32 皇帝 01 皇帝アイザック・ヴィクトリアス

 ヴィクトリアス帝国皇帝、銀髪と威厳のある風貌ふうぼうが印象的なアイザック・ヴィクトリアスは、人々から野心に満ちた皇帝と思われている。だが彼自身は、自分ほど無欲な統治者も珍しいのではないかと思っている。

 帝都リスムゼンにある宮殿は大国の皇帝が住むにふさわしいきらびやかな装飾と調度品、美術品の数々で彩られている。それも威儀を示すためには必要なのだろうと彼も受け入れているが、彼の好みではない。極端に言えば、一般庶民のような質素な家でも機能さえ十分ならば彼には不満はないのだ。

 彼は歴代皇帝のように美術品や珍しい物品の収集もしているが、彼の収集品は全て帝国美術館や帝国博物館に置き、民衆も自由に鑑賞できるようにしている。彼は美術品などを手元に置いて独占するのではなく、帝国美術館や帝国博物館の休館日に趣味を同じくする臣下たちと共に時折訪れて、ゆっくり鑑賞するだけで満足していた。


 だが彼は大国の皇帝にふさわしい壮大な欲深さも持ち合わせている。それは手の届く範囲全ての人々が安心して暮らせるようにすること。帝国の民のみならず、周辺国の人々も含めて。民にとって良き皇帝であること。それが彼が自分自身に課していることである。そして自分たち皇帝家が栄華を享受きょうじゅするのはその見返りなのだと考えている。


 皇帝にはささやかな趣味がある。絵を描くことである。今日も彼は公務を一通り終わらせ、私的なこぢんまりとした空間で絵を描いていた。彼は出先で風景を書くことが特に好きだが、部屋で静物せいぶつを描くのも嫌いではない。

 皇帝が絵に集中していた時、部屋に誰かが入って来た。皇帝の個人的なスペースに不躾ぶしつけに入って来られる者は限られている。もちろん私的な時間であっても緊急の報告などが入れば皇帝は即座に公務に戻らなければならないのだが。

 入って来たのは、銀髪を伸ばし華麗な服をまとった美しい女性。年齢は二十を越えたあたりであろうか。



「父上。また下手な絵を描いておられるのですか?」


「うむ。そなたはいつも辛辣しんらつだな」



 随分な言葉だが、皇帝は自分が絵が下手だということは自覚している。現に今描いている絵も、客観的に見て下手と言うしかない。彼の描く絵については、追従ついしょうでお世辞せじを言われると彼は不機嫌になるから、彼の身の回りの者たちは礼儀正しく論評を避けるようにしていた。

 入って来たのは皇帝の愛娘まなむすめにしてヴィクトリアス帝国第一皇女、セルマだ。彼女と第二皇子フィリップは、皇帝の描く絵を遠慮なく下手だと言うのだ。皇帝からすれば、れ物を触るような態度を取られるよりは、いっそそう言ってくれる方がありがたいとも思うのであるが。



「フィリップ兄上より報告です。魔王軍の侵攻は防いでいるものの、攻撃に出られる状況ではないと。旧チェスター王国領西方地域において、妖魔の大集団が蠢動しゅんどうしている模様です。領主たちは対処に苦慮するであろうから増援を派遣しており、近日中に到着して排除を開始できるであろうとのことです。旧王国領南西部では冒険者たちの活躍もあり妖魔の討伐は目前のようですが。ただ旧王国領北西部においては甚大な被害が発生している模様で、こちらからの支援もほしいと」


「そうか。対処するよう指示しよう」



 皇帝は皇女に自分の補佐を任せている。特に皇帝家に関する事柄ことがらについては皇女の担当だ。その他の事柄については基本的には宰相の担当だが、皇女の助言を求めることもある。おおやけのことだけならば皇女も公務中に報告に来るのであるが、公にできないことがある時は皇女は私的な時間に報告に来る。

 旧チェスター王国領西部で妖魔共が蠢動していることは皇帝も報告を受けていた。領主たちに対処をさせるつもりだが旧王国領東部からも増援を派遣するとも。だが旧チェスター王国領も広大であるから、増援を送っても一日二日で到着するとはいかない。そもそもフィリップの元まで報告が到着するのにも日数がかかっていた。

 皇帝家直轄ちょっかつ領は遠距離通話できるマジックアイテムなどで即座に情報の共有ができるのだが、貴族の領地群には基本的にそのような仕組みはない。特に旧チェスター王国出身の貴族たちからは、フィリップが即時情報伝達の仕組みを構築しようとしても、内政に干渉しようとしていると取られ抵抗を受けていた。



「やはりアルバート王子が言っていたように、チェスター王国出身の貴族たちは大半が使い物にならぬか」


「はい。彼らの不正や非道、怠慢たいまんを訴える声も、フィリップ兄上にいくつも届けられているとのことです。父上にも報告しています通り、不正を犯した貴族たちの領地没収なども行っておりますが、兄上は手が回らないからこちらで適切な人員を送って対処してほしいと。こんな面倒ごとを押しつけないでほしいとも文句を言われています。自分は政治には向いていないから軍事に集中したいとも」


「フィリップにも困ったものだ。皇帝家に生まれた以上は、政治をおろそかにしてはならぬというのに」



 皇帝はチェスター王国に仕えていた貴族たちも、侵攻前の調略ちょうりゃくで帝国に寝返った者たちは領地を安堵あんどしていた。そうしなければ帝国は約束を守らない国として信頼を失ってしまうのだから。だから彼は領主たちが失態を犯し、それを理由に首をすげ替える機会を狙っていた。それが予想以上に酷い事態を招いたのかもしれないと、彼は後悔している。もっと早く対処するべきだったと。だが正当な理由もなく貴族たちの領地を没収すれば、帝国に対する信頼が揺らぐ恐れがあるのも事実である



「フィリップも余の後を継いで帝位に就く器ではないか……このていたらくでは、広大な帝国を魔王軍から守りつつ、内政を良好に保つことは期待できぬ」


「ですが兄上もそれを自覚しているのは救いです。自覚しているのですから、賢明な臣下たちの言葉を聞くこともできましょう。それはパトリック兄上もそうですが」


「平和な時代ならばそれでもなんとかなるであろう。だが、この時代においてはフィリップもパトリックも心許こころもとない」


「……はい」



 皇帝は第一皇子パトリックも第二皇子フィリップも、自分の後継者としては心許ないと思っている。パトリックは凡庸ぼんようで、地方の長官くらいならば良く職務をまっとうし善政を敷いて民から慕われるであろうが、皇帝になるのは荷が重いと判断している。一方フィリップは将軍としては有能なものの、内政面に不安がある。

 皇帝はフィリップに旧王国領の統治を任せているのであるが、フィリップはその範囲も十分には統治できずに妖魔の大侵攻を招いてしまったのである。治安維持が十分になされていて、妖魔共の数を減らしていれば、妖魔の大侵攻は発生しなかったはずだと。旧王国領西部は旧王国出身の貴族たちの領地ではあるのだが、その貴族たちを統率するのはフィリップの責任なのである。彼の息子たちも自分たちの欠点を自覚しているのではあるが。



「そなたが男であったならば、余も安心して後を任せられるのであるがな」



 それに対し、セルマは優秀だ。彼女は皇帝の補佐を務めるのみならず、宮廷魔術師団の長も務めている。彼女は優秀すぎるのも皇帝にとって悩みの種であった。彼女を周辺国に嫁がせたり貴族に降嫁こうかさせるには、彼女は優秀すぎて手放せないのだから。彼女が男であったならば、皇帝は迷わず彼女を後継者に指名し、兄二人も異を唱えず自分たちは補佐をすると誓ったであろう。だがヴィクトリアス帝国において女性が皇帝位に就く前例はなく、セルマをその最初の例にする踏ん切りはまだ皇帝にはついていなかった。

 帝国の現状は、凡庸ぼんような者が帝位に就いても問題ないというほど安泰あんたいではない。魔王軍は侵攻を本格化させつつあり、帝国内部にも火種ひだねはいくつもある。それらの火種が一斉に火を噴いたら、魔王軍に対する備えがおろそかになって、帝国も危機的な状況になる恐れもある。その危機を招かないためにも、少なくとも今の時期は帝位に就く者は最高峰の政治力と軍略を兼ね備えていなければならないと皇帝は考えている。パトリックもフィリップも、これほどに危うい時代でなければ帝位に就いても大きな問題はなく統治できるかもしれないのだが。

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