第20話 彼の思いと彼の想い

「ただいまー」


日課のトレーニングを終えた裕作が自宅へ帰宅したのは、夜八時を過ぎた頃だった。

普段であればもう少し早めに切り上げているが、今日はいつもよりハードなトレーニングに勤しんでいた為こんな時間になってしまった。


トレーナーからも休むよう言われたが、限界まで筋肉をイジメた。

裕作の専属トレーナーであるミスター田中が止めに入るくらいだった。


『裕作! 今日は最高にHAYって感じだな~!』

最初の方は応援をしていたミスター田中も、

『……流石にヤバくね?』

ガチ焦りするくらいにハードトレーニングを重ねていた。


『HEY裕作! 今日はもうクールダウンと行こうZE』

しかし、裕作は筋トレを止めなかった。

『OIOI、そろそろ辞めないMAZIで怒るぜ~?』

しかし、裕作は筋トレを止めなかった。


『お前そろそろいい加減にしろや小僧!!!』

遂にはガチギレされたが、それでも筋トレを止めなかった。


おかげで身体中が鉛の様に重く、筋肉痛で全身が痛い。


どうしてこんなハードワークをしたのか。

それは、自身の心に芽生える邪心を打ち消す為である。

裕作は放課後に彼……新海七海しんかいななみに出会い、学年人気第一位の存在を知った。

礼儀正しく明るく、お茶目で可愛げのある性格。

そして、一度見たら忘れぬその顔立ち。


学年の人気を集めるには十分すぎるくらいのポテンシャルを持ち、一位の素質は十分ある。


だがしかし。

裕作はそれでも我が弟、才川沙癒さいかわさゆこそ最も可愛く、そして一番人気であってほしい思っている。

奥ゆかしく控えめな性格だが、独特で優しい性格。

何より、世界で一番可愛いその顔立ち。


裕作がこの世で最も愛する沙癒には、一番であってほしいと思っている。


七海に対する納得と、沙癒に対する葛藤。

この二つが複雑に混ざり、心が黒く濁る。

暴れ出しそうな気持ちを鎮めるために、筋トレのオーバーワークを実行した。


おかげで気持ちの整理が付き、今は晴れ晴れとした気持ちでいっぱいだ。

やはり筋肉、筋肉はすべてを――


「いてて、流石にやりすぎたか」


だが、その代償は大きい。

両腕は胸の辺りまでしか上げられず、足を引きずるように歩くことしか出来ない。

明日から大型連休、ゴールデンウィークの始まりにも関わらずロクに動けそうにない。


玄関で靴を脱ぐのにも苦労し、重い足取りのままリビングへ向かう。

「ただいまー、腹減ったー」


押し戸式のドアをゆっくり開けると、リビングにあるソファーでくつろいでいる沙癒の姿が見えた。

「――あ、裕にぃ。お帰り」

冷凍庫から取り出したカップアイスを食べながら、沙癒は振り返る。

沙癒は上下一体型のピンクのオールインパジャマを着ており、その姿は着ぐるみのマスコットを彷彿とさせる可愛さだった。


裕作は見慣れているから何とも思わないが、この姿を知らないクラスメイトが見た場合、最悪死人が出る。


「沙癒ー、乾かさないと母さんに怒られるぞ」


もう既に入浴後のようで、綺麗な銀髪は濡れたままだった。

彼は自分の事すらあまり関心がなく、よく髪を乾かさずにそのまま眠る事がある。

そのたびに彼の母親や秋音に怒られており、今は渋々髪の手入れをしている。


「いいもん、今日裕にぃだけだし」

「あ、そうか」


両親はこの長い休日を利用し、今日から二人だけで旅行に出かけていた。

二人とも四十歳に差し掛かろうとする中年層の割に、付き合いたてのカップルの様に仲がいい。

なので、こうして二人で留守番をする事が稀に起きる。


「でも、乾かさないと兄ちゃんがグリグリするぞ~」

「わ、やめてよ裕にぃ」

沙癒の首に掛かったタオルを持ち、ワシャワシャと頭をかき乱す。


「いてて! 筋肉痛が!」

しかし、裕作の両腕が悲鳴を上げてすぐに中断された。


「……裕にぃ、今日遅かったね」

乱れた髪を整えようとせず、沙癒は上目遣いのまま心配そうな眼差しを向ける。

「あぁ、ちょっと筋トレしててな」

「――ちょっとじゃない」

「いてぇ!」

沙癒が丸太より太い兄の腕を摘まむと、目から涙が零れるほどの痛みが裕作を襲う。


「そんなにしてくるの珍しいね」

「ん? あぁ、ちょっとな」

「またちょっとって言った」

「いたたたた! ごめんって! かなり、かなりやりました!」


続けて弱い部分を摘まんで追い詰めると、参ったと言わんばかりに叫んで許しを請う。

小さくて細い軟弱な腕一本で筋肉ダルマを屈服させている光景は、おそらく世界中探してもここだけだろう。


「もう、心配した」

「悪かったよ、連絡してなくて」

「……それで、なにかあったの?」

沙癒は長い髪を手櫛で整えながら問いかけると、裕作は「え?」と短い返事で答える。


「裕にぃが筋トレしすぎるのは、悩みがある時」

「いや、そんなことは」

「筋トレで発散する癖がある」

「今日はたまたま――」

「筋肉痛で動けないくらい身体をいじめる」

言葉による詰め方が尋常ではなく、沙癒の小さな体がどんどん大きくなっていく錯覚に陥る。


沙癒はもう一度腕を掴もうとした時、裕作は慌ててその場から距離を取った。

しかし、身体が痺れたように言うことを聞かずその場で制止する。

それを見図った沙癒は指をにぎにぎと動かしながら裕作に近寄る。


「黙ってたら、もっと虐めるよ?」

「あー! 言うよ、言えばいいんだろ! だから許して! あー!」

鋭く光る瞳に睨まれた裕作は、赤子の如く大きな声で訴える事しか出来なかった。


💪←☚


裕作は晩御飯を食べながら今日あった出来事を洗いざらい説明した。

この学院で人気生徒ランキングという物がある事。

そのランキングで沙癒が二位だった事。

そして、そのランキング一位の新海七海に会った事。


全部を話し終えたこと頃に丁度ご飯を食べ終わり、裕作は腹を摩って満足そうな笑みを浮かべる。


「ご馳走様、ふー、食った食った」

丁寧に手を合わせてから、幸せそうに息を吐く。

大食いの裕作は常人の何倍もの量を食べる為、テーブルには綺麗に平らげた大皿が何枚も広がっていた。


「お粗末様、ほんと、おいしそうに食べるね」

「あぁ、沙癒が作る飯ならいくらでもいけるよ」

「……ありがと」


沙癒は大皿を片付けながらお礼を言うと、そのまま慣れた手つきで流し台へ持っていく。

母親がいない時は沙癒が料理を担当し、腕によりをかけて手料理を振る舞う。

その実力はプロ級……とまではいかないにしろ、他人を満足させられる程の腕前を持つ。

何より、裕作は彼の味付けが非常に好みで、沙癒が作る料理であれば何でも食べれてしまう。


「――それで、裕にぃは新海君に会ってどう思ったの?」

「ありゃ、学年で一位になるのは納得だな」

「……私より好き?」

「それはない」

食器を運ぶのを手伝いながら、裕作は食い気味に否定する。


「なぁ沙癒、一位取れなくて悔しくないか?」

「……いや別に」

沙癒は蛇口から温水を出し、一枚一枚丁寧にスポンジで汚れを落としていく。


「兄ちゃんはめっちゃ悔しいぞ、沙癒が一位じゃないなんてありえない、ってな」

「恥ずかしいからやめて」

机の上にある皿を裕作が持って行き、沙癒がお皿を洗ってを繰り返す。


過剰なブラコン愛を跳ねのけるように、スポンジをぎゅっと強く握る。

食事中に話していた時も、沙癒は人気投票の事に全く興味を示していなかった。

人前で目立つことを苦手とする沙癒にとって、この話題はあまり好きではないらしい。


「でも、沙癒も一位になりたいだろ?」

「……それは別にどうでもいい」

「どうでもいいことは無いだろ、みんなから注目されるぞ?」

「別に、人気になりたくないし」

洗い終わったお皿を食器乾燥機の中に入れていく過程で、沙癒は「それに」と言葉を続ける。


「私は、裕にぃに好かれればそれでいい」

全部運び終わる頃にはほとんど洗い終えており、残すは裕作の持っている小さな茶碗と大きな丼ぶりだけになる。


「……そうか、なら仕方ない」

残念そうな表情を見せて、裕作は最後の食器を手渡す。

沙癒はそれを黙って受け取り、キュッキュと気持ちの良い音を立てて洗っていく。

本人があまり乗り気でないのであれば無理強いは良くない、そう思った裕作はこの話題を振るのは辞めようと思った。


「――裕にぃ、お風呂沸いてるよ」

最後の食器を洗い終えたタイミングで、沙癒がボソリとつぶやく。


「あ、ああ。じゃあ入らせて貰おうかな」

彼が一位を望まないのであれば、これ以上何も言うべきではない。

考えても仕方がないと思い、沙癒に誘導されるように風呂場へ向かった。


キッチンに一人残った沙癒は、視線を水の流れる排水溝に落とす。

流れる水を眺めては、誰にも聞こえない小さな声で言葉を呟く。


「……本当に、一人に愛されればそれでいいのに」

彼の小さな独り言は、蛇口から出る水流の音に空しくかき消されていった。

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