名もなきファンより

野森ちえこ

マフラーちゃんとお弁当

 異常気象が叫ばれるようになってどれくらい経つのだろう。

 ぼくが物心ついたころにはもう騒がれていたように思うのだけど、それはつまり異常が通常であるというか、異常になるまえのふつうを知らないというか、まあなんかまわりが『異常だ異常だ』というからそうなのかなと思う程度の認識しかない。

 そんなぼくでもわかるのは、ここ何年か秋が家出をしているらしいということだ。

 それを証明するように、今年もまた冬と夏が数日おきにいれかわるような、とんちんかんな気候がつづいている。


 夜、二十四時をまわったコンビニ。

 秋の家出について、暇にまかせて思いをはせているぼくは深夜バイト中である。

 ちなみに今日は冬日だ。もう十二月なんだからあたりまえだろうと思うが、きのうは汗ばむような陽気だったのだから油断できない。


 商品棚の整理と補充をしていると、自動ドアがひらく気配がした。

 立ちあがって振り返る。

 ピヨピヨとひよこの鳴き声みたいな入店音と共にはいってきたのは、マフラーで顔の半分以上が隠れている、すらりとした若い女の子だった。


 ✫


 彼女は迷いのない足どりで弁当コーナーに向かうと、ぽつんとひとつ残っていた牛カルビ弁当を手にとった。その背中があからさまによろこんでいる。

 なんとも表情ゆたかな背中だ。


 いそいそとレジに向かう彼女を追いかけるようにぼくもレジにはいる。そうして彼女を正面から見たとき、ぼくは無意識のうちに息をのんでいた。

 吸いこまれそうなほど深い光をたたえている瞳と、左の目尻にぽちっと存在している泣きぼくろ。

 見えているのは目もとだけだというのに一瞬で脳に焼きついてしまった。まったく意味がわからないけれど、その瞳はやたらと強烈な印象をぼくに残した。


 しかし会計をすませ、店を出ていく彼女の背中は、やはりとてもウキウキしていた。なんだろう、このギャップは。そんなに肉が好きなのだろうか。


 ✫


 あの日から、彼女は毎日のようにぼくが働いているコンビニにやってくるようになった。時刻はいつも二十四時をすぎている。売れ残りの弁当が目あてらしかった。


 うちの弁当は一番高いものでも五百円ワンコインで買える。お財布にやさしいぶん人気があって、夜には売り切れてしまっていることも多い。

 だから彼女も、弁当がないときはおにぎり。おにぎりもないときはレトルトパックの白米と惣菜を買っていったりする。

 自炊をしないひとり暮らし定番のチョイスであるが、彼女の背中はほんとうに表情ゆたかで、ちょっとおもしろくなってしまうくらい、弁当がなかったときは全力でしょんぼりしていた。


 ✫


 どうやら、彼女がはじめて来店した日から冬が腰をすえたらしい。たまたまだろうけれど、あの日以来、冬らしい寒さがつづいている。

 おかげで、いつもぐるぐる巻きにしたマフラーで顔の半分以上が隠れている彼女の素顔をぼくは見たことがなかった。


 ふわふわとやわらかそうな白いマフラー。目にもあざやかな水色のマフラー。色あいが女の子っぽいグレーとピンクのチェック柄のマフラー。

 だいたいこの三本でローテーションを組んでいるっぽい彼女のことを、ぼくは心のなかで『マフラーちゃん』と呼ぶようになっていた。


 何歳いくつくらいだろう。

 前髪とマフラーにはさまれて、ほとんど目しか露出していないものだから、何度見てもいまいちわからなかった。

 ただ、スッとしているのにどこかだるそうな歩きかたとか、わずかに見える肌のみずみずしさなどから、ぼくより三、四歳下――二十歳前後かな、とは思っていた。


 そんなマフラーちゃんが、ある日マフラーを巻いていなかった。


 ✫


 レジのまえに立たれても、最初はマフラーちゃんだと気づかなかった。『あれ?』と思ったのは、その目が――吸いこまれそうなほど深い瞳の印象が、マフラーちゃんとおなじだったからだ。さらに決定的だったのは、その左の目尻でぽちっと存在を主張している黒い点――泣きぼくろがおなじ位置にあったということだった。

 そうして、目のまえにいる女性とマフラーちゃんが同一人物だと理解した瞬間、ぼくはたぶん、それまでの人生で一番驚いた。


 その日、彼女がマフラーを巻いていなかったのは単純にあたたかかったからだと思う。そりゃあそうだ。マフラー姿があたりまえになっていたのは寒かったからで、べつにマフラーに特別な意味があったわけじゃないだろう。

 ただ、それをぐるぐる巻きにしていた彼女は、ひかえめにいっても非常にかわいかった。

 ではいったい、なにをそんなに驚いたというのか。

 いわゆるマスク美人というやつだった?

 否。逆である。


 マフラーをしていた彼女はとてもかわいかったけれど、マフラーをとった彼女は、すさまじく綺麗だった。

 それはもう、ひれ伏したくなるほどに。


 年齢はやはり二十歳前後だろうと思われた。くりっとした勝ち気そうな目と、小さいながらすっきり通った鼻梁と、ふっくらとみずみずしい唇。張りのある白い肌は内側から発光しているみたいで、しがないフリーターのぼくの目では受けとめきれないほどにまぶしく映った。


 しかしそんなうつくしい彼女が買っていったのは、いつもとおなじ売れ残りの弁当だった。

 そりゃあ顔のつくりと買いもの内容に関係はないと思う。

 服装にしたって、ジャンパーにデニムというそっけない格好だったのに、なぜだろう。マフラーをしていない彼女から浮かんだのは、高級フレンチでもたべていそうな洗練されたイメージで――なんというか、なにもかもがすごいギャップだった。


 とんでもなくかわいくて、おそろしく綺麗なマフラーちゃん。

 そして、ぼくの心に強いインパクトをあたえたマフラーちゃん。


 彼女の顔を見るだけで、ぼくの心は浮き立つようになってしまった。

 でも、それだけだ。

 ぼくと彼女がどうにかなるなんてことはないと思ったし、実際ならなかった。


 店員とお客。『いらっしゃいませ』と『ありがとうございました』をいうだけの関係である。せいぜい『(お弁当)あたためますか?』とか『おはしはつけますか?』とか、たずねるくらいだ。どうにかなりようがない。

 あれほどの美人をナンパするような度胸もなかったし、ぼくはなんのとりえもない、その日ぐらしのフリーターだ。分はわきまえている。

 ただ、見るだけでしあわせな気持ちになれる。一種のアイドルとファンのようなものだ。

 それでよかったのである。


 ✫


 春、桜が散りはじめたころ。マフラーちゃんはぱったりと姿を見せなくなった。

 引っ越したのか、なにかしら生活環境に変化があったのか。

 いずれにしろ、ぼくの深夜勤務の楽しみがなくなってしまった。

 しかし人間は慣れる生きものだ。

 一週間もすれば、彼女がこないことがあたりまえになった。


 もしも。

 もしもぼくが彼女のために弁当をとり置きなどしていたら、なにかが変わっていたのだろうか。

 そんな想像をしたことがないといえばウソになる。

 だけど、やっぱり個人的に声をかけるような勇気はなかったし、きっとそれでよかったのだと思う。


 ✫


 あれから二年。

 今年もまた、夏と冬をいったりきたりの十二月がやってきた。

 秋は家出したまま帰ってこないし、ぼくも相変わらず、しがないフリーターのままだ。

 特に夢もなく、深夜のコンビニでせっせと働いている。


 だけど――


 いつも売れ残りの弁当を買っていたマフラーちゃんの顔を、ぼくはまた毎日のように目にしている。

 休憩室にはいってテレビをつけた。

 ちょうど流れていた口紅のコマーシャルで、挑発的な笑みを浮かべているのは、まぎれもなくあのマフラーちゃんだった。


 アマチュア劇団の舞台に立ちながら、めぼしいオーディションをかたっぱしから受けていたのだと、マフラーちゃんがテレビの対談番組で話しているのを見たことがある。落ちたオーディションの数は軽く百を超えると笑っていた。


 どこまでほんとうなのか、それはわからない。もしかしたら少し盛っているのかもしれない。

 だけどぼくは、深夜だるそうに来店した彼女の、目あての弁当が残っていなかったときのしょんぼりした背中を知っている。

 逆にガッツリ系の弁当が残っていたときの、うれしそうな背中も知っている。

 きっと、ぎりぎりの生活のなかで必死にがんばっていたのだと、今ならわかる。


 あれから二年。

 マフラーちゃんは若手実力派女優といわれるようになった。

 コマーシャルでは魅惑的にほほ笑み、ドラマではコミカルな表情も見せる。映画にバラエティーに、八面六臂の大活躍だ。


 彼女は今日も、テレビの向こうで輝いている。

 二年まえよりもずっと、輝いている。


 彼女の記憶のなかにぼくはいないだろうけれど、それでもコンビニの休憩室から『がんばれ』とエールを送る。

 テレビの向こうから『おまえがな』といわれたような気がした。



     (おしまい)

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