曼殊沙華の魔女

露藤 蛍

第1話

 彼岸花につけられた迷信の一つを知っているだろうか。

 「彼岸花を手折った人間の家は火事になる」というものだ。

 その花びらが火花を連想させ、毒性を持つこの花に気軽に触れることがないよう、誰かが流布した噂だろう。

 秋の彼岸、その数日間にだけ現れる曼殊沙華の赤。

 鮮烈に、いつの間にか現れて、あっという間に跡も残さず消えていく。

 そんな彼岸花のような犯罪が、かつて起こった。

 場所も、仕事も、たった一つの共通点を残して関連性はない。毎年、彼岸花が咲く季節にだけ、多くの人が死ぬ。

 何十、何百。夥しい数の人間が。内臓を焼かれ、骨髄は融け、爆ぜた血液が放射状に散らばって路面に焼き付いた。

 ──共通点は何か? その罪状が大なり小なり、何かしらの罪を犯していた事だけだ。いじめ、殺人、詐欺、窃盗、DV、痴漢、盗撮、ネットでの晒し上げ、陰謀論に強姦。被害者を突き詰めれば、その犯罪歴だけがあった。


 曼殊沙華の魔女。音もなく現れ、知られぬうちにヒトを殺す。

 名付いた花の特性を有する、正義に狂った者の犯行だった。



 秋帆あきほが現場に辿り着いた時、既に手遅れだった。

 まずは状況確認だ。火の手は上がっていない。無事な人間は校庭に避難していて、学校の校舎からは背を向けている。生き残りの側には警官が待機しているので、彼らの防備は問題ないだろう。


「先輩~、なんか嫌な臭いするんですけど~! いや~な気配バリッバリでするんすけど~!?」


 秋帆の服を掴んで、後輩のみなとが言った。本来なら昼休み中の小学生たちで賑やかなはずだが、今日は虫の一匹もいないほど静まり返っている。


「さっさと眼鏡掛けといて。障るようなのはフィルタかけてくれるでしょ」

「んなこと言ったってこの肌触りがダメなんスよ!」

「じゃあ外で待っててよ。サクッと片付けてくるし……これは……この校舎、建て替えかもなぁ」


 校舎をまじまじと検分しながら、秋帆は唸った。

 管理区域の小学校。緊急で行けとまくし立てられてやってきたら、このザマか。でもまぁ、最近事件がなかったし、仕方ないかなぁ。

 のんきに思って、秋帆は土足で昇降口から上がり込む。問題は三階の、三年二組で起こったと聞いている。


「っうぇ……ざわざわする……距離離れてコレっすか……」

「……もう何人か巻き込まれて死んでそうかな」

「流石に俺でも祓いきれねぇっすよ、俺の危険センサーが行くなってビンビン反応してるっすよ~」


 学び舎は怖気が立つほど冷たかった。重たい空気が身体を押しつぶし、ここから先に入ってくるなと警告しているような。本能で感じる危機感というか。


「湊、あんた外で待ってて。気が触れるかも」

「りょーかいっす! ビビりはさっさと逃げるっす~!」

「先生や生徒が呑まれてないか、しっかり見ときなさいよ!」


 秋帆が指示を出すや否や、湊はしわくちゃに寄せていた眉と口を引き締め、上機嫌に来た道を引き返していった。怖い所にいかなくてよかった、と安堵したのが丸分かりだ。


「さてと」


 けれど、これでいい。経験が、彼にはまだ早いと告げていた。

 校舎の中に土を残し、ローヒールのパンプスが鼓動の様に音を刻む。床を見下ろしながら三階に辿り着き、秋帆が顔を上げると、どっと心臓を掴まれたような衝撃が走った。

 薄い膜一枚を突き抜けて、全身の筋肉が硬直する。ゆっくりと深呼吸して、自由になった足でカツン、と一歩踏み出した。


 壁も床も、血で真っ赤だった。壁際には内臓か肉か分からない生肉が散乱し、細切れにされている。血だまりはまだ乾いておらず、殺されて間もないのだろう。

 流石に動く者はいない。誰も彼も、胴体から四肢が切断されている。転げ落ちた頭は白目を剥いて、乱れた髪の隙間からぎょろりと秋帆を睨みつけた。

 性別は定かではない。生徒も教師も関係なく、四肢だけをもがれている。脚の付け根を真っ直ぐに斬り落とされた亡骸は、乱雑に──世間話をする生徒たちのように──廊下に立っていた。


「あんたらをこうしたのは何処?」


 秋帆が問う。四方八方を向いていたトルソーの頭がぐるりと回って、ある教室を向いた。場所を確認してから、軽く視線を動かした秋帆は洗面台を見つけて、おもむろに蛇口を捻る。

 出てきたのはどろどろとした粘性の高い血液だった。別に給水タンクに死体があって溶けだしたものだとか、そうでもない。


 完全にこの三階だけが、狂気に呑まれている。階層まるごと犠牲になったのだ。たった一人の狂気にあてられて、誰も彼もが死んでしまった。

 ガラス越しに眺める空は赤く、雲は腐敗したタールのようにぬらりと輝いている。影響を受けている範囲が広いから、余程溜まりに溜まった感情なのだろう。


「これはあいつには無理だわ、置いてきてよかった」


 ちょっと刺激強すぎ、と秋帆はぼやいて、空きっぱなしの扉から教室の中に入った。


「こんにちはお嬢さん。給食の時間は終わってると思うけど」


 机も椅子も、バラバラに砕けて散乱している。ヒールの裏に鮮血が纏わりつくほど、ここで流れた血は多いようだ。

 ゆるりと周囲を確認する。部屋の片隅に置かれた灯油ストーブの近くに、一つだけ動くものがあった。

 全身に血を被った、ショートカットの女の子。彼女は座り込んで灯油ストーブに向き合っていて、周りを囲うように切断した腕や足が置かれている。

 少女は灯油ストーブの安全柵に、学友の腕を押し付けていた。もう片手は、こげ茶色に焼け焦げた肉棒と、融けた髄を滴らせる骨を握っている。


「そう、食べちゃったの」


 秋帆は平然と言って、少女に近づいた。

 よく見ると、灯油ストーブの上に置かれた金属製のたらいの中には、血に沈んだ手足が入っていた。煮ているのだろう。


「美味しい?」

「……うん、おいしい。お腹、すいてるから」


 言って、少女は骨肉にむしゃぶりついた。焼けた人肉を引き千切り、どこか恍惚とした様相でむしゃむしゃと顎を動かしている。


 この異変の元凶はこの子だ。サングラスをかけると、レンズ越しに見えた少女は全身が真っ黒に塗りつぶされていた。完全に狂気に呑まれて正気を失っている。現実に引き戻せそうなら試すが、そんな余地もない。


 狂気は伝播し、そして発芽する。七つの大罪を始めとする負の感情、或いは抑えきれない快楽や欲望、その他もろもろ。そういった、基本的には忌諱される感情から目を背けた結果、ヒトの心はヒトの形を失ってしまう。


 今この、血塗れの教室だって、廊下だって。常人であれば、恐怖を刺激されて発狂しかねない──狂気の発露、即ち心の崩壊である。


「あのね、『三秒ルール』って、知ってる?」


 少女は口の端から血のソースを滴らせて言った。顔を向けてくれないので、表情までは分からない。


「あれだっけ。床に落ちた食べ物を、三秒経つ前に拾えば汚れてないからセーフ、ってやつ」

「うんそう。あたしね、おかわりでもらったパン、落としちゃって。すぐ拾ったの。埃とかついてたけど、三秒ルールで大丈夫、って思ったの」

「埃、ちゃんとフーフーした? セーフだけど、綺麗にして食べようね」

「うん、ちゃんとフーフーしたよ? フーフーして、手でパンパンってしてね。一応、床に触れたところはちぎって、置いといたの」


 交わされる言葉は、重たい雰囲気とはうって変わって日常的だ。少女の声は先生や親に語り掛けるときの様に弾んでいた。


「でもね、そしたらやまとくんが、『こいつ汚ぇの、落ちたやつ食ってる』って言ったの。ちゃんととったから大丈夫って言っても、きたねぇの、ばい菌って言ったの。そしたらみんな集まってきて、あたしがちぎったほんのちょっと埃がついたパンを見て、ばい菌食うオマエもばい菌じゃん、ってみんなに笑われたの」


 よくあるいじめの標的にされた、という訳か。子供は無邪気だ。善悪の区別がつかない。己の言葉が持つ力の強さに気が付かない。結果として、追い込まれた子供が狂気を発芽させてしまって教室が全滅、なんてこともまぁ、経験はある。よくあることだ。

 しかし、少女の語り口は、いじめられっ子にしては何処か声高で、嬉しそうだ。追い込まれた者特有の恐怖がない。身を守らなければならない本能から来る、触れるもの全てに対する敵意がない。


「あたしは食べるの、止めようかなって思ったんだけど。もうお腹が空いてて仕方がなくてね。ばい菌って言われても、食べたかったの。おうちに持って帰って食べるつもりのパン、棄てたくなかったの。いつもなら我慢できるんだけど、できなかったの。そしたら、そしたらね! 代わりにやまとくんがくれたんだよ! 腕!」


 少女が秋帆に顔を向けた。両端が裂けた唇を視認した秋帆は目を見開きながら、床から殺気を感じて上体を逸らした。

 眼前に分厚い壁がそそり立つ。回避していなければ、鋭利な断面で顔を引きちぎられていた。後方へ重心を落として生えた壁を蹴るが、鉄に思えたそれに足を取られた。履いたパンプスが脱げ、足首に生暖かい何かが触れる。


「美味しそうな腕! 見て、こんなに食べ物があるの! みんな食べていいんでしょ? 嬉しいなぁ、だってちゃんとコックさんもいるの。いろんなお料理にしてくれるんだよ?」


 手だ。小さな子供の手。足首がうっ血するほどの力で握られたまま、秋帆は背後から強烈な力で殴打された。いつの間にか、後ろにもう一体何かがいたのだ。

 壁に激突する。壁に触れた肌が、じゅっと音を立てる。深いな焦げ臭い臭いと、皮膚を抉られた痛みを堪えながら、秋帆が渾身の力を込めて壁を殴った。


「──っだあぁッ!」


 この壁は鉄板だ。なるほど、少女は秋帆をフライパンで熱し、重りを乗せて丸焼きにするつもりだったのだろう。

 飢餓と暴食に呑まれて尚、食べ方にこだわるとは。衛生に気をつけていたあたり、食への執着が狂気に転じて芽生えたか。

 だが、たかだか暴れまわるだけの狂気。決してうまくは使えない。

 秋帆の拳はフライパン代わりの壁を粉々に砕いた。細かく散った鉄くずの向こうで、少女の横に裂けた口が半開きになっている。秋帆はそのまま少女の手が食い込んだ脚で蹴り込み、少女を背後に向けて投げつけた。

 振り返る。床に溜まっていた血液がいつの間にかなくなり、代わりに赤黒い塊が少女の身体のクッションになっていた。


「……ったぁ、頬っぺた軽く火傷したんだけど。眼鏡もフレーム壊れちゃったし」


 サングラスを投げ捨て、よれたプリーツスカートの裾を叩いて直す。


「おねーさん、食べさせてくれないの? 全部食べちゃったらどうしようって不安だったの。だから来てくれたのかなって思ったんだけど」

「ごめんねぇ。お姉さん、君にご飯をあげに来たわけじゃないんだ」

「そうなの? じゃあなんで?」

「君を殺しにきたの」


 柔らかな血のベッドに埋もれて首を傾げる少女は、年相応のあどけない表情を浮かべた。この異質な場所にそぐわない、柔らかな本心からの顔。

 彼女にとって、この血と死肉ばかりの教室は全く異常ではないのだ。この惨状が、既に普通になっているが故に。

 ──だから、同じような感覚を持った者しか、この場には踏み込めない。常人が踏み込んだが最後、狂ってしまうだけ。けれどその狂気の発信元である人間すら、囚われて出てこれなくなってしまう。あるいは、己の心と欲望を満たすためだけに、空間を広げてしまうかもしれない。

 多くの人が死ぬ。それは避けねばならない。ならばどうするか。

 簡単だ。人を狂わせる狂気には、同じだけの狂気をぶつければいい。

 己の狂気を受け止め、それでいて常人の感覚も持ち合わせた、己が狂っていると正しく自覚できている者をだ。


「ごめんねぇ、君は悪くないよ? 悪くないんだけど、こうなっちゃったからにはねぇ」


 肩を撫でる。赤いフェイクファーを飾ったケープがもふっと現れる。ふかふかの毛の隙間から、数本の彼岸花が飾られている。

 無尽蔵の食欲と、それに伴う飢餓。対するは──


「残念だわ、いじめっ子とかなら安心してブチ殺せたんだけど。普通の子だからつまんないや。大丈夫、楽に逝かせてあげるよ」


 行き過ぎた正義と、快楽だ。

 少女が首を傾げる。秋帆はケープに刻まれたスリットの間から腕を出し、少女に向けて真っ直ぐ伸ばした。ブレスレットと鎖で繋がれた銀の指輪が輝き、指を鳴らしながら少女を指さす。


 バチン、と軽快な音と共に、少女の右脚が爆ぜた。鳴らした右手には、バチバチと稲妻が纏わりついている。

 右脚に過電圧を流し込んで血液を一瞬で蒸発させ、圧力で炸裂させただけだ。続けて指先に吐息を吹きかけてから、腕を払う。指さした灯油ストーブが一気に火力を上げ、炎に包まれた。

 茹でていた手足も、置いていた腕や脚も、まとめて劫火で焼き尽くす。少女が執着している食料を、跡形もなく消し飛ばす。


「なんでそんなことするの?」


 少女は己の右脚が吹き飛んだ事に気付いていないようだった。欠けた足先は『コックさん』と称した血塊の中に埋もれている。視認できなくして思考の外から追いやったか。


「君が人を殺したからだよ。それで、これからも人を殺すからだよ」

「ころ……? みんな死んでないよ? あたしにちょこっとだけ食べ物をくれただけ」

「普段食べてるお肉とか、お魚とか、元々の形はどんなのか知ってる? 豚さんに牛さんに、鶏さん」


 秋帆が問うた。少女の返事の代わりに、『コックさん』が腕を生やして転がっていた椅子を投げつけるが、秋帆は片手で跳ねのけた。吹き飛んだ椅子で血濡れのガラスが割れ、廊下に散乱する。


「ほら、みんなそこにいるよ」


 血塊が唸る。廊下に並べられたトルソーがじっとりと視線を向けてくる。皆少女の狂気を肯定し、この場での異物はお前だと責め立てる形相で。


「そウだよ。いつもオ腹減っテソうだかラ、ちょっトあゲタの」

「お腹空イたッテ、口癖だッタもン」

「給食の時間ガ少し遅れルダけで、怒ってたもんなァ」


 仕方ない、仕方ないんだと肉が喋る。ケタケタと笑って秋帆を嘲る。

 少女の狂気に触れて尚、秋帆は飄々とした態度を崩さない。


「みんなね、屠殺するんだよ。全部血を抜いて、ちゃんと食べれる部位とそうじゃない部位を選別してね。それが食事のルールだよ。何でもかんでも、口に入るからって入れていいわけじゃないの」


 頭を揺さぶる不快な笑い声は続いている。『コックさん』は片足をもがれた少女を守るように、そこらへんに転がっていた机や椅子の瓦礫を秋帆に投げ続けている。

 物がなくなれば、己の肉で作ったらしいまな板や包丁を。骨を断ち切るための調理用のこぎりや肉叩きを。襲い掛かる凶器を指先から発した雷で打ち砕き、炎でもって焼き払う。鉄屑と焦げ臭い臭いが充満する中、少女を殺すには先に使い魔らしき『コックさん』を始末するのが先だろう、秋帆は判断した。

 彼が調理に使えそうな肉はない。つまり、唯一生きた食料である秋帆しか、彼が調理するべき食材は存在しない。


「あと……いただきますって、ちゃんと言ったかな?」


 ぱちん、と秋帆は再び指を鳴らした。床に溜まっていた血液を風で巻き上げ、霧状にして視界を奪う。今までたっていた場所に影を残し、悟られぬようにその場を離れた。

 血染めの濃霧の向こうから、肉塊が何本もの触手を伸ばす。残した分身が触手に絡めとられるのを見ながら、足音を消して、静かに肉塊に近づいていく。

 分身の肋骨が折れる。触手の内側から生えた刃で、体中をずたずたに切り刻まれる。耳をつんざくような分身の悲鳴を聞いて、少女は血塊のソファーに座ったまま喜悦の声をあげた。


 嬉しそうだなぁ、なんて他人事のように思った。

 血塊に両の掌を触れて、ふっと吐息を吹きかける。


「食べ物には、ちゃんと敬意を払わないとだめだよ。ご馳走様、しないとね」


 両手の指輪が青く光る、掌から冷気が迸り、肉塊の『コックさん』を瞬く間に氷漬けにした。少女まで凍らせてしまわないよう力を調整しながら、教室から、廊下から、赤い空の彼方まで。全てを凍てつかせ、時間を止めて、狂気を封じる。

 触手に囚われていた秋帆の分身が、腹部を潰されて折れた。胴体はねじ切られて落下し、その瞬間に霧散する。


 彼岸花の迷信は、折った人間の家は火事になる、だ。転じて──彼岸花を模した秋帆の分体を手折れば、対象は燃える。そういった類の呪いを、分身に仕掛けておいた。

 凍り付いた肉塊が内部から炸裂する。過冷却されていた血液が、彼岸花の花弁の様に飛び散りながら凍結した。


「これでよし、と」


 少女の狂気が具現化したのが、あの『コックさん』だったようだ。元凶を破壊したからか、血色の空はあっという間に日差しの強い青空に変わった。

 夥しい量の血痕と、倒れ伏した四肢無しのトルソーを残して、狂気は消えた。だからといって。


「……あれ? コックさん、消えちゃった」


 一度狂気に呑まれた者が、正気に戻るわけではない。

 周囲を確認して自分に食事を提供していた存在が消えた事を悟った少女は、そのうち喉を引きつらせて泣き出してしまった。己の欲望を叶えてくれる存在がいなくなって、無力感を味わっているだけ。決して多くの人間を殺してしまった罪悪感から慟哭しているわけではない。


「お腹空いたよぉ……ひっく、うぅ……」


 伽藍洞の教室でしゃがみ込む少女を見下ろして、秋帆は真っ赤なフェイクファーの中から彼岸花を一つとった。

 何もこの少女がなにか悪い事をしたわけではない。どうしてか激しい飢餓感を背負って産まれて、それを異常だと思えなかっただけ。自分は他の人よりちょっとだけおかしなところがあると、自覚できなかっただけ。

 成したことに罪はあるが、望んで人を殺めた罪人の様に手酷く殺すつもりはなかった。


「これ、食べてもいいよ」


 秋帆は少女に彼岸花を差し出した。常に空腹に飢えている子だ。何も気にせず食べてくれるだろうと、そう考えた。


「いいの?」

「うん、いいよ。ちゃんといただきます、してからね」

「うん!」


 少女はいただきます、と手を合わせてから、迷わずに彼岸花を手に取った。血濡れの身体を気にも留めず、横に大きく裂けた口を広げて、一息に彼岸花の花弁を食らった。


「美味しい?」

「うん! なんか、すごく甘いね、おやつみたい! 飴ちゃんみたいで、ずっと、食べて、た──」


 顔を綻ばせていた少女は、次第に目を虚ろとさせて倒れ込んだ。びくびくと痙攣する身体を無言で眺めていると、そのうち完全に動きを止める。

 秋帆は少女の腕を取り、脈を確認した。心臓の動きは完全に止まっていた。


 渡した彼岸花は即効性の劇毒を含んだものだ。ろくに時間もかけず、苦しまずに殺すことができる。普段は毒殺なんて地味な方法は使わず、ド派手に爆死させるのが好みなのだが──こと無垢な子供相手には、できなかった。





 後日、秋帆は少女の両親に話をした。

 大食いな家系ではなく他の兄弟もいたが、少女だけが生まれた時から大食いだったのだという。いくら食べさせても満足しなかったらしく、食費が馬鹿にならないと食事量を制限したところ、お腹空いたと癇癪を起すようになったようだ。

 その矢先、あの事件が起こった。避けることはできなかっただろう。


「学校で、余ったパンを持ち帰って家で食べてる、という話でしたが…‥ご存知でしたか?」


 少女から聞いた話を問うと、両親は初耳だと言わんばかりに目を見開いていた。

 秋帆は続けて、少女が学校で起こした狂化と、その顛末について伝えた。


「そうですか……いつか、そうなるかもしれないと、思っていましたが」


 娘が、迷惑をかけました。深々と頭を下げた両親に、秋帆は対応に困ってしまう。

 悪いのは娘さんでも、ご両親でもないと。そんな言葉は、口が擦り切れるほど言ってきたから分かるのだ。なんの慰めにもならないのだと。

 ただ──顔をあげた両親の顔はどこか晴々としていた。憑き物が取れたような顔だ。きっと重すぎる食費に頭を悩ませていたのか、あるいは少しずつ少女の狂気にあてられていたのか。

 被害にあった生徒や教職員には申し訳ないが、気持ちとしては安堵の方が強いのだろう。もうあの子に悩まされなくて済む、と。なんなら追い込まれて自ら殺すことにならなくてよかったとも、思っているかもしれない。





 あの校舎は、解体するまで立ち入り禁止となった。巻き込まれず生き残った生徒たちは、今は別の学校を間借りして授業をしているらしい。被害者達へのメンタルケアで、事務所は大慌ての状態だった。

 そんな最中、実働部隊である秋帆は、忙しく動き回る事務員やカウンセラーを尻目に、ソファーに座ってケーキをつついていた。対面には新人の湊が、興奮した様子を隠さずに座っている。


「いやぁすごかったっすよこの間の! 俺は中入らなくて正解だったみたいっすけど、外からでも先輩のドンパチ、見てましたよ!」

「生徒と教員が発狂しないか見てなさいって言ったでしょうが……」


 こう、雷がバーン! 炎がドーン! って! 女の子が作った空間がバリッバリに凍ってくのも、すごかったっす!

 ショートケーキを口に放り込んでから、湊は興奮したようにフォークを振り回していた。

 気楽なものだ。まだ狂気に直面するには経験がないが、凄惨な事件を前にしても軽薄な態度を保てるのがこの男の強みだろう。

 湊は秋帆と違って、狂気を宿していない。まだ発芽もしていないし、あったとしても種のまま心の奥底に沈められている状態だろう。


「そういえば先輩って、戦ってるとき魔女っぽいっすよね。炎に雷に氷に、魔法でも使ってるみたいだ」

「そうだね……うん、そうだよ」


 湊の問いに、秋帆は遠い目をしながら答えた。自分が狂っている事のは、当然だが自覚している。


「あたしさぁ、魔法少女に憧れた時期があったんだよね。ほら、かっこいいじゃん。かわいい服着て、女の子が悪者と戦ってさ。勇気と努力と絆で勝つの。いつだって魔法少女は正義の味方じゃん?」

「そっすねー、色あせない王道のジャンルっすよね、魔法少女ものって」

「あたしもできないかなー、あんな風になりたいなーって、思ったの。だからあたしの狂気って、根底に魔法って概念があるのよ」


 始まりは、言った通りの憧れだった。

 秋帆は昔から正義感の強い子供だった。いじめを見逃せず、たった一人でいじめっ子や、隠蔽しようとする教師に対して突撃していくような、無鉄砲な子供だった。当然、そういった子供は周りから疎まれて差別されるものであり──いじめられっ子になってしばらく、秋帆の狂気は中学生の時に発芽した。

 休みの日、いじめられっ子に呼び出しを受け、万引きを強要されたのだ。当然拒否したが、そうしたら殴る蹴るの暴行を受けた。未成年が吸ってはいけないたばこを、火がついたまま身体に押し付けられもした。

 悪い事をしているのはそっちだろう。頭にきて、よく見てるアニメみたいに、魔法が使えたらこんな奴ら退治してやると思って、指を鳴らしたのだ。


 そうしたら、今にも殴りかかろうとしていたいじめっ子が、内臓から爆ぜた。

 吹き飛んだ血肉を浴びた子が叫び声をあげて逃げようとしたので、咄嗟にもう一度指を鳴らしたら、空から雷が落ちてきて身体を裂いた。

 大雨洪水・雷警報が出るほどの、荒れに荒れた日だった。

 だから、秋帆が一瞬狂気に呑まれて犯した殺人は、降り注いだ雷による天災として処理された。

 幸いだったのは、いじめっ子を爆破した瞬間に殺人を犯した自覚があったことだ。だから正気に戻れたし、持ち前の正義感が、秋帆を狂わせなかった。


 狂気が芽生えた時の事を思い出して、秋帆は深くため息をついた。結局あの事件は誰にも黙ったままだし、自分がこうして狂気を抑える側に回ったのもその後に行ったが原因だ。


 だって仕方がなかったのだ。あの日から、ヒトを殺すのは愉しいと感じてしまったのだから。正しい事をするついでに、快楽も得られるなら一石二鳥だ。


「あんたも気をつけなさいよ。なんかおかしいなって思ったらすぐ言いなさい」


 あたしの話はこれで終わり。吐き捨てて、秋帆は空だったティーカップに紅茶を注いだ。

 少女が作り替えた赤い空のような鮮やかな紅茶色に、一瞬眉を潜めた。無言で牛乳を注いで色をまろやかにして、一気に口に流し込む。


 僅かに鉄の味がした気がした。気のせいだ。脳裏に人肉を美味しそうに頬張る少女の姿が浮かんで、何気なしに眺めたショートケーキのホイップが血混じりのピンク色に見えた。


「……駄目だわ……ちょっとあてられたかも。残り食べていいよ」

「えっ、マジっすか⁉ じゃあお言葉に甘えて頂くとして……無理しないでくださいね先輩」

「うん。ちょっとしばらく休んどくわ」


 少女の狂気に、ほんの少しだけ影響を受けてしまったらしい。口の中に広がった唾液を飲み干して、ケーキの乗った皿を湊に突き出した。

 しばらく、赤い食べ物は食べたくない。

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