第二十七話


 階段を上り切ると道は右手に折れ曲がり、大きな灯籠の並んだ道の先に、異形の僧が雷を封じたとの伝承が残る雷石が、社殿の上にしめ縄をされた姿で見えた。暗闇に染まるその周囲にはお塚が密集していて、上方の雷石の周囲を囲う形で石碑と狛狐が大挙して並んでいる。こんな表現は変かも知れないが、そこは何処か雑然としていながらも、整然と統制されたかの様な印象も受ける信仰の小山であった。


 ――雲外鏡は何処にあるの? よく考えたら、ここに現れるという漠然とした情報しか聞いていない!


 正体不明の四尾の異形がここに来る前に、ツユは御劔社の社殿をくまなく探し、次に無数のお塚を見渡していった。雷石のある上方まで駆け上がって懐中電灯で周囲を照らしているが……。


「無い、無い無い、一体どこにあるの。ここにあるお塚を全て探せっていうの!?」


 音の剥奪されたかの様な時間の停止した世界で、ツユだけが物々しく動き続けている。夜陰に物音が響き渡っていく不可思議な状態は、傍に異形が迫り来ているという恐怖に拍車を掛けていた。


 御劔社に到る曲がり角、そこの外灯の橙の下に一瞬、長き毛髪が揺らめいたかと思うと、頭上の電球が破裂して視界が闇に溶けたのを見た。


 ――近付いて来ている。そう直感する。この闇に紛れて一歩、また一歩と、ツユをいたぶるかの様に四尾の異形はゆっくりと迫って来ている。


 そこに揺蕩う黒暗より、人が啜り泣いているのか、はたまた嗤っているかの様な奇怪な嬌声が起きた。ソイツの声だ。ソイツが音も無くツユに迫り来て、こちらの反応を愉しむみたいに、傍に迫った事を知らせて喜んでいるのだ。


 到底言語化出来ない呪詛めいた何かを呟きながら、巨大な蜘蛛が地を這い回るかの様に、細く超大な人の腕の形をした尾が、地に手を着いて蠢いているのが月光の下に一瞬見えた。

 心臓の飛び上がる程の恐怖を覚え、ツユは思わずその場を走り去る。小山を駆け下りて一本道を行き、一旦距離を置こうと、側にあった頂上へと続く階段に差し掛かる――。


「……なんで? 鳥居の向こうにいけない!」


 ここは異界。怪異あちらの理屈で物事が進んでいるのか。頂上の一ノ峰へと続く長い階段は見えているのに、その下の鳥居より先に進む事が出来ない。まるでそこに“ぬりかべ”でも居るみたいに、透明な壁に阻まれている。


 このままでは袋の鼠。意を決するより仕方のなかったツユは、向こうの石畳の外灯の下に一瞬映り、また電球が割れて闇に消えた異形の姿を視認して、手元で光っていた懐中電灯の灯りを消した。そして息を潜めながら、迷路の様に入り組んだお塚の中へと戻っていくしかなかった。


 この暗闇の中、朧気な月明かりを頼りにして、異形から姿を隠したまま雲外鏡を探すしかない。

 音を立てまいと呼吸するのも忘れて心臓が高鳴っていた。バクンバクンと、この心臓の拍動する音も全て聴かれていて、もしや居場所も筒抜けなのでは無いかという恐怖を覚えた。

 少し闇に瞳が慣れてくると、頭上を音も無く過ぎ去っていった異形の四尾のに声を殺して驚愕した。

 やはりここに異形は居る。ツユと同じこのお塚に潜り込んで、息を殺して獲物を探しているのだ。

 あれ程の巨躯でどうして物音の一つも立たないのかと、そう思う。すると闇の向こうで、狛狐をすり抜けていった異形の長い毛髪を見る――。


 ――メザメさんの言っていた通り実体が無いんだ。……でももしそうなのだとしたら一体どうすればいいのだろう? 現世の者ではどうする事も出来ないと、そう安城さんも言っていたじゃ無いか。


 その時、わらわらと揺れる異形の油ぎった黒髪が、ツユの全身に纏わり付いて彼女を震え上がらせた。思わず声を上げそうになったが口元を手で覆って耐え忍ぶ。

 しかしどうしても、口の端より微かな吐息が漏れてしまった。


 ――その瞬間、怪異は勢い良く振り返ってツユの方角へと狐面を向けた。今や目と鼻の先に、鼻を覆いたくなる程の腐臭を撒き散らした不揃いな歯牙がある。


 寒イボを立てたツユは震え上がり、まな板の上の鯉同様に全てを諦めて失神しそうになったが、その時雷石の方角から、カタンと小石の落ちる物音があった。すると異形は方向転換し、今度はその巨体を凄まじい速度で引き摺って巨石の方角へと迫っていった。


 ――聴覚が優れていて、視界はほとんど無い?


 粘つく臭気を払い除けながら気付いたツユは、闇の中で枯れ枝を踏んで物音を立てない様に注意しながら歩き始めた。そうしてここの何処かにある筈の雲外鏡を探すが、やはりどうしても無い。狛犬の座った社殿へと立ち返り、改めて周囲を探索するがやはり駄目だ…… しかし、社殿のかたわら、細く暗い行き止まりになった道があるのを発見した。

 しかしそこを行って追い詰められれば退路は無い事がわかる。その事実を噛み締めてしまうと凄まじい恐怖に襲われたが、彼女は硬く目を瞑って、希望の一筋へと踏み出していった。


 側にあった看板に目を凝らすと、焼刃の水と記されているのが見えた。行き止まりになったその道の先には小さな屋根と紫色の御幕があって、その下に腰を折って覗き込まねば見えない位の小さな井戸があった。側には柄杓が一つ立て掛けてあって、未だにそこに水が湧いている事がわかったけれど、他に何もない。やはり何処にも鏡なんかは見当たらないではないか。

 ツユがその場で泣き崩れようとした、――その時であった。思考に稲妻の閃光が走る。


 ――いや、待って……もしかしたら。


 その稲妻の如く直感は雷石に触れたが為だろうか? 見張った視線は足元の暗い井戸へと注がれていた。

 しかしこの様な極限の恐怖の中。深淵に包まれた恐ろしき状況の最中で、覗き込まねば見えぬ様な、何処まで深いのかもわからぬ暗い井戸の中へと這いつくばって腕を突っ込むのには底知れぬ恐怖を覚える。何かわからないが、この漆黒の中に腕を差し込んでしまえば、向こうから何かに腕を引かれそうな、そんな風に感じてしまうだけの妖気をこの井戸自体が孕んでいる様に思えた。


 ――こわいこわいこわい。やりたくない……でも!


 しかしもう、雲外鏡の在処はここしかあり得ないのだとツユの直感は言っていた。お塚の周囲はくまなく探した。何処にも鏡なんて見当たらない。

 ――ならば隠し場所は後一つ。だ。風景を反射する鏡であるならば、水の中に投げ込んでしまえばわかるまい。光の屈折率はガラスと純度の高い水とでは違い、不可視にする事こそ無いが、この闇の中、更には御幕が掛かって暗闇の純度を上げている。


 つまり――。


 懐中電灯の灯りをつけて井戸の中を照らすと、キラリと何かが光を反射するのがわかった。


 ――やっぱりある!


 思い切ってツユは井戸へと腕を突っ込んだ。しかし余りに井戸の水が冷たく、反射的に手を引っ込めて、引いた肘が側に立て掛けてあった柄杓を倒してしまった。


 からん、と物音が起こって異形が振り返った。


 ――しまった……!


 愕然としながら、ツユは再び井戸へと手を突っ込む。

 異形は上方より社殿の屋根を伝って一階に飛び降り、即座に醜き大口を開いて袋小路に向かって走り来ていた。


 ――その牙に捉えられるすんでのところで、水滴の伝う鏡はツユの手によって異形へと差し向けられていた――!


「私は、見定めなければいけない、アナタの正体を。でなければ私の心の中で、恐怖は何処までも肥大化してししまうから!」


 “雲外鏡”――その鏡を通して見れば、あらゆる怪奇の真実の姿がそこに現れる。


 ツユがそこに見たのは、ピンと跳ねた耳だけが残る顔の砕けた狛狐であった。

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