第三十七話


「ジョウロちゃん、どうやら交渉の余地は無いみたいだぜ。んじゃあ手筈通り、ここは俺が引き受けるから全力で逃げてくれ」


「お兄ちゃん、いや栗彦、私の話を聞いて……っ」


「ひ、ひぃい、おい狸、ここ、これどうにかしろ!」


 空に吊るされたてるてる坊主。顔が膨れて火が灯る。飛び出しそうな目玉に舌べろ。皮膚が破れて肉が見える。


 ――かえれ。

 ――――かえれと。頭上で合唱が始まる。


「話し合いなんてとてもムリだ! こっちだジョウロちゃん!」


「安城さん……っ」


 耳を塞いだツユは安城に手を引かれて狭い境内を走り始めた。

 すると栗彦はまた、理解に苦しむ様な内容の言語を発する。


「私は彼を理解して、彼の夢を叶えてやりたいだけだ。彼の願いを叶えて完全に彼になる。私は……俺は、彼と一つになる」


 夜空に無数の火の怪異を率い、魑魅魍魎ちみもうりょうの親玉の様な有様の栗彦。漆黒を通り過ぎ、紫色に変わっていった空の下で一人静かに佇んでいる。


「訳わかんねぇよ」


 一人その場に残ったフーリは、纏わりついて来る不気味な怪異をものともせずに、そこに腰を深く沈めていった。彼が群がる狐火に手を出さないのは、そこに狐との契約者の魂が宿っている事を理解しているからだろう。山となる程に覆い被さっている一人一人の人間の怨嗟の声に包まれながら、フーリは何食わぬ顔で懐からもう一つの小瓶を取り出して、その封を開いた。


 ――瞬間、怪異を吸い上げながら怒涛の風巻が異界を占拠する。その暴風にあおられて、狐火達は顔の火を消して地に墜落していった。


六根清浄ろっこんしょうじょう急急きゅうきゅう如律にょりつりょ――」


 ――フーリが呪言を唱える途中、突如と小瓶が割れて、中に収めた怪異達が溢れ返った。


 何が起きたのかとフーリが視界を改めると、嵐に紛れて肉薄していたが、瓶の腹を突き破っていた。


「俺はただ、静かに書ければそれで良かった。……それをお前達が妨害した。それならば、仕方が無いのかも知れない」


「……くそっ!」


 フーリを嘲笑するかの様な、いつの間にやらすぐ背後に立ち尽くしていた栗彦の声――。


 額に冷たい汗を一筋垂らしながら振り返るが、栗彦は未だ表情一つ崩さずそこにいる。その無機質な視線は茫洋としていて、フーリの事など見てもいないかの様でもあった。


 そして安城に連れられ小道を走り抜けていったツユ。しかし頭上にひしめいた狐火の数は膨大で、これほどの数の人物が、生きてもいないし死んでもいない、この異界に囚われ彷徨い続けている事は衝撃的だった。

 皆苦しそうに呻き、こちらに手を伸ばしている。助けを求めているかの様でさえあると感じた。その数は優に百を超えている。明るみになっていないだけで、これはある種の大虐殺の規模と同じである、とツユは痛ましく思った。


 ――そしてもし仮に、彼らの声をいまこの耳に聞き届けられるとするならば、彼らはこの境遇をして本望だと言うだろうか?



 ――返せ……俺の人生を、返せ。

 ――――帰りたい。

 ――死んで楽になりたい。



 ……そんな筈はない。この苦悶の表情を見ろ。彼らは一人としてそんな事を感じている筈もない。たとえその時、一時の気の迷いで自らに代わって夢を叶えてほしいと願ったとしても、こんな結末を追うと分かっていれば、彼らは必ず思い留まった筈だ。


 これはきっと騙し強奪されたのと同じなのだ。

 尊厳を。人生を。生涯を、夢を。


 ――人の心など窺い知らない、恐ろしき怪奇に。


 ツユの前に、熟れて破裂しそうになった提灯が一つ垂れて来た。苦しそうに顔を歪ませ、煌々と照り輝いた顔を膨張させながら肩を掴んでくる。


「いっ、痛い!」


「ジョウロちゃんを離せっ!」


 体を投げ出した安城の突進でようやくツユは解放された。凄まじい力で掴まれた肩には赤い手形が残っている。


「立って早く、雲外鏡を使ってここを出るんだ!」


「でも、そんな事をしたらフーリさんが帰って来れなくなる!」


「大丈夫、出ていくのはキミだけだ。雲外鏡はボクが持ってここに残るから」


 ――駄目ですそんな。ツユがそう言い掛けている間に、再び四方を頭上から降り落ちてきた狐火に取り囲まれた。


「もう一度ボクが雲外鏡の力で道をこじ開ける、だからジョウロちゃんは先に――」


「……っ!」


 息を詰まらせたツユへと安城は振り返る。

 すると彼女の様子がおかしいのに気付いた。


 なにやら正面に立ちはだかった狐火の一つをその足下から見上げて愕然としている様だ。何事かと思った安城が一歩踏み出しながらツユの視線を追っていくと、彼は彼女と同じ様に、


 ――否それ以上に絶句する事となった。


「安城さん、……」


 そこに変わり果てた姿で吊るされていたのは、誰でもないの姿だった。

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