第2話

 中務省なかつかさしょうは、宮中の政務をつかさどる役目を持つ省庁であり、別名を『なかまつりごとのつかさ』といった。

 その中務省に帝の勅命を受けて住み込んでいるのが、唐から戻りし僧である空海であった。空海は唐より密を学び、真言密教を開いた人物であり、帝からの信頼も厚い僧である。


 大内裏だいだいりの入り口である朱雀門すざくもんを潜る際、篁は一度だけ後ろを振り返った。それはさりげない様子に見えたが、篁の目はある目的のものを探すために動いていた。

 朱雀門から一直線に羅城門らじょうもんまで伸びる朱雀大路すざくおおじ。その何本目かの辻に、篁は目的のものを見つけた。

 ボサボサの長い髪を振り乱し、薄汚れた着物を地面に引きずるようにしながら、ゆらゆらと歩く裸足の女。

 多くの通行人がいるにもかかわらず、誰もその女に注目をすることはない。

 それは、誰の目にも女の姿が見えていないからである。

 女の周りには、黒いもやのようなものが漂っていた。瘴気しょうき。そう呼ばれるものだと、篁は空海から教えてもらっていた。


 やはり、つけられたか。


 篁は女の姿に気づかない振りをして、そのまま大内裏の中へと進んだ。

 大内裏内には、平安京みやこまつりごとをつかさどる様々な省が入っており、多くの人々が行き来していた。この大内裏には、基本的に庶民が入ることは許されていなかった。中に入れるのは役人か公卿、もしくは許可を得た者のみである。篁は、文章生もんじょうしょう(大学寮と呼ばれる官僚育成機関の学生)という立場にあり、また父である岑守が参議という立場にあることから、大内裏に入ることを許されていた。


 中務省の前までやってきた時、篁はもう一度だけ後ろを振り返った。

 もし、あの女が人々の目に見える現世うつしよの者であるのならば、朱雀門のところで門番に入ることを咎められているはずである。

 だが、期待はしていなかった。おそらく、あの女はこの世の者ではないはずだ。


 振り返った篁は、息を呑んだ。

 すぐ後ろに女が立っていたのだ。

 叫びだしそうになるのをこらえ、何も見えていない振りをして篁は中務省の中へと足を踏み入れた。


「これはこれは、篁殿。息災でございますかな」


 中務省の中で篁のことを出迎えた空海は、まるで篁がやってくることを知っていたかのようだった。


「空海様、お話がございます」

「そんなに急がなくても、この空海は逃げたりはしませんよ」


 そう言って空海は篁に微笑んだ。

 篁は空海に神泉苑での出来事から、ここに来るまでのことを包み隠さず全て話した。


「なるほど。それで先ほどから……」


 空海はそう言って、天井を見上げた。

 それに釣られるようにして篁も、天井を見上げる。

 そこには巨大な目玉が浮かんでいた。その目玉がじっとこちらを見下ろしている。

 あの女だ。篁は直感的にそれがわかった。


鞦韆ゆさはりの女とでも、名付けましょうか」


 空海はどこか楽しそうに言うと、つるりと禿げ上がった頭を撫でてみせる。

 こんな時に何を呑気なことを言っているのだ。篁は気が気でなかった。

 天上にいる目玉を見ても、空海は動じていなかった。


「あやかしというものは、己の心が生み出すものですよ、篁殿」


 空海が落ち着いた口調でいう。

 すべてはわかっているから、この空海に任せない。篁はその言葉から、そう読み取った。


「ただ、それが鬼と化す場合もございます」


 空海はそう言って、弟子の僧に墨と硯を持ってこさせると、何やら紙に文字を書き始めた。

 その文字は篁の読める文字ではなかった。おそらく、梵字ぼんじと呼ばれるものである。まるで筆が生き物かのようにスルスルと動き、次から次へと白い紙に文字を書き連ねていく。


「こんなものかな」


 空海はそう言うと、筆を置き、立ち上がった。


「さて、きましょうぞ、篁殿」

何処いずこへ」

「決まっておりましょう。神泉苑ですよ。陛下がお待ちだ」


 先ほど梵字を書き連ねた紙を折りたたみ、懐へとしまった空海は篁を手招きして、中務省の建物を出た。

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