第五話

 文庫本を素っ気なくコートのポケットに放り込んだ梶浦が、カウンターの上に置いてあった腕時計を高々と頭上に掲げた。


「俺にとって最低最悪の時が、叔父の腕時計を盗んじまったあのクリスマスイブだ。腕時計をかっぱらった時点で、絶対こいつのようにはなるものかと嫌っていた親父と同じクズに成り果てたんだ。世話してくれた叔父の顔に泥を塗った。合わせる顔がない」

「そうだな」


 大将がうんうんと頷く。


「けどな。その頃の俺は本当にガキだったんだよ。後悔とか罪悪感以前に、壊れてる時計がなんとか動かないか。それしか考えてなかったんだ」


 聞き手二人が苦笑いで応えた。


「で、リュウズを引っ張ったり、こんつく叩いたりいろいろやってたんだが」

「動いたんかい?」

「針がな、変な動きを始めたんだ」

「変な動き?」


 話のツボだと読んだ大将がコンロ越しにぐいっと身を乗り出し、あちちと叫んで慌てて引っ込めた。


「短針、長針、秒針。全部の針が軸から外れちまってるみたいにゆらゆら勝手に揺れるんだよ」

「へえー。壊れてる、確定ってことかあ」

「いや、軸から外れてるなら全部だらっと下がって止まるだろ? そうじゃない。確かに動いてたんだ」


 突然怪談になって。慌てて大将が団扇で串をあおぎ、浅野が自分の猪口に酒を継ぎ足した。


「それで?」


 冷静を装って、大将が続きを急かす。


「俺はバカだから喜んだのさ。動いてる、壊れてないじゃんてね。そんなわけないよ」


 梶浦が口をへの字に結んで二人を見比べた。


「……出たのさ。スクルージが見たようなやつを、ね」

「そっち系かあっ!」


 大将は、がたいはいいもののホラー系が大の苦手だった。夜トイレに行けなくなるようなやつぁ勘弁してくれ。内心びびりながら、平静を装った。滲み出てくる冷や汗は、こっそりコンロの熱で飛ばした。

 大将の声の震えを気にせず、梶浦が手にした腕時計を持ち直す。文字盤がはっきり見えるように、と。大将と違って意外に図太い浅野が、そわそわしながら続きを急かした。


「で。どんな幽霊が出たんだい? 血塗れの女か? 殺された子供のお化けか? それとも……」

「よしてくれよう」


 とうとう大将が降参。演技ではなく本当に泣き声だった。だが、梶浦の視線はぴしんと時計盤に置かれたまま。


「よれたスウェットを着た、冴えないおっさんだよ。知らないおっさん」

「は……あ? おっさんかい」

「そう。俺は思わず聞き返した。誰だおまえ。そうしたら、困った顔でおっさんが答えるのさ。いや、ただのおっさんなんだけどって」


 さっきまで小便ちびりそうなびびり方をしていた大将が、いきなり吹き出した。

「ぎゃはははっ! なんだよ、それ」

「だろ? だけど、ガキの俺には十分怖かったんだよ。俺しかいないはずの部屋に知らないおっさんがいきなり出て来たんだから」

「だよなあ。俺でもびびるわ」


 うんざり顔の浅野が、乾くとまずくなると言いながら皿の上の刺身をまとめて口に放り込んだ。


「んまんま」

「ははは」

「で?」


 落ち着きを取り戻した大将のチェックが入る。腕時計を手のひらに握りこんだ梶浦がさらっと答えた。


「なんか知らんけど、いつの間にかここにいるんだよな。おっさんはそう言った。互いに触れるのか確かめようと言われて握手を試みたんだが、映像みたいなもので触れないんだよ。まさにユウレイだな。だけど、向こうからは俺がそう見えるらしい」

「へえー。おもしろいなあ」

「だろ? 神様仏様でも、悪魔や幽霊でもないなら。ただの知らないおっさんなら、俺の悩みを聞いてもらえるかなと思ってさ。さっき、陽ちゃんや大将にしたみたいな生い立ちの話をぶちまけてみたんだ」

「ほう。おっさんはなにかアドバイスしてくれたのか?」

「いいやあ。俺はただのおっさんだからようわからん。俺自身がまだ迷ってる最中だから、アドバイスなんざようせんわ。そう言われたのさ」

「使えんのう」


 そう言いながら、大将が焼きたての鳥串を二人の前に並べた。あつあつを頬張る二人が、うまいうまいをひたすら繰り返す。


「何度食ってもうまい!」

「最高だよ」


 人心地ついて緊張が解れたのか、梶浦がすぐに続きを話し始めた。


「まあ、その頃の俺はとことんぼっちだった。学校にろくに行ってないからトモダチと言えるようなやつぁ一人もいない。叔父の家でも浮いてる。外ではとんがりまくってたから誰も寄ってこない。孤立無援さ。冴えないおっさんとはいえ、話を聞いてもらえてすごく楽になったんだ」

「なるほどなあ。瓢箪から駒ってことだね」

「まあな。相手が得体の知れない幽霊でも、エラソウなことを言わない年上の人だよ。俺はまた話を聞いてもらいたくて、おっさんに聞いたんだ。これからも会えるのかってね」


 あおぐ手を止めた大将が、さっと確かめる。


「返事は?」

「しばらくうなってたよ。で、言われたんだ。俺もよくわからんのだが、四年に一回、クリスマスイブの深夜になら会ってもいいらしいってね」

「また、ずいぶんといい加減かつ悠長な話だ」

「そうだな、大将。でも、俺にはえれえありがたかったんだよ。知らない人だから気を使わなくていい。偉そうなことは言えないって本人が言ってる。気兼ねなく恨みつらみをぶちまけられるなあって。ちんけなんだが、目標ができたんだ」

「じゃあ、結局時計はガメたんかい」


 浅野の言い方に棘はなかったが、梶浦が申し訳なさそうにぽりぽり頭を描いた。


「あの壊れた時計がおっさんを呼び出す道具なんだよ。叔父には悪いが、返せなくなった」

「あっちゃあ」

「その罪滅ぼしってわけでもないんだが、俺は少しだけ尖り方を和らげた。相変わらず学校にはまともに行かなかったが、まあ……暴れることはなくなったんだ。ただ」


 浅野が串を皿の上に置き、おしぼりで指の油を拭った。それから、旨そうに酒をあおって続きを急かした。


「ただ?」

「俺はやっぱり叔父の家を出たかったんだよ。俺にはものすごく居づらかったんだ。だから、中学出てすぐ工務店の見習いに行った。住み込みでね」

「うわ、いきなり社会人かあ」

「そんなにうまく行くわきゃないよ。俺には根性も、技術も、学もない。友達もいないし上下関係もよくわからない。ないない尽くしの上に、体力もなかった。毎日毎日体力勝負でへとへとさ」


 ふうっと大きな息をついて、梶浦が両手を頭の後ろで組んだ。


「働いてカネぇもらうってのはこんなに大変だったのかって、とことん思い知らされたわけだ」

「すげえなあ」

「すごかないさ。ガキだった代償がそれだけ大きかったってことだよ」

「叔父さんは心配しなかったのかい?」

「心配してくれたよ。辛かったら辞めて戻ってこい。いつもそう言ってくれた。だが、それだけは絶対に嫌だったんだ。意地、だな」


 大将がぐんと頷いた。大将にも思うところがあったのだろう。


「ただ、意地だけでは食っていけん。このままこき使われ続けると、冗談抜きに体が保ちそうになかったんだ。三年は辛うじて踏ん張って、そろそろ先々どうしようかと悩んでいる時、二回目が……やってきた」

「二回目、か。梶さんが十八の時ってことだな」


 ぎょろっと目玉を回して、大将が確かめる。


「そうだ。クリスマスイブの真夜中に、住み込ませてもらってた三畳間の煎餅布団の上にあぐらをかいて、あの時計を見つめた。そうしたら針が変な風に揺れて、約束通りおっさんが現れた。冴えないおっさんが、困った顔で。んで開口一番言いやがった。嘘や夢じゃないんだな。どうしよう」


 ぎゃははははっ! 大将と浅野が大仰に笑い転げた。梶浦が苦笑いしながら二人の様子を眺めている。


「中坊と違って十八の社会人だ。少しはアタマぁ使えるようになってた。で、おっさんに聞いたわけだ。あんたぁ、何やってる人ってね」

「おっさんはどう答えたんだ?」

「サラリーマンだって言ったよ。まじめでもふまじめでもなく、やり手でもサボリーマンでもない。まあ、ごくごく普通のサラリーマンだってね」

「へえー」

「で、俺はついでに聞いてみたわけだ。それって楽しいかって。そしたら、おっさんが困ったような顔で言うんだよ。そんなの、考えたこともないってね」


 大将がうちわで炭をあおぐ手を止め、こくっと首を傾げる。


「ふうん、変わってるな。そいつ」

「だろ? でも、おっさんの話を聞いてなるほどと思ったんだ。楽しいことも、そうでないこともある。いろいろあるからやってけるんだってね」

「うーん、オトナだなあ」

「俺もそう思ったよ。年を重ねると味が出るっていうか。でも俺が感心したら、おっさんは逆にしょぼくれるんだよ。おいおい、俺なんかまるっきり参考にならないよ、勘弁してくれってぼやいた」

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