第三十八話


 いま隣にいる安城の、元々の魂がそこに垂れ落ちていたのである。彼の位置からはまだ暗がりとなってその表情までは見えていなかったが、安城は間違いようの無い自分自身の魂へとさらにと一歩踏み出していきながら、その目元に涙を浮かべて懺悔の弁を述べ始める。


「すまない。ボクのせいでキミはこんなに苦しい思いを……」


「……」


「もうすぐに終わる。全てが終わったら、ボクはこの魂をキミに返そうと思う、その為にボクはここまで――」


「安城……さ……違っ」


 わなわなと震える指先で示しながら、吊るされた安城廻の足下に立ち尽くしたツユはそうではないのだと言いたげにしていた。

 ツユのその瞳に刻まれた恐怖の色が余りに濃い事に安城もまた気付いて、次に何事かを見極めるべく彼は、彼女と同じ視点に立って自分自身を見上げた。


「ひ――――っ」


 言葉に詰まる安城。


 二人にいま覆い被さる様に吊り下がっていたのは、瞳が落ち窪み、旋回するまま体を投げ出した、と変わらなかった。


 まるで長い間をそこに吊るされ干からびてしまった干物だ。俯き加減の表情を僅かに動かす事もせず、白い瞳を半開きにして固まっている。


 そしてされるがままになっただけのが、操られるまま顔に火を灯して膨張していき始める。傀儡人形の如く操られ、安城の前に差し伸ばされて来た干からびた指先を眼前にして、彼はただ顎を震わせる事しか出来なくなってしまう。


「どうして? だってメザメさんが、死んでもいないし、生きてもいないって……っ」


 そう繰り返すツユもまた恐怖するばかりで、外殻だけを残して魂を抜け落としてしまった安城の死を理解出来ないでいる。そうして、もしかしたら兄ももう……とそういった思いに駆られて、気付けば他に何も考えられなくなってしまった。


 膝を着いたツユと放心した安城。紫色の世界で二人の周囲を無数の狐火が飛び回る。


 ツユを見下ろした、ぼんやりとした無数の相貌。今にも口から臓物を垂らし、吹き掛けてきそうな嗚咽の表情がいくつも覆い被さって来る。内部より膨れ上がった表情は、それぞれに歪み、おぞましい戦慄を刻んでいるかの様であった。


 ――その時、傷付き果てたフーリが何かの衝撃で吹き飛ばされて来て、偶然にもツユ達の頭上にひしめく怪異達を払った。

 竹垣に突っ込み、仰向けになって呻いたフーリが、瞬時に肉の管に纏わり付かれて空へと吊し上げられていく光景にツユは衝撃を受けるばかりであった。あれだけ頼もしかったフーリが、まるで赤子の手でも捻るみたいに一方的にやられている。


 ……うふふ。


 薄気味悪く、女の様に笑う、栗彦の吐息が聞こえてきた。


 完全に見立てを間違えた。栗彦の力はツユ達の予想を遥かに上回っていた。その心は、もう遠く人の領域を離れかけているのかもしれない。

 人の枠組みに収まらない怪異の前に、交渉の余地など、ある筈も無かったのだ。


「おいっ安城! ジョウロちゃんを……っ!」


「……っ、言われなくても!」


 初めてフーリに名を呼ばれた安城は我に帰り、ツユの手を引いて走っていた。


「待って、安城さん、フーリさん……」


 膝を震わす程の恐怖に困惑するツユに構っている暇など無かった。頭上からは再びに狐火の群れが。更には肉の管がツユへと差し迫って来ている。

 その全身を余す所なく巻き上げられながら、フーリはくぐもった声をツユへと届ける様にした。


「メザメに伝えろ、そうすれば……!」


 ツユの行手は狐火に阻まれたが、安城が彼女の前に身を曝け出して彼らを押し出した。そうして雲外鏡をツユの手に持たせながら背中を押す。


「行けジョウロちゃん、ここは僕に任せて!」


「でも、安城さん……っ!」


「元の魂に肉体を返せなくなったボクに出来る事はこれだけなんだ、いいから早く!」


 ――おどろおどろしい異界の中を涙振り撒いて走り抜けていく最中、ツユはその声を耳にした。




 ……それは、誰の声だろう? 


 振り返るとそこには兄の姿があって、ツユを怪しい眼で覗いていた。顔に自らの指を這い回らせ、その隙間からこちらを窺っている。


 ――逃がすまいと、栗彦の背中より無数に伸びて来た肉の管がツユの足首を捕らえていた。


 そうして瞬く間に胴体を拘束されて、紫色の空に吊り上げられる。成す術も無くし嗚咽を漏らしながら、ツユは最後に問い掛けた。


「何者なの……アナタ?」


 ツユは栗彦へと雲外鏡を向けた。すると栗彦の真実の姿がそこに映し出される。


 ――映し出されたのは

 果て度もないまでの光明そのものであった。


 唖然とするツユを残して栗彦は、そこに冷酷な微笑を残す。


「本当の意味で、彼を理解してあげられる。完全なる意味で、やっと。一つに」


「それは……一体?」


 肉の管による拘束が強くなった――次の瞬間、ツユが懐に仕舞っていた小瓶が割れる音がした。


「――ッおかあぁあ……ぁさ」


 ツユの懐よりたちまちに現れた、伏見稲荷大社で捕らえた“狐面の怪異”に、彼女を拘束していた肉の管が断ち切れた。


「デれ……タ、あハハ、は……いっしょニ、あそん……」


 狐面の異形はその標的を栗彦へと定め、尾であり腕でもあるその四尾で彼を強引に掴み上げる。


「オかァさンを……イィジめめめめめルやつ――」


 ――しかしそれでも所在無げにした栗彦の目は、何処にも向けられてなどいなかった。まるで外部では無く内部を、自分自身のその中身を覗いているかの様な呆然とした視線をそこに携えながら、栗彦はツユを無感情に見下ろして、


 ――淡白そうに、こう言った。



「逃げろ、ツユ」


「え……?」


 ツユがふらふらと現世へと続く門に足を踏み入れた瞬間――激しき閃光が貫いて来て雲外鏡が割れていた。あと数ミリズレていたら、ツユの体が貫かれていただろう。


 そうしてツユは一人、麗らかな松原通へと身を投げ出され、気を失った。

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