1970・11・25。憲法改正を訴え蹶起を叫んだ白鉢巻きの漢は、マイクなしに肉声のみで挑んだ男は、虚しく自衛官たちの「バカヤロー」の怒号に掻き消されて行った。
本作は「その後」を描いた作品である。歴史にIFは存在しないというが、それを彼の文体、表現、そして生き延びた世界の「彼」を巧みなまでに「蘇生」して表現している。
三島由紀夫のエッセーで度々出る「散華」。それは最も美しい命の表現であり、結晶であると断定する。神風特攻隊で吹き荒れた鉄の暴風。その中で被弾の火焔の尾を牽きながら、彼らは敵艦へ向かった。 その瞬間に、病弱で出征からはじかれた平岡公威は「三島由紀夫」へと人格を塗り替えてゆく。
死という表現に於いて、三島的に二元論を重視して散華の対極を置くとすれば、小田実の「難死」であろう。人間みなチョボチョボや。これが発現したのは終戦間近の大阪大空襲だった。
「戦争の目的が何であれ、そして、それがどのように大義名分としてもてはやされていようと、その死は、どのようにもその目的にも大義名分にも結びついて行かない、それこそ天災に会って死んだとしか考えようのない、無意味な死でした。」(小田実『「殺すな」と「共生」大震災とともに考える』岩波ジュニア新書、17-18p)
特攻隊の死、空襲での市民の死。散華と難死。 若し「難死」の三島へと導かれていたら?そんなパラレルが見事に展開されている壮大な実験的希有作。
1970年、小説家・三島由紀夫は自衛隊駐屯地でクーデターを呼びかけた後、割腹自殺による壮絶な死を遂げた。内容もさることながら、ノーベル賞候補にもなった日本有数の文学者が起こしたということもあり、この事件は世の中に大きな衝撃を与えた。
この事件が未遂で終わってしまい、三島由紀夫が現代まで生き延びたifを描いたのが本作品である。
かつての怜悧さは失われ周囲からはすっかり過去の人と扱われ孤独な晩年を過ごす三島、その彼の行く先には常に一人の青年がつきまとう。彼は三島の小説を引用しながら三島の現在のあり方を責め続ける。この青年と三島由紀夫の対話がある種の三島由紀夫論になっているという構成が凄い。
三島の文体を模倣し、三島の作品を引用して、三島由紀夫本人の架空の晩年を描くという非常に挑戦的なパスティーシュだ。
末尾についている註釈の量も膨大で、これだけ大量の引用を違和感なく小説に落とし込む手つきも際立っており、筆力と熱意が両立して初めて成立できる鬼子のような作品だ。
(新作紹介「カクヨム金のたまご」/文=柿崎憲)