第九話


 ツユとフーリはまた歩き出した。道端に開く蝋で押し固めた様な黄色い花弁から、甘い香りが風に乗って来ている。


「そういえばメザメさん、さっき言ってた私に憑いているものって何なんですか? それにって一体何が? ……私気になって夜しか眠れそうにないんですけど」


『それなら正常だ』 


 ツユのユーモアが事も無げに一蹴されるのを見てから、フーリが話題を変えた。 


「そういえばジョウロちゃん、栗彦は〈厄〉を引いたんだよな? 〈凶〉よりもっと悪いのを引いた栗彦は今どうなっちゃってんだよ。とんでもなく悪い事になってんだよな?」


 “待て”を解除されたからなのか、フーリは砕けた調子でツユに話し掛けて来る。ツユの方はというと、まだ先程までの恐ろしい空気が忘れられずに少し上擦った声を出すのだった。


「悪い事になるどころか逆に兄は……いや栗彦は「集元社文学賞」の最終選考まで残っています。今はそのコンテストの選考中なんです」


 するとそこでインカムから割り込んで来る声があった、この声はフーリの方にも共有されているらしい。どういう事になっているやらとツユは肩を竦めた。


『「集元社文学賞」と言えば、知らぬ者のない程に巨大なコンテストだ。成程、どういう訳か栗彦は当初の願い通りに出世街道を行っていると……確かに〈厄〉という結果には前例も無ければ我々としても馴染みが無い。ただ、イメージとしては当然悪い事になる、という印象はある』


「厄災、災厄、厄鬼、役事に厄年、厄がつくとも言いますね……厄とは本来、わざわいを意味する言葉ですから当然ですよ。だけど栗彦はどういう訳だか兄との契約を順調に遂行しようとしています」


『怪異の感性がどれほど人間界の芸術に差し迫れるかは疑問の残る所だがね。しかし……そもそも何故〈厄〉などと示したのか、〈大凶〉などの方がわかりやすい上に順当だろう』


 白い吐息を上げたまま、フーリは眉をしかめていた。あまり話に入って来れないでいるのがわかる。


「どういう意味なんだよメザメ、厄とかわざわいって」 


『厄とは陰陽道由来の言葉だ。意味としては多岐に渡るが、概ね先程ジョウロくんが言った様にわざわいの意味に要約される。そしてわざわいというのはが引き起こすものだと由来する……』


 鬼神……と。ツユとフーりの声が重なった。ひゅるりとした寒風に木枯らしが乗っていく。


「その現象を引き起こしてんのは狐じゃなかったのかよ」 


 意外に的確な疑問を投げ付けるフーリ。するとメザメが『ははァ』と呟いた。


『怪奇というのが常識通りにいく筈も無いじゃないか』 


 その声を耳聡く聞いたツユは、これまでの意趣返しにと――それこそ、の首を取ったかの様に言葉尻を捉えて騒ぎ始める所だった。どうやら先程までのフーリとの劣悪な時間の事をまだ恨んでいたらしい。


「あれーメザメさーん? 私大学で表記は統一すべきと習った筈なんですけど、あれーおかしいなぁ、それなのにメザメさんはだとかだとか、同じ意味の単語を連発するんですかー、私そのせいで混乱しちゃってー」


『何を言っている? 僕は怪異と怪奇を呼び分けて使っている。という言葉には本来妖怪という意味が付属する事から、その現象を引き起こしている存在の事を指しているし、はその様な不可思議の現象そのものを指した総称として用いている。それ位、文脈を辿れば理解出来ていると思っていたがね』


「ぐ!」 


『何よりここは小説じゃない、表記の統一は小説内で推奨されるルールの話だ』


 意気消沈したツユは陽の傾きかけて来た住宅街に入り込んでいった。正面、山の向こうに暮れていくオレンジの光が大きくなっていって、二人の影を長く引き伸ばし始める。手痛い仕返しを喰らったツユは、ただ黙々と帰路を急ぐ様にしていた。家々に連なる灰色のコンクリート塀に沿って歩み、十字路に佇んだオレンジ色のカーブミラーに後ろ姿を歪められる。


『……その様子だと、キミは作中にあった六道珍皇寺ろくどうちんのうじのくだりも理解していないのだろう』


「もー! いつまで突っついて来るんですか、私もうこんなに赤面しているのに!」


 執念深いのはメザメも同じであるらしかった。話を切り上げたつもりのツユにこれでもかと追い討ちをかけて来るので、ツユは途中インカムを投げ捨てそうになったが、耐えた。


『六道珍皇寺とはその地にある井戸を通して、小野篁おののたかむらが現世と冥界とを行き来したという逸話の残る場所だ』


「つまりそれを引き合いに出したのは、栗彦も小野篁と同じ様な異界に到った、という事実を強調したかったという事ですよね、私にだってわかりますよ、そんな事」


『違う。栗彦がそれを引き合いに出して述べたかったのは、そこが、という点だ』


 ギクリとしたツユにメザメは続けて言った。電信柱の上から一匹のカラスが彼女を見下ろしている。


『そこが死者の国、冥界だと言うならば素直にそう記す。そうはせずに栗彦は一貫してその地をと表現していた。そしてそこにはやはり、まだ肉体が現世にあって活動している筈の者の姿があった。すなわちそこは冥界には非ず、無論天界にも非ず下界にも非ず――という事になる。経緯は似ているが小野篁が行き来した冥界とは別の世界、それで皮肉と言ったのだろう。生きてもいないし死んでもいない。そこに彼らの魂は囚われているのだと、そう言いたかったのだ』


「それじゃあやっぱり――」


 その問いにメザメは淡白そうに答えていった。


『ああ、まだキミのお兄さんは生きている。もっともそこで、生きてもいないし死んでもいない状態のまま吊るされているのだが』


 その瞬間にツユの表情が華やいだ。


「じゃあ、早くその異界に行きましょう!」


『ふぅむ、だからその手掛かりを尋ねに来たので無いか。


 メザメがそう言い放ったのは丁度、二人が夕暮れに染まる『如雨家』の前に立ち尽くした、その時だった。

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