第五話

   *


 私が違和感に気付いたのは、兄が雨の日の夜に出掛けなくなったからでした。


 そんな事で何がわかるって思いました? 思いましたよね?

 まぁ聞いてください。


 兄は、雨が好きな人だったのです。彼に言わせると、しとしとと降る水面の音と、夜の静寂とその闇が、何処か母体を思わせる。雨は俺にとってのゼロと始まりなんだと、珍妙な事を言う位でした。


 初めはまるで意味がわかりませんでした。ですが調べてみると確かに、兄の産まれた三十年前の十月十日は日本列島が記録的な豪雨に見舞われた日の事で、各所で洪水が起こる中で予定よりも早く産気づいた母が、かなりの苦難の末に兄を分娩する事になったのだという事がわかったのです。  


 だからきっと兄にとってのは、母との繋がりを思い出させる雨の中にあったのでしょう。


 雨が好きな人は時折お見かけしますが、だからと言ってその度に夜に傘を差しては散歩に出掛ける、というのは異常ですよね。だって濡れるし冷たいし、またお風呂に入らなくちゃいけなくなったりもする。洋服だって汚れる。変ですよね。でも、それが私の兄なんです。


 ――そんな兄が、雨も夜も好まなくなった。


 聞けばただ漠然とはぐらかすのですが、明らかに妙でした。だって雨は兄にとっての原点なんですから。それに小説の構想なんかをするのももっぱら夜雨よさめの中であったと聞いた事もあったのです。それなのに兄はある日、ある時を契機に、まるで嫌ってでもいるみたいに、雨を敬遠し始めた。雨が降って来たよと伝えてみても、窓の外を見やるその目にはもう輝きが無い。


 。そう、目です。

 普段はそんな事ないんです。でもやっぱり目がおかしい。ふとした瞬間に垣間見せるその瞳の奥に、深淵のようなが見える事がある。あれは兄じゃない、そもそもあれは、あんなのは、人の出来る目なんかじゃない。

 何かがおかしい、漠然とそう思いました。


 まさかとは思いましたが、私は兄に探りを入れました。兄しか知らない筈の知識や記憶を掘り返してみる。すると、言っている事や、知識や記憶には相違は無い。ただし自らの感じていたであろうしている事に私は気付いたのです。兄の語る記憶は全て、まるで誰かが如雨陸という人間の人生録を読み上げているみたいに情報と結果しか無かったのです。

 その時どう感じて、どう思ったのか、何故そうしたのか……そういった細かい心の揺らぎが排他されている。悲しかったとか楽しかったとかの感情は情報としてあるばかりで、細かく紐解くことは出来ない。その後の結果と思いとを繋ぎ合わせる事が出来ない。それはまるで兄の中にあった人間性というものが、固く冷たい氷になってしまったかの様に思えました。


 そうです……ある日ある時、。『異界のおみくじ』にあったみたいに、誰かが兄に成り変わった――。


 とはいえ、これだけの情報でもまだ確信には及びません。兄が夜雨を好まなくなったのはただの気まぐれかも知れませんし、目が人のものとは違うのも、尋常ならざる闇を抱え込んだ人間の目を、私自身がまだ目撃したことが無いからかも知れない。兄の追想に結果と情報しか無いのは、単に記憶が薄れているから、もしくは漫然としか私の問いに取り合っていない故に、その受け答えがいい加減だったのか……いずれにしても、その全てが私の主観でしか無い以上、他人を説得するには及ばないという点は理解しています。


 ――けれど、あらゆる疑念を念頭に置いてなお、他人にそれを確信させる情報が一つ。客観的事実としてあるのです。


 話が一点二転してすみません。最初からこの話をしておけば良かったでしょうか。しかし私にとって兄がどういう存在で、また社会的にどういう人間であったかという情報は、いずれ知ってもらう事と思い、先に話させて貰いました。

 さて、私が兄を『異界のおみくじ』の中の“雨前図栗彦”だと確信したその理由ですが、その証拠は単純に、それはもう肩透かしを喰らうほどに明快に、兄が執筆に使用しているタブレットの中にありました。おそらくタブレット自体にロックを掛けていたから油断していたのでしょう。けれど私は兄のタブレットを解除するパスコードを知っています。だってそのナンバー、私の誕生日なんですもん。兄はこの手のロックにはいつも私の誕生日を用いるのを実は知っています。持ち主の情報から安易に予想の出来るパスワードは不用心と言われますが、自分ので無ければ良いという訳ではありません、現に私に解かれてしまっていますからね。ね、駄目ですよ?


 兄の不在時、私はいつものように兄の自室に置かれたタブレットを開いてみました。……あの、話が少し逸れますが、小説家を目指す方っていうのはみんなああいう習性を持ち合わせているんでしょうかね? 執筆しているという癖に、その作品を身近な人間には絶対に見せてはくれないのです。だってそれって変ですよね。いずれは多くの人に読まれたいと思っているのに、どうして読まれる事を躊躇うのでしょう? だってその方が直接感想も貰えますし、絶対に良いじゃないですか! 読みたいのに読ませて貰えない、だから私はしょっちゅう兄の不在時を見計らってはタブレットを盗み見ていたのです。飽くなき好奇心を抑えられなかったとでも言いましょうか。だって私、読書が大好きで、小説家を目指す兄もまた自慢だったんですもん。兄がこっそりと書いていると思っている作品の数々は大体読みましたよ。


 ……え? なんですか、その人を軽蔑する様な目は?


 話を戻しまして、兄のタブレットを開くとそこに、とある小説投稿サイトのアプリがあるのを私は見付けました。こんな青いアプリはこれまで無かったよなぁ、なんて思いながら、その小説投稿サイトの存在に関してはその時から既に知っていたので、遂に兄も自分の作品を世に発表する気になったかと、喜んでアプリをタップしたんです。するとすぐにそこにログインしっぱなしになった作者マイページが表示されて、ハンドルネームに『さん』と表示された。兄はこれまで『Rain』という別のペンネームを使用していたので、それが兄だということにすぐには気付けませんでした。けれど、兄のタブレットからマイページへとログインされている以上、それは疑いようもない事だと考えるのが妥当ではないでしょうか。


 その『燦』の投稿していた一本の作品。それが『異界のおみくじ』だったのです。


 そしてその内容に目を通してみると、私は兄の言動との奇妙な合致に気が付いて来ました。

 ……兄に違和感を感じる様になったのも、去年の十月の秋、伝記小説の題材を探しに行くと、一泊二日の京都の旅に一人向かったその後でした。話の中で語られていた様に、歳もその頃丁度三十になる誕生日で、誕生日会をしたかったのになんでわざわざその日を選ぶんだと抗議したのを覚えていますから確かです。その点も踏まえ『異界のおみくじ』の内容と兄の言動は偶然では片付けられない程に符号するのです。そして何より……ブルーライトを背景にして映るその物語の中にはもう、私の知る――兄の文章が、ありませんでした。

 先程話した結果と情報だけの簡素な文体だけがある。そこにはもうやっぱり、私の知る、私の好きな兄の痕跡が無くなっているのです。


 確かに兄は自分自身でも、小説家としての形を見失っていると話していました。影響されたものやその日のコンディションで文体が変わる。まるで形のない水のような…… だと。物語の中もあった様に、兄自身の自己評価もそんなところであったと記憶しています。


 けれど私は、兄が無形だなんて思いません。

 兄の文体は流動的に形を変えていました。けれどそれらはいずれも挑戦的に描かれていて、決して消極的では無い、紆余曲折した情報過多であると言えました。そこにある様な無機質な文体は、決して兄の中には無いものなのです。

 今回の件は、情報の氾濫した兄という人間の中で、溢れ返る何かが形を成そうとしている。そんな予感がした……矢先の話だったのです。


 ――兄の文章は怪奇に……いいえ、に奪われたのです。


 兄は――私の唯一の肉親である如雨陸はまだきっと、異界に吊るされているのです。私がここを訪れた理由にもう察しが付いていますよね。メザメさんには京都に存在するというこのを見つけ出し、そこに囚われた兄を助け出して欲しいのです。

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