第2話 クリスマス・イブの前夜に


 クリスマスイブが近付いて来た。


 サンタクロースを待つ子供の時期はとうに過ぎたけれど、J-POP好きとしては恋人がサンタクロースのようにやって来るのを待ってみたい気持ちはある。夜に訪ねて来てほしい相手だ。当然、こちらが好意を抱いているのが前提条件だけれど。


 年末年始は東京へ帰って来るのかという、母親からの連絡には『人が多そうだからパスします』と返事をした。どちらかといえば放任主義の家庭だ。特に文句は言われなかった。


 二十三日の夜、旭ほなみはアコースティックギターを手に新曲を作っていた。もともと祖父が書斎に使っていた部屋を片付け、仕事部屋にしている。防音工事はしていないが、近所の家まで距離があるため問題はない。


 部屋を暖める空調の音と、メロディを探るギターの音、思い浮かぶ歌詞をノートに書く時の鉛筆の音だけが響いている。頭の中にあるのか、ないのか、それすら定かでないメロディを……一音ずつ、あるいはもう少し長く、現実の音にしていく作業。


 簡単ではない。むしろ困難だ。それでも、ひとりで音楽と向き合うのは――どうしようもないくらい、好きな時間だった。


 そんな時間を邪魔する音が現れる。玄関のインターホンだ。ほなみは嫌そうに深く息を吐いた。肺の中の空気を全て吐き出してから、緩慢に動きはじめる。ギターを置き、仕事部屋を出た。


 玄関にいた人物を見て、彼女は目を丸くする。


「桐生先生?」


 玄関に立っていた桐生龍樹は、紐の取っ手がついた紙袋を持っていた。時間が時間だからだろうか。眼鏡の奥の目はほんの少し眠たげで、なんだか妙に可愛らしい。


 こんな時間に彼が訪れるのは初めてだし、インターホンを押して来訪を告げるのも珍しいことだ。ほなみは目をまたたかせて、気付く――


「酔ってます?」

「まさか! 全然だよ、全然酔ってない」

「ワインの匂いがしますけど……」

「おおっ、よく分かったね。はい、お土産のワインだ」

「開いてないワインの匂いを感じ取れるほどの嗅覚は、生憎、持ち合わせていないんですけど……」


 差し出された紙袋をほなみが受け取ると、桐生は「今夜は冷えるなあ」と言いながら上がって行ってしまった。大事な時間を邪魔された不快さは、彼の顔を見た時、すでに霧散している。


 ほなみは自称『全然酔ってない』酔っ払いに続いて、居間へと移動した。


 彼は勝手知ったるなんとやらで、電気をつけ、コタツの電源を入れている。ほなみは昼間は使わないエアコンをつけた。襖を全て閉めて、和室が温まる間に台所へ必要な物を取りに行く。


 冷蔵庫からチーズを、お菓子の収納箱からチョコレートとナッツを取って、ふたり分のグラスと一緒に居間へ持って行った。


 桐生はコタツで暖を取っていた。


「ワイングラスなんてうちにはありませんよ。ああ、栓抜きも」

「大丈夫だ。栓抜きは持ってきた。だが、グラスか。私はどんなグラスでも構わないけれど、うん、そうだねえ、次はグラスも持ってこよう。引出物で貰って、使っていないペアグラスがあったと思うんだよ」

「この家に置いたところで、日の目を見る機会はあまりないかと」

「これから先いくらでもあるさ」


 彼女がグラスを渡せば、桐生は紙袋からワインボトルと栓抜き、不思議な形の何かを取り出す。


「それは?」

「ん? ああ、ソムリエナイフだよ。格好いいだろう?」

「そうですね。買おうとは思いませんが」

「ははは、そうか」


 桐生は慣れた手つきで、ボトルネックを覆うキャップシールにナイフで切り込みを入れた。そしてボトルネックの下部分を固定すると、ぐるりと半分ほど回してカットする。次いで手首を返して反対方向へ回し、そのまま綺麗にキャップシールを剥がした。


 流れるような動作だからだろうか。骨張った彼の長い指の動きを目で辿るのは楽しい。


 栓抜きのスクリューがコルクに差し込まれていく。慎重に、けれどくるくる回りながら消えていった。じっと見ているのに気付いているのだろう。桐生はふっと笑い、栓抜きのフックを瓶口にかけた。


(あ、抜けてきた)


 コルクはテコの要領で抜けていき、ボトルに隠れていた姿が見えてくる。桐生は最後、軽く左右に揺らしながらコルクを抜いた。


「ワインに詳しくなると、コルクの香りで良し悪しがわかるそうだよ」


 差し向けられたコルクに、ゆっくり鼻を近付ける。深く空気を吸えば、コルクから漂う香りが鼻腔をくすぐった。


「ぶどうの匂いがします。良し悪しはわからないけど」

「うん。大丈夫。良し悪しなんてものは私にもわからない。飲めればなんでもいいとまでは言わないが、ある程度美味しいものはなんでも美味しいと思う質だからね」


 桐生は微笑みながら栓抜きを置き、グラスにワインを注いでくれた。ぶどうの――ワインの香りが温もりはじめた居間に広がる。飾り気のない、普通のグラスの中にあるのに、何故だろう。透明度の高い赤の液体はやけに綺麗で、なまめかしく、大人の飲み物のように見えた。


 グラスのひとつを手にした彼が「乾杯しよう」と掲げる。ほなみはもうひとつのグラスを取って「乾杯」と言いながら、桐生のグラスに控え目にぶつけた。


 彼が口をつけるのを見て、グラスに顔を寄せる。ぶどうと酒精だろうか。濃くなる香りを吸い込みながら、美しい色の酒を口に含む。法的に飲めるようになって、さほど経ってはいない。ワインを飲んだ経験は数えるほどしかないけれど、このワインは飲みやすく、素直に「おいしい……」と言葉がこぼれた。


「それは良かった。お酒は無理して飲むものじゃなくて、楽しく美味しく飲むものだからね。ああ、夕飯は食べたかい?」

「わたし、夜は食べないので」

「それは良くないなあ。食べていないなら、何かを胃に入れながら飲むんだよ。用意してくれたお菓子でもいいし、一緒に持ってきたシュトーレンでもいい」

「シュトーレン?」


 紙袋の中を見てみれば、ビニール袋に包まれ、リボンがかけられたシュトーレンがどーんと入っている。砂糖をふんだんに纏ったソレを出し、コタツの上に置けばなかなかの存在感だ。


「先生」

「ん?」

「わたしの知識によれば、シュトーレンは十二月に入った頃からクリスマスまでの間に、少しずつ食べるものだったはずです」

「そうだねえ」

「クリスマスまであと二日……実質二十五時間くらいしかないわけですが、コレを一本食べきるつもりですか?」

「貰い物なんだよ。パン屋の売れ残り」

「売れ残り」

「注文したお客さんが来なかったそうだ」

「わざわざ注文する人がいるくらいだから、美味しいのは間違いないんでしょうね」


 クリスマスにサンタクロースはやって来ない。恋人もいないし、オシャレな料理を作るつもりもないし、プレゼント交換をする気もない。イベントをする予定なんてなく、なんでもない普通の一日を迎えるつもりだ。


「バター塗って、チンします」

「生ハムとチーズを挟むのも良さそうだ」

「じゃあ、それも準備しますね」


 何もないクリスマスは彼と過ごすことになるのだろう。


 いつもと同じ、なんでもない食事を並べて――。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

JD脱落Pとオジサン作家の不変的な食卓 32 @32nobu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ