第4話 逃げるなら

 助命嘆願から七日がたっても、オーニア王国から何の音沙汰も無く、城にはパナスの主な組織の妻や娘が集まっていました。


「これからパナスはどうなるのでしょうか」

 助命は聞き届けられず、すでに国王たちはこの世に無いことが覚悟された問いでした。沈痛な面持ちで、アンは唇を噛みます。

「敗戦国はどうなりますか」


 自然とこの場でたった一人の男に、皆の視線が集まりました。

 パナスに戻ってしばらくたつというのに、騎士は少しの疲れも癒えないような顔色で答えます。

「功績をあげた将の褒美となります。まもなくオーニアから新しい支配者がやってくるでしょう。国民は王がすげ代わるだけかもしれませんが、アン様は……」

 言い淀んだ男を、アンはまっすぐ見返しました。

「私はどうなります」


「二国の王子が争ったアン様です。下衆げすな想定もしておくべきかと」


 女ばかりの部屋に緊張がはしります。

「そんな……アン様にそんなこと、私たちが許しません!」

 金切り声をあげた侍女頭に「綺麗ごとでは、姫様は守れませんよ」と、騎士はつぶやきました。


「翠の騎士様なら、アン様を連れて逃げられるんじゃない?」

 尋ねたのは商工会長の娘でした。

「逃げる? 私が?」

 ふるえる声で、アンが繰り返しました。


「無論です。アン様が望んでくださるならば、この命に代えてお守りします」

 騎士はアンの足元にかしずきました。顔を伏せているのに、その目がギラギラと輝いているようでした。

「……ありがとう。でも、私は逃げません。死のうとも、それより辛い地獄があろうとも。私はパナスを離れません」


 そこへ数人の少年たちが、息を切らして駆け込んできました。

「軍隊がくるぞ、山のむこうに並んでる」

 騎士は鋭く尋ねました。

「旗印は?」

「そんなん砦から見えるわけねぇだろ! とにかくやばいぜ」


「アン様、今を逃せばもう二度と脱出の機会はありません。良いのですか」

 焦った口調で尋ねた騎士に、アンは微笑んでうなずきました。

「覚悟はできています」


「いいえ、アン様。逃げましょう」

 アンの返事にかぶせるように言ったのは、漁業組合長の妻でした。

「そんなことを言わないで。私ひとりが生き延びたって何の意味も無いわ」

「そうですよ、だから、みんなで。パナスの生き残り全員で逃げましょう」



 その晩は、新月でした。月明りのない山道に、長いたいまつの列が続いています。

 子ども同士は手をつなぎ、歩けないほどに老いた親も、ひとりも残さず背負って峠をのぼっていきます。

 

 オーニア軍に、夫の大切な船を奪われるのはしゃくだったので、繋いでいるロープをほどいて、漁船は沖へ流してやりました。

 貴重品はぜんぶ古物商に売り払ってしまった今、荷物は炊事道具と日持ちする食料と釣り針。あとはわずかな着替えだけです。

 山頂の砦までたどりついた一団は、今日はここで夜明かしをすることを決めました。

 

 広大なディオモルト王国領をつっきって、北方のバイキングたちが支配する地まで逃げる。女と子どもと老人たちの一団に、そんなことが到底無理なのは、だれもが分かっていました。


 なのにパナスの民たちは、夜明けを待って、再びアンと共に歩き始めるつもりでいます。ひとり、またひとりとついていけなくなって、最後に供をできるのがほんの数人になったとしても、アン姫が笑って暮らす場所こそが自分たちの生きる場所だと、皆こころから信じていました。


 砦からパナスの逆、つまりディオモルト王国の方向をみはっていた女から、せっぱつまった声が上がりました。

「みんな逃げる準備をしな。沢の道をのぼってくるやつらがいるよ」

 誰もが耳を疑いました。この暗闇の中、あの急な道をのぼってくるなんて、パナスの漁師たちでなければ、できっこありません。


 荷物をまとめる暇もないうちに、下から登ってきた者たちの声が届きはじめました。

「こんな夜中に砦で、何しとる!」

 なつかしい声に、民たちは一斉に顔を出します。

「父ちゃん!」「あんた!」  

 オーニア軍に捕らわれて処刑されてしまったはずの、国王と兄と婚約者と、漁師たち全員の姿がそこにありました。

 

「ディオモルトの国王陛下が大陸の覇者となられた。ワシらの勝ちじゃ!」

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