第二十六話


 ――――――


「あれ……フーリさん? 安城さん? え、え……? みんな、メザメさん……?」


 振り返るともう誰も居なくなっていた。正面に向き直ってみても、そこに居た筈のフーリもいない。安城もいない。


 ……気配さえも完全に消え去っていた。そこに先程まで誰かが居たという事実さえ怪しく思えてしまう位に。

 耳鳴りがする位に静まり返った暗黒。先程まで絶えず耳にしていた木々が風に擦れる音も凪いで、雑音の一つも無くなっている。もう木の葉の一つさえ落ちて来る事は無い。

 ツユは留められた。

 囚われたのだ。

 狐の作り出した結界――に。


『……ウロく……そこ――離れ…………』


「え、え――??! メザメさんですか!?」


 耳元のインカムに通信が入ったが、今にも途切れそうになっている。ツユは必死に何事かを聞き及ぼうとする。


『――見定め……君の中に巣食う……』


「なんなんですか? どうなってるんですか聞こえませんよ!」


『……を…………かがみ……を――』


 ――ブツっと無慈悲に通信が途切れた。聞き取れたのは、の一言。状況的に見てそれは間違いなく雲外鏡の事を言っているのであろう。ツユはそれがこの先の御劔社に現れるのだと安城が言っていたのを混乱しながらも思い出す。


「待って、何が? まさか安城さんが私を……そんな」


 スマートフォンを取り出してみると、そこに表示された時刻や、アプリの通知メッセージが全て文字化けしていて、ツユは目を剥く程に震え上がった。

 そうしていま自分が異界に閉ざされ、神隠しに遭遇している事実を遅れながらに実感していく。

 周囲は闇。それも時間が止まってしまったみたいに静謐としていて、微かにあった自然のざわめきも消え失せていた。そうすると、先程まで自分がいかに音に満たされた世界に身を置いていたかという事を思い知らされて来る。たとえ静かな様に思えても、意識していないだけで、そこは多くの音に包まれていたのだ。それを脳が錯覚して静かだと思い込んでいたのだ。


 ……だがそれが今、濃密な闇に沈め込まれたかの様に、完全に失せている。


 完全なる無音とはこれ程に人間の不安を煽るのか。

 次第に自らの呼吸や心臓の鼓動も騒々しく感じ始める。その居心地の悪さに呼吸も心拍も無茶苦茶に乱れ、しまいには体内を流れる血流の音さえ自覚しながらツユは冷や汗が止まらなくなっていた。そして自らの起こす一挙手一投足に伴ってくる物音。無音の筈の世界で、衣服の擦れる音、足元の枯れ枝を踏み、階段を上がっていくその音など、自分が今ここに居るという事を、この閉ざされし空間に棲まうに向かって大声で知らせているのと同じ様だと思わされた。


 ――そう。ツユは感じていたのだ。直感的に。そこに。


 ……、と。


 息が辛いのも忘れて静寂の世界を駆け上がっていく途中――気配を感じたツユは階段の中間で振り返っていた。


 ――今上っている、幅の広い階段の始まりにそびえた鳥居のいっぱいに、卵の殻の様にカサカサとして、真っ白い、があった。


 向こうの世界から、鳥居を通じてこちらを覗いているみたいに。まるでそれは、自分が箱庭に入れられたミニチュア人形になって、その箱の中を、遙かな巨大生物に覗かれているかの様な感覚だった。


 見るままに。潜在的に。恐怖を覚えた。足がすくんだ。けれども立ち止まってはいけない事だけはわかった――。


 鳥居の向こういっぱいになって、左右非対称に崩れた顔が嗤った。白粉を塗った巨顔は口元を爛れさせ、歯は黒く、すえた異臭を放っている。


 そして異形の怪異は、長い長い黒髪をざわわと揺らし――その身を階下の鳥居から捻り出そうとし始める。


 やがて顔から這い出して来た自在の肉は収縮し、小さな狐面を形成しながら、首を長細く、顔を小さくしていった。

 毛を剥がれた獣の如き四足歩行の白い巨体に、尾より巨大な人の細腕が四本伸びて、肘関節の所で折れて地に手を着いていた。よもやそんな姿をして狐だとでも言い張るつもりだろうか? 地に着いた尾の指先をカタカタと蠢かしながら、体に対して異様に小さい狐面より、人毛の様な長い毛を地面にずって、慌てる素振りもなくゆったりと階下よりツユの後を追って動き始める。


 ――おぞましい。


 声にもならない悲鳴を上げて、ツユは階段を駆け上がる。

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