第二話

 仕事絡みの話は一段落したらしい。皿もコップも空になり、引き上げ時と判断したんだろう。


「さて、と」


 梶浦がのそっと立ち上がろうとしたが、浅野が座ったまま動かない。物憂げにコンロから立ち上る薄煙を見遣っている。


「陽ちゃん、どうしたい」

「ああ、ちょっと」


 流れてきた薄煙を吹き払った浅野が、背を丸めた。


「あれから。もう三年経っちまったんだなあと思ってさ」

「早いもんだな」


 椅子に深く座り直した梶浦も、目を伏せて大きく息をつく。


「正直、俺はかみさんを看取ったところで仕事ぉ辞めようと思ってたんだ」

「甲斐がなくなったんだろ」

「そう。梶さんがとめてくれんかったら」


 浅野がゆっくり目を瞑った


「俺は後を追ってたかもしれん」

「物騒なことぉ言うなよ」

「いや、ほんとにさ」


 持っていた箸を両手に分けてとんとんと立て並べ、浅野がしんみりと呟く。


「最初からずっと独りなら、それに慣れるんだろ。けどよ。俺みたいに残されちまうと、独りがすっごく堪えるんだよ。梶さんが飯ぃ付き合ってくれるようになって、地獄のような三年を凌げた。梶さんには感謝しかないな」

「おいおい、おだてたって何も出ねえぞ」

「ははは」


 ぺんと自分の禿頭を叩いた浅野が、ひょいと横を向いて梶浦に尋ねる。


「なあ、梶さん。俺から見りゃあ、梶さんがずっと独りってのがどうにも解せない。人当たりは柔らかいし、性格も丸い。若い連中も慕ってる。社長や上役の覚えもいい。これまでいくらでも縁談があったろうに」

「まあな。ただ……」


 何かを言いかけて、梶浦が口をつぐんだ。それから大将に声をかけた。


「なあ、大将。今日はこのあともう暖簾のれんをしまうんだろ」

「くそったれのクリスマスには付き合いたくねえからな」


 不機嫌丸出しの声で、大将が答える。


「じゃあ、ちょいと変な話をしていいか?」

「変な話?」


 俯いて鳥串をひっくり返し続けていた大将が、ぱっと顔を上げて梶浦の表情を確かめる。真剣だ。酔っ払いの戯言ざれごとというわけではなさそうだ。


「どんな話だい?」

「もともと俺にしか意味のない話さ。だからこれまで誰にも話したことはない。このあと同じ話をすることもないだろう。最初で最後の変な話。妙ちきりんな話だよ」


 梶浦が含み笑いしながら言ったのなら酔っ払いのほら話で片付けられる。だが、梶浦はどこまでも真顔だった。

 こらあ只事じゃないな。察した大将がさっと調理場を出て暖簾を仕舞い、店頭の灯りを落とした。


「貸切だ。思う存分語ってくれ」

「ははは。そうするわ。なあ、陽ちゃん。もうちょい肴と酒があった方がいいだろ。俺の話はちぃと長くなる」

「んだな。じゃあ、大将。見繕いで」

「任せとけ」


 にっと笑った大将が、拳で胸をどんと叩いた。


「ああ、それと」


 梶浦が、済まなそうに大将の顔を見る。


「大将には悪いが、俺の話はクリスマスに絡む。それを承知してくれ」

「む……」


 気分はよくないが、自身のことをほとんど話さない梶浦がどんなことを言い出すのかどうしても聴きたくなった。好奇心が嫌悪を上回ったのだ。


「しょうがねえな。今日だけだぞ」

「さっきも言ったろ。俺はこの一度きりしか話をせん」

「わかった」


 大将がコンロの前から離れ、冷蔵庫からとっておきの刺身盛り合わせと酔鯨純米大吟醸の四合瓶を出して二人の前に並べた。梶浦が酒瓶を見て恐縮する。


「おいおい、大将。こんなにいいのかよ」

「梶さんの話ぃタダじゃ聞けねえだろ。奢りだ」

「済まねえなあ」


 ばりばりと白髪頭を掻き回した梶浦が、ぱきりと瓶の口を切り、大将が前に置いた猪口にそっと注いだ。利き酒代わりに少しだけ酒を含んだ梶浦が相好を崩す。


「うん、いい酒だ。こんないい酒が飲めるなんてな。ガキの頃には思いもしなかったよ」


 そして残りは飲まずに猪口を置き、すぐに話を始めた。


◇ ◇ ◇


「なあ、陽ちゃん。陽ちゃんとこは、まだご両親が元気なんだろ?」

「風邪一つひきゃあしない。ぴんぴんしてるよ。ありゃあ、俺より長生きするぜ」

「ははは。まあ、陽ちゃん見てればよくわかる。ああ、まともな親から生まれ育ったんだなあってね」

「え?」


 梶浦の話は思わぬところから切り出された。


「俺はお袋を知らない。親父がとんでもないろくでなしだったから、お袋に逃げられたんだろうなってのは想像がつく。だが、親父はお袋のことを一切しゃべらなかった」

「……うそだろ」

「いや、そうなんだよ。で、親父は俺をまともに育てる気がなかった。育児責任をまるまる放棄したんだ。それもネグレクトとDV、セットでな」

「ええーっ?」


 目をまん丸にして、浅野が絶句する。大将の手も止まった。皮目の油が爆ぜて、ぱんという派手な音が大きく響いた。


「俺が生き延びられたのは奇跡みたいなもんさ」

「ひでえな」

「まあな。ただ、親父のはちゃめちゃは俺に対してだけじゃない。あちこち見境なく迷惑かけ倒した挙句に警察にとっ捕まった。で、留置所で」


 梶浦が白髪頭のてっぺんに拳を置き、それをぱっと開いた。


「卒中を起こして死んだ。まだ俺がガキの頃にな」

「なあ、梶さん。見捨てられてた間、どうしてたんだい?」


 浅野に向かってちょっと待てというように手のひらを見せ、梶浦が静かに話を続ける。


「親父が育児放棄してたのに、俺が勝手に育つわきゃないだろ。畑の大根じゃあるまいし」

「あ、そうか」

「俺は……ガキの頃から叔父に世話になってたんだよ」

「へえー、叔父さんかあ」

「そう」


 目を伏せた梶浦は、皿の上の竹串をじっと見つめたまましばらく黙した。言おうか言うまいか、まだ迷っているかのように。だが、口は動いた。


「叔父には本当に世話になったんだ」

「いじめられたり、無視されたりはしなかったのか」


 大将が堪えきれずに突っ込む。梶浦が首を横に振った。


「叔父は親父と正反対なんだよ。穏やかで、おおらかで、情も懐も深い。滅多に怒らないし、怒った時も感情に任せない」

「へえー、できた人なんだな」

「そうさ。だけど俺にとっては、そんないい叔父が幸運でも不幸でもあった」

「ああ? 不幸だあ?」


 ぎょろっと目を剥き出した大将が、強い口調で聞きとがめた。


「おい、どうして不幸なんだよ!」

「叔父はあくまでも叔父だよ。親父じゃない」

「う……」


 すぱっと言い切って、梶浦が腕を組んだ。


「こんな親父ならよかったのに。いくらそううらやんだところで、替えは効かない。俺の恨みつらみは親父に全部ぶつけたいのに、その親父はもういない。そして、叔父にはぶつけようがないんだよ。いい人すぎて」

「うう、そ、そうかあ」


 浅野が頭を抱えてしまう。


「どうしても。鬱憤が溜まる。俺は……俺はどんどん崩れていっちまったんだ」

「叔父さんがいるのにかい?」

「叔父がいるからさ。叔父に丸ごと抱え込まれてしまったら、俺は怒りをどこにも出せずに中から爆発しちまう。そうしたら一巻の終わりだ」

「てことはあれか。グレたってことか」

「まあな」


 浅野と大将が、信じられないというように顔を見合わせた。


「中坊の時が最悪でね。授業はフケる。喧嘩はしょっちゅう。所構わず暴言吐き散らかす。物に八つ当たりして壊しちまう。まあ……絵に描いたようなヤンキーさ。ガキ丸出しだ」

「叔父さんは?」


 恐る恐る浅野が確かめる。梶浦が冗談抜きに苦そうな笑いを浮かべた。


「誰にでもそういう時はある。どんと構えてる叔父は、グレた俺すら飲み込んじまったんだよ」

「うわあ」


 梶浦の溜息は深かった。


「辛かったなあ。運命に逆らって暴れれば暴れるほど自分がちっぽけに、惨めに感じられてしまう。じゃあ、俺は一体どうすりゃいいんだ……ってね」


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