夜の部 三杯目

       夜の部 三杯目

   


 口裂け女サキコは、少し落ち込んだ気分を象徴するかのように、ブレンドコーヒーをブラックで静かに飲んでいた。とても甘いものを摂取する気分ではなかったのだ。

 サキコの座るカウンター席、その真向かいに立つ翼も何だか声がかけ難い。

 

 今日の昼間、サキコはこっそりと店に客として入り込み、毎日昼の部に「恋愛相談」を受けにくる太一と、その相手の宇蘭とのやり取りを盗み聞きしていた。

 

 太一の夢は亡き祖父の愛した海と民宿を守ること。

 その夢の途中、仮に結婚を決意したとして、相手は妖怪ではまずいのではないか。そもそも太一はどこまで本気なのか。サキコとの出会いにしても少し綺麗だなあ、というくらいで本気ではなく。単に暇つぶしにURANにやって来て毎日コーヒーを飲んでいるのかも知れない。

 

 サキコの気分は落ち込んだ。

 昼間の太一の話を聞いたのだ。実はサキコの方は、本当に太一が気になり始めていた。その心に少しだけ触れたことで、限りなく好意を抱き始めていた。

 

 とても真面目で素敵な人だと思えた。亡き祖父の意志を継ぐ覚悟と慈善事業に自ら従事する立派な心の持ち主だ。口裂け女の私を「美人」だと言ってくれたのは本当に差別しない彼の考えからではないか。そうサキコには思えてならなかった。

 それは、「口裂け女」として嫌われていることがサキコは何より嫌だったからだ。愛されたいと常々思っている。生まれ変わったらポメラニアンにでもなりたいと願っているくらいだ。

 

「サキコさん。昼間の話、聞いてたわね」

 

いつの間にか、サキコの目の前で宇蘭がカウンターに肘をつき、寄りかかるように体重を預けていた。

 

「あ、宇蘭さん……」

 

「分かったでしょ太一さんのことが。彼は私たちですら、思っていたよりもずっと良い人間みたいよ」

 

宇蘭が確認するように告げると、サキコも頷く。

 

「はい、良い人だと、思いました」

 

「どうするつもり」

 

そう宇蘭に問われると、サキコは無性に答えがほしくなった。だが、宇蘭は相談に乗るだけ、アドバイスだけだ。結論を出すのは自分なのだ。

 サキコが言い淀んでいると、たまらなくなった翼が助け舟を出す。

 

「サキコさんのしたいようにすれば良いんだよ。私はそう思うな」

 

 サキコが顔を上げる。したいようにする、それなら答えは出ていた。しかし、駆がやって来てサキコの前にイチゴのショートケーキを置いた。

 

「現実問題として、だ。サキコさんは口裂け女だ。口が裂けてるんだよ。太一は普通の人間で、高速移動したり赤い傘で空を飛んだりしない」

 

駆も宇蘭の隣に並んで皮肉たっぷりに腕を組んだ。これは嫌味からではなく、駆なりに状況整理をしたつもりだ。それだけ、太一とサキコの存在は遠いものになっている。

 

「そう、ですよね。私みたいなオバケが太一さんと、お話してみたいなんて、調子が良いですよね」

 

 サキコはイチゴのケーキを眺めて俯いた。太一は人間、自分は化け物。所詮は怖がられ、人々に忘れ去られた時に消え去る定めだ。それが都市伝説。幸せになんかなれっこない──。


 だが、そう思ったとき。

 駆が優しく声をかけた。

 

「あんたが今のままなら、な」

 

「え?」

 

サキコが裏返った声で返事をすると宇蘭は「ノザワさん」と、サキコの背後、テーブル席に一人で雑誌を読んでいた老齢の女性に声をかけた。

 その女性はゆっくりと席を立ち、カウンター席で呆然とするサキコの左隣に座った。

 

「あんたがサキコさんかね」

 

 その女性、ノザワは皺の深く刻まれた顔で笑いかけてきた。目元の大きなサングラスはまるで芸能人のようだ。ある程度の年齢は重ねていることが真っ白な髪の毛からもわかるが、伸びた背筋と若々しい雰囲気。そして着こなすレザージャケットはまだまだ現役であることを誇示するかのようだ。

 

「あ、はい、私、サキコです」

 

「“口裂け女”の、だね」

 

「はい」

 

ノザワは確認すると、深くうなづいた。どうやらサキコを気に入ったらしい。対して、訳の分からないサキコを宇蘭はフォローした。

 

「ノザワさんはお医者さんなのよ。“超常現象専門”のお医者さんね。サキコさんのことを話したら喜んで相談に乗ってくれるそうよ」

 

「え、お医者さん、ですか」

 

「そうさね、普通じゃない医者さ。サンタクロースもなまはげも人面犬も空飛ぶトナカイも、みんな私の患者だよ」

 

 この「普通じゃないお医者さん」に一体何をしてもらおうというのか。サキコが不安そうにしていると、ノザワは「マスクを取っておくれ」と告げた。

 

「え、マスクを」

 

「そう、マスク。早く外しな、診察できないだろう」

 

ノザワに急かされ、サキコは恥ずかしそうにゆっくりと、口元を覆っていた大きな白いマスクをとり、カウンターに置いた。

 

 現れたのは形が良い少し小さく妖艶な唇だった。しかし、その唇の両端から「切り込み」が入っていて、それは耳の真下まで吊り上がるように裂けていた。

 

 その素顔に翼は「ぞわっ」とした。妙な恐怖心を抱かせる。この裂けた口が全て開かれれば確かに怖い。明るいところで見ればその威力は相当なものだとやっと理解できた。普段、マスク姿のサキコは普通のシャイな仕事帰りのOLにしか見えなかったからだ。

 

「おお、さすが口裂け女さん。やっとサキコさんが本物だって分かりました」

 

 翼が思わず呟くと、駆は失礼だろ、と嗜めた。普段ならそれは褒め言葉だが、今のサキコにはまるで化け物だと罵られたように感じられた。太一との、人間との差異を突きつけられる。

 

 

「あたしに任せな」

 

 その時だった。充分にサキコの顔を観察し終えたノザワは、そのしゃがれた声で言った。

 

「あんたの口を私が

 

 口を、縫う? この裂けた口を縫うというのか。そんなことをしたら──。


「あんたは“口裂け女”じゃなくなる。ただの女になるのさ」

 

 都市伝説や怪異といった存在は、その特異性こそが存在の証明となる。人面犬も人面でなければただの犬だ。口裂け女にしても口が裂けていなければ、普通の人間になってしまう。

 

「口を縫えば口裂け女としての“力”を失う。あんたの都市伝説としての“設定”が消え去るのさ。高速移動も、傘で空を飛ぶのも、刃物の扱いも、怪力も、全て失う」

 

 サキコは黙って耳を傾ける。ノザワは言葉を続けた。

 

「その太一っていうボウヤに直接会って話したいならそれしかない。あんたらとボウヤの間には“世界”という絶対的な壁があるからね。だから選びな、存在の証明を失うか、気になる男を追いかけるか。全てはあんた次第だ。あたしにはそれができる」

 

「あ、う、私は」

 

サキコは吃ってしまい、宇蘭、翼、駆の順番に顔を見た。だが全員何も言ってはくれない。全てはサキコ本人が決めねばならない。

 

「口裂け女」、という自らのアイデンティティを捨て去り、誰でもないただの女になる。が、人間であることで太一と直接会って触れ合うことができるだろう。そして、いつかは共に在れるかも知れない。

 

「その代わり、口を縫い、長く人間でいればいるほどアンタは二度と“口裂け女”に戻れなくなる。まあ、精々が七日ってとこかね。七日も口を縫っていたら完全に縫い目が接合されて二度と口が裂ける事はないよ」

 

「そうなったら、どうなるの?」

 

翼が恐る恐るとノザワに聞いてみた。ノザワはさらりと答える。

 

「完全に人間になるのさ。でもあまり良いことはないかも。“口が裂けている”、ってのが口裂け女のアイデンティティにして存在意義だ。それを自ら捨てるのだから、それは誰でもなくなるってことさ。案外辛いものかも知れないね」

 

人間になるか、異形の妖者として生き続けるか。

 だが、人間であれば太一と堂々と会えるのだ。

 

 サキコは考えた。そして、あることに気がついた。

 七日も猶予があるじゃないか、と。七日間で太一と直接会って接してみればいい。それで何かあれば七日経つ前に「口裂け女」に戻れば良いのだ。今の自分を捨てることも、太一と会えないこともない。そして、何より口裂け女である自分が嫌いなのだ。怖がられたくない、愛されたい。


 顔を上げて、宙を眺めた。そして呟くように言った。

 

「私は口を、縫います」

 

 気になっている彼と少し接するだけ、そして全て夢だったのだと元の生活に戻ることもできる。サキコは考えた。ほんの少しだ、本当に太一と一緒になろうとまでは思っていない。自分にそう言い聞かせながら。

 

「引き受けたよ、縫ったらあんたはただの人間だ。七日間、せいぜい上手くやんな」

 

ノザワはふっ、と息を吐いて笑った。

 

 

 



──夜の部 四杯目に続く

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