夜の部 三杯目と四杯目の間

    夜の部 三杯目と四杯目の間

  

 

 “口を縫う”という決断をしたサキコに対し、宇蘭たちはすぐさま仕事を開始した。実は、既に手を回していたのだ。

 宇蘭はカウンター裏から茶封筒に入れられた書類を取り出してサキコの前に置いた。

 

「この封筒の中身は人間世界への“観光ビザ”よ。人外向けに依頼を受けてくれる業者がこの街にあって、私、そこの所長さんと知り合いなの。だからそこに格安で依頼しておいたわ、店の奢りでね。サキコさんはパスポート持ってる?」

 

サキコは目を丸くしたまま「あ、はい」と小さな声で答えた。

 

「先輩方の全盛期は口裂け女の世界進出も計画されていたので、パスポートは一応、私も持ってます」

 

宇蘭はそれを聞き、満足そうに結構よ、と片目でウインクした。

 

「これで七日間は人間世界でウロウロしててもエクソシストに退治されることはないわ」

 

 人間世界へのパスポートと観光ビザ。これらを取得するには相当な審査があり、とても厳しいものだと聞いていた。何故なら人間は無力だからだ。普通は異形のモノたちに対処できない。本気ならあっさり殺されてしまうだろう。そういった悪い怪物もたくさん存在する。よって、「人間」、「異形」二つの世界の秩序を守るため、異形が人間世界に観光に行くための審査は危険性、思想、性質それらを隅々まで調べられたりととても厳しいのだ。

 

 その為、普段の異形のモノたちは無断で人間世界に入りイタズラや悪さをしている。しかし退魔師たちも暇ではないし、それが異形たちの「サガ」だと理解しているので、弱い存在だったり、大した悪さでなく害の少ない悪戯程度なら見逃すことになっていた。だが度が過ぎれば退魔師(エクソシスト)たちに退治される可能性と隣り合わせでもあるのだ。太一と出会ったあの夜のサキコも、好戦的かつ猟奇的な退魔師に会えば問答無用で退治されていたかもしれない。

 

 しかし、そこで“ビザ”があれば他でもない「人間」がサキコの安全性を証明したことになる。彼女は堂々と昼間も活動できるようになるのだ。

 

 サキコは本当に感謝しても仕切れなかった。これで七日間はノーリスクのオフィシャルで「人間」として太一と接することができる。

 

「さあ、あとは手術するだけさね。覚悟いいかい? 口裂け女さん」

 

ノザワはギラリと目を光らせてサキコに問うた。

 サキコも無意識に自らの頬の切れ目を撫でたあと、静かにうなづいた。

 

 

        

       

          ◯

        

 手術は次の日の夜には完了していた。

 サキコはいつもの白いマスクを取り去り、堂々と、その人よりもかなり大きめな胸を張って『夜の部』に来店した。

 

「いらっしゃいませぇい」


翼は無意識的にいつもの居酒屋風「いらっしゃいませ」をしたあと、サキコの姿を見つけ、驚いて「わっ」と声が漏れた。

 

 サキコの、唇の端から耳の下まで伸びていた切れ込みが全く綺麗に消え去っていたのだ。その口元は妖艶で、どこか吸い込まれそうな桃色の唇だった。

 サキコはいつものようにカウンター席に座った。

 

「あ、どうも、つ、ツバサさん」

 

どうも照れたように呟くサキコに対し、翼はまるで自分のことのように喜んだ。

 

「すっごく良いですよサキコさん! 超可愛いです、いいえ、綺麗です! これなら太一さんなんてイチコロですよ」

 

翼が騒いでいるので、何事かと宇蘭もカウンターの裏から出てきた。そしてサキコを見つけると、あらと口をすぼめるのだった。

 

「とても素敵ね、サキコさん。私もなんだか羨ましくなってしまうわ」


宇蘭はいつものように台に乗ってカウンターと身長の高さを合わせると、肘を置いて頬杖をついた。まるで場末のスナックママの貫禄だ。最も、見た目だけなら子供にしか見えないのだが。

 

 宇蘭に褒められると、サキコはまた照れたようにはにかんでいた。

 口元をここまで露出するのはサキコにとって考えられない事だ。空気の流れを感じ、風がスースーする。そして見られるのは大変恥ずかしいのだと気がついた。

 

「や、いや、私なんて、全然そんな」


何度も口元に手をやって顔を擦り、隠しているのか強調しているのか分からない仕草をサキコは続けていた。宇蘭はその光景にくすりと笑うと、頃合いだと判断した。

 

「じゃあ、行きましょうか」

 

宇蘭は台からぴょんと飛んで降りると、翼からダウンジャケットを受け取って袖を通した。

 行くとは一体、サキコは訳が分からず目を丸くした。

 

「え、一体なにを?」

 

「何って、決まってるじゃない。“運命の出会い”よ」

 

 

 


 ──。


 深夜は気温が下がったことでかなり冷えた。そんな中、宇蘭とサキコは二人きりで閑静な住宅街の十字路脇に隠れていた。喫茶店からほんの数分の位置だ。

 冷たい風が吹くと、サキコは顔をマフラーの中に埋めた。しかし一緒にいる宇蘭の方はいつものエプロン姿の上にダウンジャケットを着ただけの簡単な姿だ。街灯に照らされて浮かんだそのすまし顔は、まるで寒さなど感じていないようにすら見えた。

 

「宇蘭さん、寒くないのですか?」

 

「今の気温は精々が四度くらいでしょ、大したことないわ。マイナス二百度くらいまでは余裕だもの」

 

 宇蘭の言い草にサキコはぽかんとしてしまった。そもそも何故、この寒空の下ここへ連れてこられたのかも分からない。

 

「あのう、それより、私はここで何をすれば──」


サキコがもじもじしながら宇蘭を見下ろした時だった。宇蘭は突然、その人形めいた完璧な形の目を見開き、今よ! と短く叫んだ。

 

「え、なな、何がですか」

 

サキコは聞き返し終わる前に、既に宇蘭に突き飛ばされていた。

 この小さな身体のどこにこんな力が。口を縫ったことで「口裂け女」の力を封じられたとはいえ、大人と子供だ。にも関わらず、サキコは簡単に力で押されてバランスを崩してしまった。

 

「きゃっ」

 

 短い悲鳴をあげてサキコはよろめいた。十字路の角を飛び出した状態だ。その片足は宙に浮いているので、ああ、転んでしまう。そう思ったところだった。

 そんなサキコの両肩を支える者があった。

 

「わ、わっぷっ──。だ、大丈夫すか? おれ、全然見てなくて、すみません」


 その人物はサキコの肩を両手に抱くと、慌てたように早口で捲し立てていた。

 サキコは顔をゆっくりと上げる。街灯に照らされた、自分を抱く人物。間違いない。

 

「太一さん」

 

「え」

 

 聞こえないほどの小さな声で、サキコはその名前を呟いた。そして慌てて口元をマフラーに埋める。埋めてから、口を縫っていたのだと思い出した。もう、口は裂けていない。普通の人間だ。

 

「あのう、大丈夫すか」

 

太一は心配そうに顔を覗き込んでくる。どきりとした。だが、それは思い違いだとすぐに理解した。そうだ、もうこの口は裂けていない。

 サキコは顔をゆっくりと上げた。

 

「ええ、大丈夫です。こちらこそ、ぶつかってしまってごめんなさい」

 

 

 サキコと太一はこの瞬間、二回目の出会いを果たしたのだった。宇蘭も電信柱の陰に身を隠しながらそれを見届けると、にっこりと笑う。どうやら上手くいきそうだ。

 

 





──夜の部 三杯目と四杯目の間 完

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