな。てか春馬は掃除はねえの? サボり?」


 サボる勇気が俺にあるわけ無いだろ。小中高と一度もサボったことなど無いわ。


「なくなったんだよ。教師の都合でな」

「へー」


 まあ興味がないんだろうな。だがお前から聞いてきたのだから、もう少し興味を持ってもいいのではないだろうか。

 飽きてきたであろう嵐士に一瞥をくれてやりながら、俺は反対の扉から廊下に出ていく。

 嵐士はそんな俺の様子を、いつも通りのニヤケ顔を見せながら隣に並んだものだ。







 開けられたままの窓から陸上部のハリのある掛け声が飛び込んでくる。


「ハイ!……次!ハイ!……」


 こんな力を入れていない学校の部活動でも迫力のある掛け声が出るものだなと感心していると、隣を並んで歩く嵐士に目線がいった。

 ウキウキとステップを踏みながら随分と楽しそうではないか。俺は少し不満そうに聞いた。


「何がそんなに楽しいんだ」

「ん? おーそんなに態度に出てたか。悪い悪い」


 悪いと口にしつつ毛ほども思っていない態度に、俺は更に不満な顔を浮かべたが、奴はいつもこんな感じだ。

 俺は向き直し、また生徒会室に向かって歩き始める。尚、嵐士は未だ楽しそうに笑っている。


「いやー、まさか本当に春馬が生徒会に立候補してくれるなんてな! 思っても見なかったぜ!」


 何だその顔は、ヘラヘラとニヤケやがって。俺はムッとした。


「まだ入った訳じゃない。もし人が足りてたら辞めるつもりだと言ったはずだ」


 俺の反論に、嵐士は少し腰を曲げ、覗くようにして返す。


「まだそんな往生際の悪い事を言ってんのか。ここは工業高校だぜ? 好き好んで生徒会役員なんてやる人間が、そんなに大勢いる訳ないだろ」


 お前はどうなんだよ。と、嵐士を責め立ててやりたかったが実際問題合っている。

 工業高校とはその名の通り工業系の専門知識を学ぶ為の学校だ。その専門性から、卒業生の殆どは就職するのが通常である。更に言えば工業高校に通う多くの生徒は家や親が工業系にゆかりがある人間か、高校卒業後にさっさと就職したい人間が大半だ。

 だからなのかここ辻高は、運動部や文化部といった一般的な部活には殆どが力を入れていない。当然委員会活動も同じだ。就職する為に入ったのに、わざわざ面倒臭い仕事など、自ら買って出る人間が少ないのも頷けるという事だ。


 そこまで理解しているのに何故俺は生徒会室に向かっているのだろうか。入学前の俺では考えられない事態だ。

 俺は溢れそうになるため息を飲み込み、更に歩みを進めていた。若干足取りは重い。嵐士も流石に無駄口を叩かなくなり、俺の少し先を静かに歩き始めた。


 不意に先行していた嵐士の足が止まった。どうやら着いてしまったようだ。

 俺は今度こそ溢れてしまったため息を、謎の矜持で嵐士に聞こえぬようにしながら扉に手を掛けた。

 既に借りていたキーを差し込み、捻る。

 鍵の開いた扉をスライドさせる。無人の生徒会室。窓から陰りのある校舎が見える。

 いや違う。我が眼前に広がった光景には、先客の姿があった。

 彼女は椅子に座っていて、こっちを見ていた。驚きもせず、ただ呆然とこっちを見ていた。

 俺は元々女性との関わりが多い方ではない為、女性のイメージといったら清楚とか活発とかその程度だ。しかし、彼女はそのどちらも当てはまるように思えた。

 短く切り揃えられた黒髪に、セーラー服が良く似合っている。平均的な身長に頼りない線の細さ、だが力強さを感じる。一言では表せない、力強さと繊細さ。そして一際目立つ静かに光る眼光。

 彼女の特徴を挙げれば更に出てきそうだが、その中で唯一断言できるのは俺の知らない奴ということだ。

 だが、彼女は俺を見ると表情を崩さず言ったのだ。


「久しぶり。確か、園原だったよね」

「……誰だ?」


 俺はハッキリと尋ねた。確かに俺は人の顔を覚えるのが苦手だ。が、知っている人間が「久しぶり」と言って出てきているのに答えられない程薄情ではないはずだ。つまり、彼女は俺が知らないはずなのに俺を知っているという事だ。


「……覚えられてないかな。金木かねき花蓮かれんだよ」


 ほほう。なるほど分からん。金木か、そんなに聞かない姓だし知っていれば分かるはずだ。しかし思い出せない。

 俺は金木と名乗ったセーラー服の少女をもう一度よく見て、やはり分からない事を確認すると、言った。


「すまない、全く持って分からない」


 しかし彼女は表情を変えることはなく、首を傾げた。


「園原でしょ? 園原春馬で合ってるよね? 一年五組の」


 俺は頷いた。


「私、一年六組だよ」

「ほう、それで?」

「……私、住環境科」


 だから、それでどうしろと。ヒントを小出しにされた所で共通点という訳ではない。俺は、機械科で一年五組だ。

 いや待てよ。隣のクラスという事はもしかしたら何処かで出会っている可能性はないか?

 入学から半年程経つが、学科も性別も違う隣のクラスの生徒とあまり交流を持たずとも不思議ではない。ならば一番分かりやすい繋がりは委員会か部活か。しかし俺はどちらにも属していない。ならば全校行事という可能性はないだろうか。これまで行われた行事は入学式と体育祭の二つ。俺は入学式で誰かに名乗った覚えはないし、体育祭は熱で休んだからその線はないだろう。

 ふと、後ろに立つ嵐士に顔を向けた。理由は単純、奴なら分かるかもしれないからだ。しかし、嵐士は俺と目が合うと即座に逸らしたのである。

 この野郎。分からないにしても逸らすことはないだろう。

 嵐士への期待は捨てよう。俺はもう一度考える様に下を向いた。

 隣のクラス、女子生徒、他学科、珍しい名前。俺は頭の中で反芻するようにキーワードを並べていく。

 待てよ。あるではないか、今のキーワードを全て満たす関係性が。体育と芸術科目だ。

 通常授業では隣のクラスと関わる事はない。しかし、体育と芸術科目なら隣接するクラスと合同で行う。更に女子生徒の人数が少ない辻高では体育も女子生徒と合同で、学科も関係ない。

 ではどっちだ? 俺は美術を選択しているが、あの狭い教室で目立つ女子生徒の顔を忘れる筈がない。だが体育は合同と言いつつ、複数の競技から選択するため毎度変わる顔を覚えられる自信はない。つまり答えは、


「体育で一緒だったんだな?」

「正解! てっきり忘れられたのかと思ったわ」


やはり。思わず安堵で肩を落とした。流石に見たことのある顔を忘れるのは失礼だから焦ってしまった。

 そんな俺とは裏腹に、はしゃぐ様に大きな声を出す彼女は、楽しそうに手なんて挙げている。いつからクイズ形式になったんだろう。

 とはいえ、体育の競技が被ったのは一度か、多くても二度だろう。しかも俺はそこまで運動が得意ではないから目立った活躍をした記憶もない。それなのに俺の顔も名前も覚えていたということか。呆れた記憶力だな。

 俺ははしゃぐ彼女の様子に、溜め息をつきながら後ろを振り向くと、嵐士はわざとらしく思い出したフリなどをしていた。馬鹿なことを。お前は一組の電気科だから知るはずないだろう。

 俺の白い目が伝わったのか嵐士は苦笑いを浮かべると、ゆっくりと俺を越して生徒会室に入ってきた。


「はじめまして、カネキ、カレンさん? 俺は四橋嵐士。よろしくな!」


 嵐士は先程までの表情を無かったことにするかのように、使い古された満面の笑顔で金木に手を差し出した。すると金木もそれに合わせる様に手を差し出しながら、


「はじめまして、四橋くん。よろしく」


と、応えた。

 自らの寒いギャグを隠蔽した嵐士に感心しつつ、話を戻さなくては進まない事を思い出し、俺は気を取り直した。


「それで、金木さんは何故生徒会室に?」


 と訊くと、すぐに返答があった。


「生徒会に立候補しようと思って」


 生徒会に立候補。なんと。

 その瞬間、俺はなんとここまで無駄足を踏んだものだと、心の中で溜め息をついた。立候補者が別にいるならわざわざ俺が入ってやる必要はない。ならその場で帰れば良いのだが、俺はたった少しの好奇心が抑えられず、訊いた。


「何故また、生徒会に立候補を?」


 まさか自分から入る様なものじゃないよな、という皮肉が籠ってしまったかもしれない。しかし、金木にはその皮肉は伝わらなかった。


「この学校をより良く改善して地域との連携を深めていきたいから、よ」


 ご立派な。なんとも高い志を持ったものだ。これが本気ならとても素晴らしい。嘘なら相当な曲者だな。


「園原は」

「俺か?」


 さてなんと答えようか。素直に、友人の策略と姉の暴挙の末に仕方なく、と答えても良い。だがそうなったら、哀れみの目で見られることは想像に難くない。しかし俺はそんな目で見られたくはない。

 待てよ。そう言えば俺は入る必要が無くなったのだった。ならばそれを伝えるだけではないか。などと思っていたところ。嵐士は突然、身を乗り出して声を上げた。


「じゃあ俺らと一緒だな! 俺らも生徒会に立候補しようと思ってたんだよ!」


 何を言っている。他に人がいたら入らなくていいと言ったのはお前じゃないか。

 俺は嵐士の肩を掴みながら同じく身を乗り出し言ったのだ。


「待てよ、俺は入らないぞ。金木が立候補するなら俺までする必要はないだろ」

「なんで?」


 金木からの当然の疑問。しかし今は嵐士に集中したい。コイツは放っておくと何を言い出すか分かったもんじゃないのだ。俺は語気を強めるように放った。


「お前には関係ない」


 少し強く言い過ぎたかな。後でちゃんと謝ろう。

 振り返り、俺は嵐士に文句を言ってやろうと睨みつけた。しかし、その横で金木はまだ言葉を繋げた。


「じゃあ当てさせて」


 は? 何を言ってるんだ、この女は。


「当てるって、何を」

「貴方が生徒会に入ろうとした理由。そして今は入りたがってないって所」

「なんでだ」

「だって、貴方が教えてくれないからじゃない」


 憮然とした態度で、さも当然かの様に言い放つ金木に畏敬の念すら抱く。だが俺は少しも動揺を見せず、答えた。


「姉と悪友の謀略に嵌ったからだ。鞄に仕込まれた用紙を姉に見られ、弱みを握られた為に今日ここに来た。しかし、条件として他に立候補者がいたら入らなくて良いとなっていたんだ。その立候補者を退かしてまでの意志は無いからな」


 我ながら長々と説明したものだ。当てたがった金木は残念がっているが、仕方ない。クイズなんて非効率的な事に乗るつもりはない。

 だがこれで納得がいっただろう。きっと俺の完璧な回答に恐れ慄いていることだ。

 俺は鞄を持ち直し、金木の顔を覗いた。さよならと一言告げるために。しかし、そんな俺の行動とは裏腹に、金木は驚くべき言葉を放った。


「一年生徒会の定員は三人だよ?」


 俺は突然突きつけられた言葉に数秒意味を考えた。しかし、いくら考えても金木の言葉に意味は一つしか見い出せない。

 完全に失念していた。生徒会役員に定員があるなんて当たり前の事ではないか。嵐士も知らなかったのか驚いた顔をしている。お前は知っておけよ。

 頭に手を当てて俯く俺に、金木は更に続けた。


「お姉さんとの約束は分からないけど、これで私が押し出される事はないわね。三人ジャストなら信任投票だし」


 そうなのだ。現時点で生徒会に立候補しようとしているのはここにいる三人のみ。さっき職員室に鍵を取りに行った時も、名前を書いた立候補用紙を教師に見せた時も驚かれた事から、あと一人増えるというのはまずないだろう。

 ならば生徒会選挙は信任投票になる。そしてそうなら俺は生徒会役員になる事から逃れられない。

 思わず溜め息が漏れた。「あーあ」なんて言葉もひとりでに出た。それだけ自分の運の悪さと状況の確定具合に呆れたのだ。

 俺は鞄を机の端に置き、転がってる椅子に腰を下ろした。諦めた俺の様子に金木は口角を上げてニッと笑うと、椅子でくるくるとその場で回転を始め、嵐士は勝手に生徒会室の棚を物色している。

 ああ、さらば俺の日常よ。さらば我が効率的平穏な日々よ。

 俺は天井を見上げながら、来たる望まぬ日々を憂いた。




――――第二話① 完

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