第27話

 大正七年、某月某日。宇宙神秘教によるマガツノマロカレ召喚事件は、銀の鍵消滅により終結した。

 死者、行方不明者は千人を超え、家屋や交通網への被害も甚大であったが、怪異に変化した人々は窮極の門ヨグ=ソトホートによって邪悪な霊力を吸い取られたことにより、一命を取り留めたという。復興も緩やかにではあるが進んでおり、人民はみな喪失の悲しみから脱却しつつあった。

 新聞によれば今回の事件は、帝都転覆を目論む逆賊による爆弾とガスによる攻撃であったそうだ。街に蔓延っていた怪異はガスによる幻覚であり、現実に存在しないものであると発表されていた。

 事件の顛末としてはどこか歯切れの悪いものがある。だが報道を疑うものはほとんどいなかった。この世のものとは思えぬかような地獄だ、幻覚と云われてしまえばそうだったのかと信じるほかにない。

 それでも、やはり人の口に戸は立てられぬ。世に伝わりし報道を信じられない、疑り深い一部の住民は口々に噂するのである。これは政府が擁する秘密結社が流した虚偽であり、闇に潜む獸は確かに存在するのだ──と。

 そんな世間の喧騒を他所に、新宿某所の探偵社に軽快なノックの音が響いた。


「失礼します。凛之助さんと戌子さんはいらっしゃいますか?」


 はいって来たのは老執事を連れた黒髪の少女、言葉家令嬢の幸子であった。


『幸子! よう来たのじゃ!』


「幸子さん、退院されたのですね」


 彼女の姿を見止めた途端、すかさず凛之助と戌子が出迎える。ふたり揃って勢いよくなものだから、なんだか飼い主が帰ってきたのを察した時の犬みたいであった。


「はい。ですから以前の食べ歩きの、続きをしたいと思って」


「しかし、病み上がりでは……」


「問題ありません。この通り、ぴんぴんしてますよっ」


 凛之助の心配に、幸子がフンスと薄い胸を張ってみせる。

 心臓に埋め込まれていた銀の鍵を失ったことで身体から大量の霊力を失った幸子は、ユザレの息がかかった病院に入院していくつかの精密検査を受けていたのだが、今日が退院の日だった。

 残念ながら心臓に埋め込まれた銀の鍵は完全に幸子と同化しており、もはや心臓そのものとなっていた。だが幸い、銀の鍵とは窮極の門を開くためだけの存在。生命活動に支障はなく、むしろ幸子の膨大な霊力を抑え込む一種の抑制装置として活躍していた。


「今から行きませんか? 善は急げですよ」


「今からですか。構いませんが」


「決まりですね! では、早速向かいましょう」


『幸子や幸子、おぬし前よりずいぶん押しが強くなったのお』


「あら、本当の私はこんなものですよ? 実は」


 のほほんと目を細める戌子にお茶目にウィンクをした幸子は、笑顔で凛之助の手によって事務所を飛び出す。「落ち着きがないのじゃ」と大人ぶった表情の戌子も、ふたりを追いかけてふらりと飛んでいく。幸子に引っ張られて戸惑っていた凛之助も、気付けば子供らしい笑顔を浮かべていた。


「凛ちゃん! 幸子ちゃんも! よくきたねえ!」


「こんにちは、おば様!」


「こんにちは」


「この前は大変だったけど、ふたりとも大丈夫だったかい?」


「はい、大丈夫です。凛乃助さんが守ってくれましたから!」


「へえ! やるじゃねえか凛坊!」


「うわっ……き、急に撫でないでください。もう……」


「わあ、凛ちゃんが笑った!」


「仏頂面の凛坊が笑った!」


 残された坂口は、新宿のみんなに揉みくちゃにされるふたりと一匹の背を窓から見下ろしながら、呆れたように云って懐から取り出した煙草に火を点ける。

 その口元には小さな笑みが浮かんでいた。

 



 浅草は私娼窟の奥にある便利屋”Nameless”は、今日も今日とて閑古鳥が鳴いている。人が来る気配は微塵もなく、家主も家主で、安物の紙煙草を吸いながら三文雑誌を読み耽り、手作りの具なしピッツァを冷めた珈琲で流し込むばかりであった。


「暇ねえ……」


 行儀悪く机に足を投げ出して、椅子ごと身体を揺らす。ジャズのナンバーに混じってギコギコと椅子の軋む不穏な音が響くが、アルはさして気にした様子もない。

 目下悩ましいのは金だ。組織に請求した金は依頼未達成として今だ払われず、破損した腕の修理費に服の新調代、事務所の家賃と生活に必要な蒸気機関のレンタル代は全部こちら持ちのまま。今や酒にも、煙草にも、ギャンブルに使う金も、雀の涙ほどしかない。

 あの先日のあの一件のせいで、とにかく出費が加算で大変なのだ。もう財布には金が一円もはいってないし、そもそも明日の食費だって怪しい。


(やっぱり金を増やすために競馬に使ったのは不味かったかしら。四番がいけそうな気がしたのよねぇ)


 後悔の溜め息と一緒に紫煙を吐き出して、冷え切った珈琲に今日五本目の煙草の灰を落とした。

 ちょうど、その時。


「hum……?」


 疳の蟲のようにけたたましく機関式電信通話機が音を立てた。


「便利屋Namelessよ、ご用件は?」


『仕事はどうかね、ミス』


 受話器から聞こえるのは。鷹揚とした男とも女ともつかぬ奇妙な声。忘れるはずもない、密入国の手引きをしてくれた日本側の要人だ。


「おかげさまで、暇を持て余した貧乏人よ。仕事の依頼じゃないなら切るわよ」


『重畳。ぜひとも君に仕事を頼みたいのだよ』


 変な客から電話が来たものだと思ったが、仕事は仕事だ。密入国を手びしてもらった恩もある。アルは声色を変えて依頼を持ってきたその者に問いかけた。


「どのような依頼で?」


『銀座のパブに現れた、怪異の始末』


 ぴくりと、片眉が持ち上がる。


『請け負っているのだろう? そういう類の始末を』


「言っておくけど、高くつくわよ」


『構わぬ。吾輩、これでも金持ちなのでな。言い値を払ってやろう』


 なるほど。ちょうどおあつらえ向きの仕事が来たものだ。アルは上機嫌になって机から脚を下ろし、依頼主に快い答えを返す。


「OK.財布の紐は緩めて待ってなさい。Mr.”伊高”」


『結構。では頼むよ、フフフ』


「Offcourse」


 ぽいと受話器を本体に放り投げて電話を切る。ようやっと仕事の目途が、というか金の目途が立ったのでこれでひとまずは安心だ。言い値と言ったからには骨の髄までブン取ってやる心算だった。

 アルは上機嫌に鼻を鳴らすと、勝ち誇るようにカップを掲げた。私の運もまだまだ捨てたもんじゃないわね。なんて思いながらそれを口に運び……。


「ぶふぇっへぇあ!? ぺっぺっ!」


 盛大に吐き出した。

 五本分の煙草がはいった珈琲なんだから、当たり前である。


「damm it……」


 珈琲と煙草の混合液でびちゃびちゃになったアルは、形容しがたい情けない顔で溜め息を吐く。

 なんとも、しまらない女であった。







 光あるところ影ぞあり、人あるところ怪異あり。

 帝都の闇夜を跋扈する恐怖の根源は尽きることがなく、人知れぬ怪異との戦いは事件が終わった今も続いていた。しかしそれは、我々のような一般人に関係のない話である。

 むやみに首を突っ込まぬ限り、ではあるが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蒸気の狭間の闇の底 四十九院暁美 @Turusin_akemi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ