紫煙を揺らして

アルストロメリア

紫煙を揺らして

 ベランダから見下ろす夜景は、今日も変わらず無機質に美しかった。


 私は手すりに体をもたれかけさせると、夜風で靡く髪をそのままに、茫洋と下界を見下ろす。眼下には高速道路の白い光や家々の明かりが満ちて、まるで光の海のように輝いている。ぽっかりと暗闇に沈んでいるのは森林公園だろうか。逆に一際眩しいのはこのあたりで最も大きなドーム型球場のスタンドライトで、煌々とした真白い光に、観客の熱気がここまで伝わってくるかのようだった。


 ――何も変わらないのだな。私は胸中で独り言ちる。何も変わらない。たとえ私に何があったとしても、世界は何も変わらない。それは子供でも分かるような理屈で、こんなことに感傷を覚えるのはそれこそ子供っぽい感情の動きであって、明日には私も変わらず会社に出勤するのだ。


 分かっていてもどうしようもなく気持ちが沈んで、私はノロノロとポケットに手を差し込む。指先に触れた固い紙の箱を取り出すと、僅かにひしゃげた箱から白い煙草を一本取り出し、火を付けた。

 

 ――私は今日、恋人と別れた。理由は簡単で、向こうにほかに好きな人が出来たのだという、そんな、物語にもならないようなありきたりなことだった。


 ベランダの暗闇の中、赤い光がポツリと白い筒の先に灯る。その小さな光を眺めながら煙を吸って、吐き出す。口の中いっぱいに広がるツンとした香りと苦みに、不味いな、とそれだけを思った。不味い。不味いのだ。煙草も、こんなところで煙を吸っている自分も、そもそも仕事上がりにわざわざ別れを告げに来た元恋人も。


 ――勝手に幸せになってしまえ、くそったれ。


 乱暴な言葉を思い浮かべて、私は思い切り煙を吸い込むと、夜の中に吐き出す。とろりとした暗闇の中、夜景を煙らせて白煙がたなびいていく。その煙に自分の感情も溶かしてしまいたくて、私は瞬く間に一本を吸い終わると、もう一本に火を付けた。途端に吹き付けてきた強い夜風に、思わず火の付いた煙草を口元から離す。ちり、と赤色の混じった灰が夜の中に吹き散らされていく。私は溜息を吐くと、また力なく手すりに体をもたれさせた。


「あー……何だかなぁ……」


 零れた声の情けなさに、畜生、とまた悪態が口をついて出る。指の間でゆっくりと煙を立ち昇らせる煙草を眺めながら、私は、せめて今晩一晩くらいは元恋人が不幸になればいい、と思う。怪我をしてほしいとかじゃなくて、例えば、そう。新しくできた好きな人とやらの前で醜態をさらすとか、パンツが破けるとか、そんな感じで。


 ――そんなことを考えてしまう自分は、きっと世界で一番格好悪いのだけれども。


 はぁ、と溜息をもう一つ。私は滲みそうになる涙を必死にこらえると、また夜景へと目をうつした。丁度試合が終わったのだろう、球場から色とりどりのバルーンが打ち上げられるのが見える。華やかで目映い光景を眺めながら、私は吸いかけの煙草を、今度はゆっくりと口元に運んだ。吸って、吐く。それだけを繰り返して、私は白い煙と球場の光を見つめ続ける。ややあって、もう二本の煙草を吸い終わるころには、球場の明かりも消え、私の気持ちも幾ばくか落ち着いていた。


 ――明日になったら、あいつからもらったものをゴミ捨て場に持っていこう。丁度普通ごみの日だし。


 そう思って、私は小さく笑う。笑った拍子にぽろりと頬を伝ったものには気が付かないふりで、私は踵を返すと、一人きりの部屋に戻っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紫煙を揺らして アルストロメリア @Lily_sierra

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ