空中見舞い申し上げます。

高巻 渦

空中見舞い申し上げます。

 梅雨が明け、朝昼晩と継続的な暑さが続く七月。湿度を含んだべたついた空気が床に、窓に、そして私にまとわりつく。入院生活は半月を迎えようとしていた。


 売店で飲み物を買って帰ってくるその僅かな往復で、背中に汗が滲む。点滴スタンドを引きずりながらの動きは一層鈍くなり、早歩きすらままならない。入院着のポリエステルが腕や太ももに張り付く不快感に加え、硬いラベルが首の後ろをチクチクするのも不愉快だった。

 やっとの思いで病室へ戻ったが、やはりそこも生ぬるかった。患者の健康を害する恐れのある冷房は省エネだなんだという理由も付加され、二十八度辺りで固定されていた。

 教室の冷房が弱いなどと文句を言っていた去年の夏を思い出して、なんて贅沢を言っていたんだろうと自嘲する。ここより教室の方が数段涼しかったし、病院特有の嫌なにおいもなかった。


 ベッドに戻り、上体を起こした姿勢になる。分厚い掛け布団に脚を滑り込ませると、途端に下半身が汗ばんできてたまらず跳ね除けた。ベッドをまたぐようにして置かれた通常より脚の長いテーブルを見て、ふと登下校の途中にいつも渡っていた歩道橋を思い出す。自分が歩いている真下を車が走っていく感覚がおかしくて、時折欄干から身を乗り出し、できるだけゆっくり渡っていた、あの歩道橋。次にあそこを歩けるのはいつになるだろうか。先ほど買ったばかりの飲み物を置くと、外気に晒されて結露まみれになったペットボトルが、小さな歩道橋の上に水たまりを作った。




 二年目の高校生活が始まって二ヵ月半が経った頃、私は激しい腹痛を起こした。救急車でここへ運び込まれ、肝炎と診断された。肝臓の病気はある程度進行しないと症状が現れないらしく、医者は最低でも一ヶ月の入院が必要だと私に告げた。

 こうして点滴と服薬を繰り返す入院生活が始まり、あっという間に半月が過ぎた。しかしその「あっという間」は学校での授業や人間関係に確実な遅れを生み出していて、勉強も世渡りも不得手の私には、その遅れを取り戻す自信がなかった。こんな張り合いのない生活が最低でもあと半月続くのだ。のこのこ復学して恥をかくくらいなら、一生ここで寝たきり生活を送ってもいいとさえ思い始めていた。


 暑さと憂鬱でぼーっとしてきた頭を振り、ベッドに身体を預ける。窓から差し込む陽光で、傍の点滴スタンドがじりじりと輝いていた。少し眠り、しばらくすれば看護師がやってきて、私の腕から針を抜いて帰っていく。それからベッドの上で本を読んだりスマホを触ったりしていれば、あっという間に消灯時間が来て、再び眠りにつくことになる。

 横になり、一定の間隔で落ちていく点滴液を見上げながら、私は目を閉じた。




 ふと目が覚めて時計を見ると、十七時半を少し過ぎたところだった。

 未だ重いままの瞼を擦りながら体を起こそうと動かした私の右足に、何かが触れた。掛け布団の中に何かがある。躊躇いがちにもう一度同じ場所をなぞってみると、つるつるした紙のような質感がつま先に残った。枕元へ足を向け、眠っていたときと逆の体勢で掛け布団の中に右手を突っ込む。取り出したそれは、薄桃色の封筒だった。そこには「中村千佳さんへ」と、しっかり私の名前が書かれていた。

 一体誰が書いたものだろうか。裏側を見ても差出人の名前はなく、私は封筒を開け、取り出した一枚の便箋を読んだ。


『暑中見舞い申し上げます。急なお手紙で驚かせてごめんなさい。あなたがとても退屈そうにしているのを見て、少しでも気が紛れるかと思い、この手紙を書いています。あなたの病気が治って、一日でも早く復学できるよう願ってます』


 便箋の方にも差出人の名前はなかったが、ぴんときた。入院初日から回診を行ってくれている、滝川さんの仕業だろう。

 私を担当している看護師は二人いる。一人は滝川さんで、もう一人がロボットだ。ロボットというのはもちろんあだ名で、本名は坂口という。坂口は新人の滝川さんよりも五年先輩らしく、彼女のその冷ややかな目つきや抑揚のない声色から、陰でそう呼んでいる。ちょうどコンビニ店員が、よく来る客にあだ名をつけてこっそり笑うのと同じ感覚だった。

 気さくでおっとりした印象の滝川さんと対照的な坂口の回診は、半月経った今でも少し緊張するくらいだった。注射が正確無比でまったく痛くないことだけはありがたかったが、話す内容はいつも必要最低限の質問だけ。雑談を交わしたことすらない坂口が、励ましの手紙を書くはずがなかった。きっと滝川さんが私の様子を見に来たついでに、この手紙を置いていったのだろう。それにしても「暑中見舞い」とは、滝川さんも意地悪だなと笑ってしまった。一度、病室が暑いと滝川さんに文句を言ったことがあった。すると彼女は「そういうことは坂口さんにね」と言ったので、渋々諦めたのだ。

 しばらくするとロボットが病室へやってきて、点滴が終わっていることを確かめ、私の腕から針を抜いた。そしてやっぱり事務的な質問を二、三しただけで、すぐに帰っていった。看護師として五年も勤めれば、滝川さんもああなってしまうのだろうかと、少し寂しい気持ちになり、私は再び手紙に目を落として、暖かさを感じる手書きの文章を読み返した。




 それからというもの、手紙は毎日のように送られてきた。

 私が少し眠っている間に、決まってその手紙は届けられた。テーブルの上や枕の下、ベッド脇に置かれた花籠の中にまで入っていたこともあった。いつも同じ薄桃色の封筒に入れられた便箋には、相変わらず私を励ます言葉が書かれていて、目が覚めると手紙を探すのが日課になっていた。


『昨日もすごく暑かったね。点滴してないときも水分補給を忘れないようにね。ご飯も少しずつ食べられるようになってきて良かったです。あなたがもうすぐ退院できるのが嬉しいけど、少し寂しいな』


 私はお見舞いに来た母親に頼んで紙とペンをもらい、手紙の返事を書くことにした。回診に来た滝川さんがテーブルの上に置かれたそれらを見て「誰に書いてるの? もしかしてラブレター?」なんて尋ねてきた。私は内心笑いながら、彼女に合わせて「秘密!」とだけ答えた。

 入院生活のもう半月は、良い意味であっという間に過ぎていき、私の身体も順調に快復していった。気温は上がっていったが、手紙を読んでいるときだけはその暑さも忘れられた。復学に対する不安や焦りも、もうほとんどなくなっていた。これも全て手紙のおかげだろう、そう考えながら、私は感謝の言葉を便箋に綴った。




 入院してからきっかり三十日目に、私は退院することになった。明日から夏休みに入るまでの数日間、学校に行ける。つい一ヶ月前までは退屈だった学校生活が、今は待ち遠しくてたまらなかった。

 車で迎えに来た親に付き添われ、病院を出た。出入口まで見送ってくれた滝川さんに、私は書き溜めていた手紙を手渡した。


「一ヶ月お世話になりました。それと、入院中に何通も手紙書いてくれてありがとうございました」


 私は滝川さんが「バレちゃってたかぁ」とか言って、照れながら手紙を受け取るだろうと考えていた。だから彼女が「えっ、あたし手紙なんて一通も書いてないよ」と言ったとき、心の底から驚いた。じゃあ、この手紙の差出人は……?

 二人で顔を見合わせて困惑していると、坂口がやってきて「これ、病室に落ちてましたよ」と、封筒を渡してきた。それは薄桃色の、あの封筒だった。私は慌ててそれを開け、便箋を取り出した。


『退院おめでとう。千佳さんとは今日でお別れだけど、これは嬉しいお別れです。お手紙たくさん読んでくれてありがとう。これからも元気でいてね、学校に戻ってからもずっと応援しています。 相川美弥』


「相川美弥……」


 そう呟いたとき、はっと息を吞む音がした。

 顔を上げると、坂口が両手で口を押さえていた。続けて彼女は、絞り出すような声で「その名前……」と呟いた。私は困惑しながら、これまでに送られてきた手紙の話をした。すると坂口の見開かれた両目から、堰を切ったように涙が流れ始めた。彼女のそんな姿を滝川さんも初めて見たのだろう、私よりも驚いた顔で、すすり泣く先輩の姿を見ていた。


 その後、坂口は声を詰まらせながら語り始めた。数年前、相川美弥という女の子が私と同じ肝炎を患い、この病院に入院していたこと。苦しい闘病生活を続けていたその子は決して弱音を吐かず、常に明るく振舞っていたこと。しかし進行していた肝炎が癌になり、亡くなったこと――。

 それを聞いた私ははっとして、鞄いっぱいに詰まった封筒の中の一通を取り出し、坂口に差し出した。


『今日の回診は坂口さんだったね。坂口さんって本当はすっごく優しい人なんだよ。注射も上手だし、患者さん一人ひとりのことも凄く考えてる。だから千佳さん、坂口さんのこと嫌いにならないでね』


 手紙を読み終えた坂口が見せた泣き笑いの表情は、彼女を陰でロボットと呼んでいた自分を恥じるほどに美しかった。相川美弥と楽しく話している坂口の姿を想像し、私の視界が滲んだ。




 久しぶりに制服に袖を通し、学校へ向かう。歩道橋の階段を上ると、私の身体はほんの少し空に近づいた。夏の匂いを胸いっぱいに吸い込み、走り抜けていく車たちを見下ろしながら歩く。中央まで差し掛かったところで、鞄から一枚の便箋を取り出した。思いつく限りの感謝の言葉が綴られたそれを丁寧に折っていき、一分ほどで完成した紙飛行機。

 私はそれを、欄干から勢いよく飛ばした。

 かけがえのない友達へ宛てたその手紙は盛夏の暖かな風に乗り、雲ひとつない青空に向かって、どこまでも飛んでいくような気がした。

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