パセリ

はるよ

パセリ

それはある冬の日。


 階段をコツコツと、屋上へ昇っていく。挿さったままの無用心な鍵を回すだけ。ドアノブをひねり、重い扉を手前に引く。射した月光は辺りを照らし、吹き込む風は頬を切ってスカートを揺らした。リボンを整え、屋上へ踏み込む。とても明るく、とても静かな夜がそこにあった。高台に位置する学校、やはり、町を一望できる。靴を脱ぎ、越えたフェンスに身を寄せた。イメージ通りだ。ここまでは。あとはいたって美しく、前に一歩を踏み出すだけだった。

 足が動かない。この一歩で全てが変わると言うのに。見下ろす町は、照り返しで焼けそうな明かりの中、夜より濃い影が手を降っている。瞬く度に降り積もる色。鼻につく鉄の匂い。何もかも気に入らない。この町全部が楯突く反逆者で、道端の小石が存在を拒んでいるようにすら思える。乾いた夜風は何も気に留めず過ぎ去っていった。冷えた床が足裏の体温を吸っている。目の前の虚空、阻むフェンスは遥か高く、厚く、大きく見えた。

 どこからか、からからと笑い声が響く。もはや瞬く隙もなく現れた、橙色の何か。揺らめく炎のような出で立ちは、悪魔を想起させる。ふわふわ浮かぶ様子は十二分、警戒するに値する。

 「なんだお前は。」

 「お前とはなんだ。失礼だな。」

もっともである。初対面でお前呼ばわりとは、確かに礼を欠いている。

しかし、こんなにも不気味で、奇妙で、面白い。警戒はしても、好奇心は隠れない。

当然の疑問に、悪魔は首をかしげ、答えた。

 「名乗る気はない。好きに呼べ。」

強ばる体を襲うプレッシャー。頬を伝う汗が何を語るか。空に浮かんだ炎が揺れる。高く見上げた頭を照らす。

 「ところでお前、こんなところでで何してる?」

至極失礼だ。黒い口が動いている。



 答えない。先の質問から三分ほど経った。がしかし、此奴は答える様子も、悩む素振りも見せない。こちらを見つめ、じっと動かない。とても不気味だ。

 「なんか言ったらどうだ。お前が、ここで、なにを、してるか、聞いてるんだ俺は!」

わざとらしい大振りな動きも金切り声にも反応がない。目を逸らさない。徐々に息が荒くなる、命が燃える音がする。

 「あんたこそ、君こそこんなところで何をしてるんだ?そもそもお前はなんだ。おおよそ人間には見えないが!」

此奴の琴線に触れたのか、まくし立てて凄む。

 「こっちはいいんだよ。お前の話だ。」

納得いっていないのか、睨んでいる。言葉に詰まりながら話し始めた。

 「わた…僕は、今なら、空を歩けると、思うんだ。透明な階段に乗って、奴らを見下ろして、こんな町を出ていくんだ。お…れは、君のようになりたい。人間の私を失ってしまいたい。」


 町を、そして人を嫌った。彼らは私の話を否定した。僕の考えを否定した。俺の人格を否定した。天使はいつも瞼の裏にいると、悪魔は右手の掌で踊ると、私が言っていた。しかし、未だにあの炎から目を話せないでいる。既に恐怖はなく、物欲しい感情すら芽生え始めている。煌めく炎に魅了された心は唱える。

 「お前が欲しい」

 体の欲するまま、左足を前へ。絶望に身を包んだ今ならば、きっと空へ踏み出せるはず。僕は天への階段を見る。左足が触れた感触を。


 悪魔は一瞬、驚いたような顔をした。しかし、すぐに不気味な笑顔になり、口を動かした。上へ流れる景色をとらえることは僕にはできない。私が作りあげたまやかしを。


人の形を保った影が跋扈する町。それを照らす光を幸せと呼ぶのなら、差し込む明日は鮮血で遮られるだろう。鈍い音が響く街角の校舎を、背広の男が曲がる。

 虚しい風が吹く屋上にろうそくが一つ。

もうそこには、誰もいない。静かで、寂しい、夜だけが。

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