第十話

   *


 雨がパラパラと降り始めて来た。

 ツユは玄関先から、雨戸の締められた二階の一角を見上げていった。西日が陰影を濃くするその深い闇の向こうに、兄の――如雨陸に成り変わった栗彦の部屋があるのだという事はフーリもまた察している様子だった。


「行きましょう」


 ツユは恐怖で震える手で自宅の鍵を取り出して玄関を解錠すると、真剣そうな面持ちに直ったフーリと頷き合う。ある程度の段取りは済んではいるが、この疑念を打ち明けた時に栗彦がどの様な反応を見せるのかは想像も付かない。


 二人は靴を脱いで玄関を上がり、すぐ右手にある階段を上がっていった。普段何気なく使っている階段である筈なのに、ツユはこの時、電気の灯されていない暗い暗いこの階上の先に、何か未知の恐怖が待っている気がして肌に粟を立てた。


 階段を上り切った後で、廊下の電気を灯そうとスイッチを入れたが反応が無い様だった。いつからだろうか、二階の電球が切れていたらしい。ツユは普段あまり二階へと上がって来ないので、今日までその事に気付けないでいたのだった。


 シンと静まり返った暗い廊下。二箇所ある窓には雨戸が締め切ってあるので陽が差し込んで来ていない。これは雨を嫌った栗彦による行為なのだろう。階段を上がった先すぐ左手には、開け放たれた倉庫の部屋があり、そこから折り返す形で奥へと続いた廊下の先に、締め切られた木製のドアが見えた。考えるまでもなく、栗彦が居るというのは奥のドアの向こうなのだろう。

 しかし何故か、生物が居るとは思えない位に静寂だ。たとえドアを隔てていても、そこに人が居て生活なんかしていれば多少の気配はある筈だろうに……それが無い。


「お兄ちゃん……ただいま」


 そう囁いたツユが、兄の部屋のドアノブにそろそろと手を伸ばしていったその時――ガチャリと錠の下ろされる音を聞いた。


「え、お兄ちゃん? なんで鍵を……」


「誰を連れてきた、ツユ……」


 生気の無い部屋に――やはり居た。 

 冷たく沈み込む様な声音をしていた。

 禍々しい空気がそのドアの向こうから溢れ出しそうになっている事にフーリは気付いていた。彼自身もまたそうである様に、向こうもまたこちらの異質を感じ取ったのかも知れない。


「誰って……お客さんだよ、どうしても会ってもらいたい人がいるんだ」


「悪いが必要ない」


「そんな、ひと目だけでも……私、お兄ちゃんが心配で。何も無いならそれで良いんだ、だから少しだけ」


「お前が何を邪推しているのか知らないが、全く持ってなんの心配も不要だ」


「でも」


「それにその人に会ったからといって、お前の心配事が解消されるだなんて何故思う?」


 言葉少なな兄とお節介な妹との問答を聞いて、納得する様な声を出したのはメザメだった。


『確かにその通り、全く持って常識人だ』


 動揺するツユの耳元へとメザメは話し始めた。


『なんだジョウロくん? ちなみに僕がいまそのドアの向こうに居る者の立場だとしたら、一言一句変わらぬ言葉を吐いてキミをあしらっていたろうよ』


「どっちの味方なんですか」


 ツユの問いに『中立だよ』と答えてから、メザメはフーリの方へと声を届けた。


『どうだフーリ、か?』


 ジッと扉の方を窺いながら、スンスンと鼻を利かせていたフーリは煮え切らない様子で首を捻っている。

「怪異だよ、間違いない……でもなんかだ」


 どうしてフーリにはそうであると分かるのか、怪異であるとの確信の声にツユはハッとさせられたが、インカムの声は淡々と返答した。


だとは?』


「なんかよく分かんねえけど、匂いが、変だ」


『どう変なのだ』


「変なんだよぉ、なーんか薄いって言うか、なんて言ったらいいか分かんねえ」


『この馬鹿め』


 フーリはそう言うがツユの方には無論匂いなんてものはしない、いつもの自宅の無臭があるばかりだ。

 困惑した表情をしながらパタパタと周囲の匂いを吸い込んでいるツユへと、業を煮やした栗彦の声があった。


「ツユ、いくら何を言われようとも俺はそこに居る人と会ったりはしない。だから早く帰ってもらうんだ、そう出来ないのなら仕方が無い、俺の方で警察を呼ばせて貰う」


「お兄ちゃん……」


 どうしたものかと彼女が頭を悩ませていると、耳元からのあらぬ声に気付いて飛び上がった。


『よし、フーリ。その扉を蹴破れ』


「は……っ!?」


「オッケーメザメ、それなら得意だ」


「待て待て待て待て!!」


 フーリが腰を深く沈めて構えを取り、目の色を変えてジーンズの裾をたくし上げた辺りで、ツユは正気を疑いながらその間に割って入った。


「ななな、何をする気なんですか! させませんよそんな事、どれだけお金が掛かると思っているんですか!」


『なんだジョウロくん、真実の為に金という犠牲さえも払えないと言うのか』


「当たり前でしょうが! うちにそんな金銭的余裕ないんですからね、致し方ない場合でも精々が窓ガラス一枚って所ですよ」


『……聞いたかフーリ』


 途中から耳元に向かって必死に語り掛けていたツユは、その時フーリの姿が忽然と消えている事に気付く。

 そうして突如射し込んで来た曇天の薄明かりに染められ、ヒュルリと冷たい風の一陣が彼女の頬を撫でていったのを不思議に思っていると――廊下の先で締め切られていた筈の雨戸の一枚が開け放たれていて、夕刻の曇り模様を四角い窓枠に映してカーテンを揺らしていた。


 何故?

 ――そう思った次の瞬間だった。

 目前の錠の掛けられた兄の部屋の中から、激しく窓ガラスを打ち破る物音がして飛び上がっていた。あたふたしていると、目前のドアが解錠されてその内部をツユへと晒した。


「ようジョウロちゃん、窓ガラス一枚割らせてもらったぜ」

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