第四話

   *


 私の物心が付くよりも前に、父は蒸発して消えていました。私は父について何も覚えていないんですけど、十も歳の離れた兄はそうでは無かったんだと思います。毎夜、父の名を呼んで泣いていたその声を、心の何処か遠くに覚えているんです。


 兄が十八歳に、私が八歳になった頃、母が事故で急逝しました。すがる者を失って、目の前が真っ暗になって、私達は泣きました。降りしきる雨よりももっと。その時の記憶はそれしか覚えてない位に。


 私達には親戚も身寄りもありませんでした。優しい顔したおばさんが、子供達だけで生きていくのは大変だから、私だけでも児童養護施設に来ないかと提案して来たことがあります。兄はもう十八なので一緒には来れないという事であるらしく、私はその話の意味があまりわからなかったけれど、そのおばさんの言うみたいに兄に迷惑を掛けるのは嫌だと思って、その誘いに頷きました。


 けれど、その話を断ったのは兄だったのです。


 兄は自分が妹の面倒を見ると、そう言って頑なでした。兄はまだ高校三年生だったけれど、その瞬間に、表情にあったあどけなさがみるみると消えていったのを覚えています。その瞬間に、兄は私の保護者になったんです。父と母に変わって。兄は世界で唯一となってしまった私との繋がりが遠く離れ去る事を拒絶したという訳ですね。


 幸いにも私達の元には、大きくは無かったけれど二階建ての持ち家と、ある程度の纏まったお金がありました。母が最後に残してくれたものです。けれど決して多くはない。兄はその時あっさりと、大学への進学を諦めました。元々は兄も今の私と同じ文学部の大学に入るつもりだったらしいのです。私達は文学一家で、親の影響もあり幼い頃から文学を側に親しんで来ましたから、それはある意味自然な成り行きであるとも思えました。


 ですが兄にとっての未来への道筋は途絶えてしまった。しかしだからと言って、兄が文学というものから身を引いた訳ではなかった様です。むしろその逆、さらにその核心へと進んでいったという方がおそらくは正しいと思います。


 兄は小説家になると言いました。


 ――文学。

 自宅に詰め込まれた本の山を思い出す。それは私や母や自らが、そして父が。共通して愛したものでした。兄はきっと、私達家族の二度とは戻らなくなったカケラを手繰り寄せるみたいに、ペンを手に取ったのです。


 それから兄は小説家を目指しながらアルバイトに精を出していました。大学に行かずとも文学に触れられている……いいや、その道が予想だにせず閉ざされたからこそ、自分には無理だと諦めていた、偉大な夢への一歩を踏み出すつもりにでもなったのかもしれない。


 ……それでもきっと、私を育てながらの生活は過酷だったと思います。

 兄は謙虚で誠実な人でした。母親の残した遺産には極力手を付けず、朝から晩までアルバイトをして、家に帰ったら食事を作り、夜は小説を書く。そんな勤勉な生活を続けながらも自分への評価は低かったと記憶してます。掃除、洗濯、炊事、いいと言っているのに、授業参観なんかにも必ず来る。運動会や卒業式にも欠かさず顔を出した。私が寂しくない様にって。他の保護者に混じってまだ若い男がそこに並んでいるのは恥ずかしかったでしょう。

 やがて反抗期になった私が兄を敬遠し出しても、兄はずっと私の側に居て、少し困った様な顔で微笑み続けていました。

 自分の事はいつも二の次にして私の為に尽くしてくれる、そんな優しい兄でした。


 そんな兄にも一度だけ、春がありました。とても美人で本が好きな、兄には勿体無い位の同じ作家志望の桜子さんという同志からアプローチを受けていたのです。

 けれど兄はその人との関わりを拒絶しました。それも妙な事に、兄の方にしたって、その人の事を思えば頬を赤らめる位に気が合ったにも関わらずです。


 どうして、と問うた私に兄は、そんな暇と時間があるのなら、小説を書いていなければならない、と話しました。  


 ――その時の兄の目は坩堝るつぼの様に赤く、揺れていました。


 何故そこまで?

 そう続けた私に、兄はこう答えました。


「もし俺が有名になったら、きっと居なくなった父さんが俺の小説を読んでくれる。俺達の事を見つけてくれる。そうしたら、またきっと、俺達は元の温かい家庭に戻れるんだ」


 ――兄は小説を通じて、居なくなった父の背中を追い掛けていたのです。

 自分と、私の為に。


 丸く微かに揺らぐその狂気と熱情の瞳を、私は覚えています。

 不退転の決意であるのだ、とその時私は、兄の夢への気持ちが生半可なものではない言う事を知りました。それだけ賭けているのだ、それ程までに、破滅的な程に、何かに取り憑かれたかの様に……そう思った。


 兄は小説家という目標に向かって一直線に駆けていた。しかし、思えばそれがせめてもの、人生に対するプライドだったのではないかともまた思えます。

 逃げないのではなく逃げられなかったのかも知れません。小説家として名を馳せても、蒸発した父が私達の元を訪れる可能性など殆ど無い事も本当はわかっていたと思うんです。

 でもその道を諦めてしまえば、もう自分には何も無くなってしまう……そんな事、絶対にありはしないのに。


 私が高校二年生になった春。兄は私に大学へ行けと言いました。どうやら母の残した遺産に手を付けず、しこたまアルバイトをして生活にかかる金を工面していたのはその為であるらしかったのです。自分が諦めた夢を妹の私には叶えて欲しい。金が無いからやりたい事が出来ない。そんなひもじい理由で夢を諦めるのは余りに不憫だと、そう語ったのです。私はその瞬間に、兄の辛苦を思って涙ぐんだのですが、そんな時にも兄は、自分には小説があるのだからと言って笑っていました。


 如雨陸ゆきさめりくは――そんな優しい、私の大好きな兄でした。

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