第四十七話


 井戸の底から這い出して来た冷気が、ツユの足元に触れて身震いさせる。帰る算段もないあの恐ろしい異界へと、これから自分は飛び込まねばならないというのか?

 ツユの怖じ気づくさま様を見て多少満足げにしたメザメは、舌打ちをした後に着物の袖から巾着袋を取り出して、その口を開きながら井戸を覗き込んで言った。


「案ずるな。ばつさえそこに無ければ、怪奇は霧散するのみ」


「いやいや、それが出来ないから、魃はずっと異界に幽閉される事になったんですよね……?」


 暗い井戸の底へとツユの声が反響して消えた。

 それはともかく、ツユの手にはメザメの懐からぞろりと取り出されて来たやたらカラフルな巨大タンク付き水鉄砲が二丁と、何の変哲も無い団扇うちわが一本握らされていた。一瞬ギョッとするも、ツユはここまで幾度となく目の当たりにした呪物の力をツユは思い起こす。くだらないと思ったものでも、そこに秘められた力次第では驚く様な力を発揮する事もあるのだ。


「これは一体、どんな力を持った呪物ですか?」


「これは行き掛けにホームセンターで買って来た物だ」


 ツユが正気を疑いう様な目でメザメを見上げていくと、彼は至って真面目そうな顔付きで説明した。


「てるてる坊主と言えど、その存在はやはり狐火に他ならない。彼らの性質は常世からの影響を及ぼされない陰火であるが、異界であれば直接作用も出来るだろう。となれば火が水に弱いと言うのは、陰陽五行説でも説かれている通りに自明の理だ」


「つ、つまり……?」


「吹き消すか、直接水で濡らすかすれば狐火の方は力を失う。フーリには伝えていた筈だが、忘れてしまっていた様だ」


 ツユはフーリの起こした暴風に、彼らが一度力を弱めたのを思い出す。それからザメは自らの首に下げていた五つの勾玉の首飾りをツユの首に掛けた。


「これは“陰陽術願おんみょうじゅがん勾玉まがたま”という。僕の知り得る限り最強の呪物だ。必ずキミを守ってくれるだろう」


「え、え……え! ちょっと待って下さい、ふざけてるんですか!?」


 呆気に取られたままのツユが目を点にしていると、「さぁいくぞ。僕が手を打ったら瞳を閉じて、決して開けるな」とメザメが胸の前に大きく両手を広げていく所であるのが目撃された。


 ――パン。


 かしわ手が鳴るのと同時に、ツユは手を取られて井戸へと飛び込んでいくかの様な感覚を覚えた。ギュッと瞳を閉じる。

 いつまでも続く浮遊感。

 静寂が耳をつき、流れ行く風と葉が擦り合わさる音を知覚していると。


「えっ、ええっ、えええええええ!!!」


 ――急速な落下感に襲われて瞳を開けそうになる。


「瞳を開けるな!」


 メザメの声にビクリと肩を跳ね上げて、ツユは開きかけていた瞼を固くする。チカチカと瞼の裏で白と黒が明滅し始めるとすぐに、今度は強烈な浮遊感を感じて、酩酊した様な不快感に襲われた。頭がくらくらと、酒に酔っているかの様に前後不覚となる。


 ――果てしも無く続く浮遊感に、自分はいま何処に居るのだろう。

 ――そう懸念した瞬間だった。入水する感覚と同時に、肺一杯に水が入り込んで溺れた様に息が出来なくなっていた。


「……っ……ぁ!」


 それでもツユは瞳を閉じて、腕を伸ばしてもがき苦しんだ。

 もう駄目だ、と意識が白み掛けた刹那――もがく手首を捉えて引っ張り上げられた。


「もういいぞ」メザメの声をすぐ傍に聞く。


 そうして次に知覚するは、へたり込んだ足元に感じる固い石畳の感触だった。仄かに線香の香りがする。だが僅かに、メザメのものとは違う気がする。

 薄く瞳を開けてから息を整え、どこも濡れてなどいない体を見回しながら、まだ少し眩暈のする頭を起こしてツユは周囲を見渡した。


「ここ……!」


 見覚えのある石畳の小道に、赤いのぼりが真っ直ぐに続いている。この光景は間違いがなく『異界のおみくじ』に他ならない。

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