ある大雨の後。

彼の住むマンションの近くには、人騒がせな十字路がある。

四方が中途半端に住宅や壁に囲まれていて、カーブミラーがない。

わたしはペーパードライバーなので実体験ではないけれど、見た感じ、注意すれば難なく渡れるけど、気を抜いたら危険度が跳ね上がる。そんな場所じゃないだろうか。


祥吾いわく、事故が「月単位」で起こっているらしい。

物騒きわまりないけれど、何やら土地の関係で設置ができていないという。

私有地、ということだろうか。


加えて特にこの地域は、荒い運転をする車が多い。さすがにあおりはないけれど、少しこみいった場所に入ると、短いクラクションがしばしば聞こえてくる。

今日は雨風で視界が悪いせいか、ついさっきも聞いた。


それに比べれば、実家の車は、今思えばけっこうスローペースだった。

だから、県を超えて一人暮らしを始めたとき、かなりびっくりした覚えがある。

実際のところ、わたしがあまり車を利用しないのは、それが理由でもある。


二度、クラクションが鳴った。続いて、水しぶきをあげて車が走り去っていった。

まるであざけられたようにイラついて、唇を噛んだ。


あざけりだろうが、警告だろうが、関係ない。わたしに戻る選択肢はない。

そうだ、わたしには包丁これがある。

これがわたしの、ただひとつの優位。武器。そしてとりでだ。


雨脚が強くなってきた。ところどころ、風に音が混じる。


好都合だ。グレーの傘を前倒しにして、黙々と歩く。

一歩進むたびに、彼が近づき、わたしは冷たくなっていく。

傍らを、緩いスピードで原付バイクが通り過ぎて行った。


今、あの部屋には誰がいるのだろう。

いなくても関係ない。いくらかなら、待つ。

明日が本当に仕事なのはわかっている。必ず、帰ってくる。

けれど。


ふと、思ってはいけない疑念がわく。

そしてわたしは、どうするのだろう・・・・・・。


そのときだった。



わたしを追い抜いた原付は、見間違いでなければ、確かに一時停止していた。

そして左の道から走ってきたバイクは、そんなふうには見えなかった。

例の十字路。倒れているのは、ドライバー二人。


目前、50メートルほどの、事故現場だった。


「大丈夫ですか・・・っ!?」


意味のない質問なのだけれど、それしか言いようがなくて、繰り返す。

ヘルメットを脱いだ男性は、脚と肘を激しく擦りむいていたけれど、

意識はしっかりしていて、こちらの言葉にも「こすっただけなので、たぶん大丈夫ですよ」と、丁寧に返答をしてくれる。


「大丈夫? 怪我、ない?」


ジャンパーは破れているけど、さしたる傷を負わなかったらしいライダーの男性が、原付の男性に呼び掛けている。


「大丈夫・・・です、なんとか・・・」


原付の男性が、うめくように返事をする。

どうしよう、とりあえず救急車・・・あれ、何番だっけ・・・!? 


人間、とっさのことになると、判断力が格段に低下することがある。

そのときのわたしがまさにそれで、立場的にはわたしが一番先に行動を起こしてもよさそうなのに、動揺して指紋認証がうまくいかないスマホを、ただ握りしめていた。


「大丈夫? 大丈夫なんやね? ほんとごめんね、じゃあ、ごめんね!」


バイクにまたがるライダー。走り去る、ミラーなしのバイク。


・・・・・・は?


あまりにも場違いな展開に、思考が追いつかなかった。

・・・・・・え、ひき逃げ・・・・・・だよね? これ・・・・・・。


呆気にとられたわたしは、いつの間にか「緊急通報」のボタンを押していた。



最初にわたしが通報したのは、警察だった。

大したことはないから救急はいらないという、原付の男性。

説得はしてみたものの、その点に関しては一点張りだった。


それでも、傷に雨が染みるのだろう。顔をらせて、倒れた原付を移動させようとしている。「使ってください!」と傘を差しだして、慌ててわたしも手伝った。


「大変でしたね・・・」


「まあ、この程度で済んだとは言えるかもしれませんが。まさか逃げるとは思いませんでしたね」


証拠保全したほうがいいのではと途中で思ったけれど、そもそもこんなみちだ。事故車を放置しておくと、第二の事故が起こりかねない。


原付は、二人で手近な空き地の近くに移した。

車体を落とすと、伸びきった草木から、むっと緑の匂いが立ち込めた。

ちょうど傍らに「解体予定」の札がかかった店舗跡があったので、雨宿りはそこの屋根ですることにした。


「これ、どうぞ・・・」


ブロックに腰掛け、脚に消毒スプレーを吹き付ける男性に、買ったままだった缶コーヒーを差しだす。「助かります」と、これはすんなり受け取ってくれた。


「ご親切に、どうもありがとうございます。お仕事中じゃないんですか?」


「帰りなんで、大丈夫です。気になさらないでください」


と、ありもしない仕事をでっちあげて笑ってみせながら、気もそぞろだった。

目の前で事故、そして自分は目撃者。それも、ただ一人の。

となると、ここを離れるわけにもいかないし、そもそももうすぐ、警察が来る。


・・・・・・実況見分? 事情聴取? 


理由がないとわかっていても、頭の中では、あのライダーではなく、パトカーに乗せられるわたしの姿が浮かんでいた。

髪はすでにじっとりと濡れていたけれど、重ねて肌から冷たい汗が、じわじわとふきだしていた。小刻みに揺れる指も、雨の冷たさのせいだけでは、絶対になかった。



「それでは。また署からご連絡しますので、よろしくお願いします。それと、ご事情は分かりましたが、怪我の程度は今だけではわかりませんし、事故との因果関係が不明瞭になりますので、できるだけ早く、病院を受診されてください」


「はい、わかりました」


原付の男性がうなづく。

40歳くらいの、穏やかそうな男性だった。


「それと」


じろっとこちらを向いた警察官の言葉に、くっとのどが締まる。


「目撃された方にも、後日またお話をうかがうこともあるかもしれませんので、その際はよろしくお願いします」


「は、はい・・・・・・」


終わった・・・。今日が雨で、本当に良かった・・・・・・。

その場での簡単な事情聴取を終えたわたしは、失敗すれば丸ごと転覆する一大プロジェクトを成し遂げたかのように、心の底から、爪先から頭の先まで、安堵していた。



二宮にのみやさん・・・でしたかね。傘や消毒スプレーまで買いに行っていただいて、本当にありがとうございました。といっても、事件となるとこれからもお世話になってしまうのかもしれませんが・・・・・・」


不意に声をかけられて、現実に引き戻された。

原付の男性、もとい、久保くぼさんは、わたしが近くで調達してきたビニール傘を差しているが、もうすでにびしょ濡れだ。

慌てて、微笑んで首を振る。


「いえいえ、こんなときは助け合いですよ。誰に何が起こるか・・・わかりませんし・・・・・・」


本当だ。自分で言った、しごく当然のことなのに、初めて聞いた言葉のようだった。

目の前をまた車が横切り、遠くでまたクラクションが聞こえた。


「バチかなぁ・・・・・・」


「え?」


つぶやいたのは久保さんで、訊いたのはわたしだった。


「親父の、49日だったんですよ、今日。けれど、すっぽかしたんです。憎くてね」


「憎くて」。思いもかけない言葉にこたえられないでいると、コーヒー缶を見つめながら、久保さんが言葉を続けた。


「酒ばっかり飲むやつでね。仕事はまあまあできてたみたいなんだけど、そのぶん家で発散してるというか、そういうやつだった。母には申し訳なかったけど、無理してでも、さっさと家を出て正解だった。18にもなれば、僕のほうが体力も、体格も上だと気づいたからね」


「今日はその・・・」


『お父さんの』と続けようとして、ためらった。

それでも、飲み込んだ言葉は久保さんのどこかに刺さったようだった。その顔に浮かんだのは、さっきとは違う、自嘲じちょうしているかのような、張り付いた笑み。


「ついでに言ってしまえば、葬儀にも告別式にも行ってない。これも、仕打ちか因果か。だとしたら、あいつらしい・・・・・・。まあ、そういう僕も、顔出すだけのことが嫌になって、こんなところまで現実逃避していただけなんだけどね」


黙っていると、久保さんは「これは失礼、お嬢さんに聞いてもらう話じゃなかったな」と言って、先ほど見せた温和な笑みに戻った。


そんなに若くないですよとわたしも笑ってみせながら、まあ、久保さん世代から見たらわたしもまだ若いかと、頭の隅で思った。


「なんていうか・・・・・・難しい、ですね」


「そうだね。難しい」


「すみません、目上の方に、月並みなことばかりで・・・・・・」


「いやいや、実際、その通りだから。それに、年齢としのことは気にしなくていい。あいつがそういうことすらひけらかしてたんで、そんなふうに気にされると僕が嫌なんだ。まあそれも、二宮さんに対しての僕の都合なんだけどね」


そう言って、久保さんは缶コーヒーを飲みほした。

わたしは「そうですね」とも、「そうですか」とも言わず、傘越しの前を見ていた。

吹きすさぶ風。ガラスに打ち付ける雨。揺らぐ街路樹。凍えそうな粒。

ぐちゃぐちゃの風景が、ものを言っているようだった。


「まあ、不幸中の幸いってやつだね」


「え?」


「二宮さんが目撃して、通報してくれたから、話が早くて助かった。相手が逃げ出したのは、さすがに想定外で僕も動けなかった」


ああ、あのとき。

派手な背中のライダージャケットを着ていた男は、終始おろおろした様子で、「大丈夫?大丈夫だよね?」を繰り返していた。そしてけっきょく、逃げ出した。


アクシデントが起こると、本性が現れる。

普段はどんなに、取り繕っていても。

そんなものなのかもしれない。


「ああ。そうそう」と、久保さんは斜め掛けのバックから財布を取り出した。


「傘の代金を忘れるところだった。これ、お釣りはいらないので、受け取って」


一万円札だった。


「え、こんなに受け取れませんよ! それ、本当にただのビニール傘ですから、お気になさらないで・・・」


「もうお礼の機会があるのかどうか、素人なんで分からなくてね。くだらない話までしちゃったし、ここは気持ちとして、受け取ってくれると助かる」


それでも桁が違うじゃないかと逡巡しゅんじゅんしていると、じつはね、と、久保さんは続けた。


「やけになっててさ、さっきまで思いっきり、何か気がまぎれることに使うつもりだったんだよ。けど、なんだかもうよくなった。なんでもお金に換算するつもりはないけど、たぶん二宮さんがいなかったら、真逆の気持ちだったんじゃないかと思うからさ。これで、さっぱりできそうでね」


そこまで言われてしまうと、断るほうがむしろ非礼な気がした。


こんなことならせめて高いほうの傘を買うんだったと思いながら、恐縮して受け取った。ありがとうございます、いえこちらこそと頭の下げ合いをしているうちに、なんだか笑ってしまった。


解体予定の空き店舗の、小さな屋根の下。

足元には、二人分の水しぶきが話した時間、広がっていた。



秋を散らした大雨が降った、その日。


起こってしまったひき逃げ事件の捜査は始まり、起こらなかった銃刀法違反事件は、こっそりと幕を閉じた。


数週間後。ひき逃げ犯は捕まったと、久保さんから丁寧な連絡が届いた。

久保さんはというと、後遺症などはなく、回復しているという。

保険会社とのやりとりのほうがよほど大変ですと書いてあり、苦笑してしまった。


そして返事を打つわたしはというと、じつはこちらも、元気にしている。


あの日。会社にことをばらすとほのめかしたときの、あいつの態度。

いつものクールぶった余裕はどこへやら。まるで喜怒哀楽がメリーゴーランドでくるくる回る、悪趣味な喜劇のようだった。


懇願こんがんする声は、完全に無視した。もし家に来れば、すぐに警察を呼ぶし、それも会社に伝えるというと、電話の向こうであいつは半泣きになっていた。


「けっきょくお前、どうするんだよ。頼むからさあ、大事にしないでくれよお・・・・・・」


「決めるのは、わたしだから」


通話を切ったときにかいていた汗は、けれど終わってみれば爽快だった。

けっきょく。わたしがあんなに恐れていたものは、なんだったのだろう。


久保さんからのお礼で、新調したパンプス。

踵を落とし、ドアノブを回す。


今日は、晴天だ。


(了)









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道交法と、銃刀法。 西奈 りゆ @mizukase_riyu

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