第8話 クリスマスの予定



「鏑木せーんぱい♪」



 翻訳サイトを利用して英語の論文を読んでいると、背後から甘い声とともに柔らかな感触を押し付けられ、首に腕が絡んでくる。



「……柏木、こういう行動はやめろと言ったハズだが?」


「今は沼田先輩と嶋崎先輩しかいないんだからいいじゃないですか~」


「よくない」



 確かに研究室内には沼田と嶋崎先輩しかいないのだが、明らかに雰囲気が悪くなっている。



「チッ……」


「呪われろ呪われろ呪われろ呪われろ」



 俺の近くで作業していた沼田は舌打ちして離れていくし、嶋崎先輩は俺に呪詛を送り始めた。

 さっきまでの穏やかな空気が、まるで嘘のようにピリピリしている。



「鏑木先輩も嬉しいくせに♪」


「心の底からやめて欲しいと思っている」



 確かに背中には一瞬の幸せのようなものを感じなくもないが、メリットデメリットがまるで釣り合っていない。

 柏木は以前、この行為を事もあろうに食堂でやってきた。

 その瞬間、俺には男女問わず驚愕の視線が向けられ、それとほぼ同時に強い敵意を突き付けられた。

 幸い、柏木があの手の行動をとるのは珍しいことではないらしく、個人攻撃は三日ほどで収まったのだが、正直もうあんな思いはしたくない。



「あーっ!? 智ちゃん、また先輩に迷惑かけてる!」



 クネクネとまとわりついてくる柏木の背後から、幼さの残る少女のような声が響く。

 どうやら時間差で渡瀬も研究室に来たらしい。



「ほら! 離れて!」


「え~、もう少しだけ~」


「ダ・メ・で・す!」



 渡瀬が柏木の肩を掴んでグイグイ引っ張るが、非力なせいか一向に引き剥がせないでいる。

 そのたびに柏木の胸がふよんふよんと押し当てられるため、実はワザとやってるのかとすら思えてくる。



「あん♪ これ、癖になるかも♪」


「な、なんて声出してるんですか!?」


「自然と出ちゃうよ? 准ちゃんもやってみる? おっぱい押し当て」


「な、な、な、なぁ!?」



 柏木にからかわれ、渡瀬の力が緩んでしまう。

 渡瀬に柏木を引き剥がしてもらうことを期待していたのだが、どうやら無理なようだ。

 俺はため息をついてから論文を読むのを諦め、柏木の腕を強引にほどく。



「これ以上悪ふざけするなら、柏木だけ課題を増やすぞ」


「そ、そんな! それだけは勘弁してください!」



 ちなみに課題とは、今俺がやっているような外国の論文を解読してレポートにまとめる作業である。

 一人一つでも大変なので、それ以上に増えると地獄を見ることになる。

 流石の柏木も、それだけは回避したいようだ。





 柏木達がこのゼミに入ってから、早三か月経った。

 最初は色々不安のあった柏木と渡瀬の関係も、今では互いに名前で呼び合うくらいの仲良しになっている。

 やはり、コミュ障同士は相性が良いという俺の見立ては正しかったようだ。


 結果として二人が俺に接触してくる機会は減った……ということはなく、むしろ最近は今のようにスキンシップが増えている気がする。

 これは柏木だけでなく、渡瀬についてもだ。

 柏木ほど大胆ではないが、ピタピタと触れてきたり密着されることが多く、正直少し困っている。

 というのも、渡瀬は最近柏木にメイクを学んだのか、明らかに垢抜けてきているのだ。

 その結果、一緒にいる俺が敵視され始めていた。


 柏木が山岡ゼミに入ったことは既に周知されているし、恐らく沼田が一緒のゼミだということもバレている。

 そのうえ渡瀬のことも意識され始めているため、一部では俺が女を囲っているのではないかという事実無根な噂まで流れているようだ。

 男は俺のほかに嶋崎先輩がいるのに、何故俺だけが敵視されるのか不思議でならない。



「そういえば、准ちゃんはクリスマス予定ある?」


「え……、な、ないよ?」



 一瞬、柏木の視線が俺に向いた気がする。

 コイツ、一体何を企んでいる……?



「だったら、鏑木先輩とデートしちゃいなよ!」


「え……? デ……、ええええぇぇぇぇぇぇぇっ!?」



 いつも控えめな渡瀬にしては珍しく、大きな声を出して驚いている。

 俺も一瞬驚かされたが、柏木が何か企んでいることはわかっていたので無反応を貫き通せた。



「な、なに言ってるの智ちゃん!?」


「だから、鏑木先輩とデートしなよって」


「そ、それはわかるけど、なんでそんなことを……」


「それは、折角のクリスマスなんだし、一人で過ごすのは寂しいでしょ?」


「そ、そんなことは、ないけど……」



 渡瀬がチラチラとこっちを見始めている。

 相変わらず押しに弱いようだ。



「おい柏木、渡瀬が困っているからもうやめておけ」


「え~、鏑木先輩のためでもあるんですよ?」


「大きなお世話だ。それにお前、何か企んでいるだろう?」


「ギクッ」



 わざわざ擬音を口にして目を逸らす柏木。

 あっさりバラすあたり、意外とどうでも良いことを考えていたのかもしれない。



「ど、どういうこと? 智ちゃん?」


「えっと……、さっきのも本心ではあるよ? ただ、ちょっと狙いもあったというか……」



 まあ、何か裏はあると思っていた。

 というのも、柏木が狙いもなく敵に塩を送るような真似をすることに違和感があったからだ。


 この三か月で、柏木が俺になんらかの好意を向けていることはわかっている。

 男遊びの激しい柏木の好意など絶対に裏があるのは間違いないが、少なくとも好かれようとしているのは間違いない。

 そのせいもあってか、柏木は俺と親しい沼田や渡瀬をライバル視している節がある。

 普段は親しい間柄の渡瀬とも、俺に関することだと妙に張り合ってきたりするのだ。

 具体的には、俺と渡瀬が一緒にいると割り込んできたり、さっきのように自分だけ早く来て俺に接触してきたりする。

 そんな柏木が、わざわざ俺と柏木をデートさせるような提案をしてくるのは、どう考えても不自然だ。



「狙い?」


「いや、その、本当は私が鏑木先輩を誘えれば問題ないんですけど、クリスマスは私も予定があって……。それで、私じゃない他の誰かに独占されるくらいなら、准ちゃんがいいかなぁ~、なんて?」



 柏木の目が一瞬沼田の方に向いたが、流石に愚考レベルの心配である。

 少なくとも、俺は去年沼田と学外で一緒に行動したことしたことなど一度もない(飲み会は除く)。



「智ちゃん……、それはちょっと、自分勝手じゃないかな……」


「そ、そうだけど、准ちゃんだってこの前、推しが他の有象無象に取られるくらいなら……みたいなこと言ってたでしょ!?」


「ちょ、智ちゃん!? その話は聞かなかったことにしてって! ぅぁっ!?」



 渡瀬が慌てて柏木の口を抑えようとし、バランスを崩して柏木にのしかかってしまう。

 それを支えきれず、柏木と一緒に椅子ごと倒れそうになったところを、俺が寸でのところで受け止めることに成功する。



「渡瀬、気持ちはわかるが、こんな狭い場所で慌てて動こうとすると怪我するぞ」


「先輩……、その、すいませんでした……」



 シュンとする渡瀬に、苦笑いを浮かべている柏木。

 二人とも反省しているようではあるが、二人ともコミュ障のせいか距離感が掴めず今のような諍いはこれまでにも何度かあった。

 全く、危うくて目が離せたもんじゃない。



「鏑木先輩……、どこ見てるんですか?」



 柏木にそう言われ、俺の視線が無意識に二人の胸に固定されていることに気づく。

 のしかかった渡瀬の胸と柏木の胸が潰れあい、大変刺激的な光景になっていた。



「……すまん」



 ほぼ無意識とはいえ、吸い込まれるように目が行っていた。

 改めて、女性の胸は危険なモノだと認識する。



「いいんですよ~、むしろ鏑木先輩にもちゃんと性欲があるんだな~って安心しますから。ねぇ? 准ちゃん?」


「う、う、あう……」



 妖しげに笑っている柏木とは対照的に、真っ赤になってしまっている渡瀬。

 結果的にちょっとしたセクハラになってしまったので、猛省だ。



「それで、鏑木先輩としてはどうなんですか? クリスマスデート」


「……行きたいのは山々だが、クリスマスはバイトが入っている」


「そ、そうですか……」



 渡瀬は安心したような、少しがっかりしたような顔をする

 柏木と違って非常に表情を読みやすいが、そのせいもあって柏木に少し弄られ気味だ。



「な~んだ~。でも、それなら私も安心してクリスマスを過ごせます!」



 逆に柏木の方は、俺とは違うベクトルで真意を読みづらい。

 表情は笑っていても、男達に対しては常に隙を見せず警戒をしている様子だし、一人でいるときは時々疲れた雰囲気を出している。

 中々に扱いが難しい存在だ。



「ほっほ、クリスマスはともかくとして、皆さん年末の飲み会については全員参加ということで問題ありませんね?」


「もちろん参加ですとも!」


「俺も大丈夫です。沼田は?」


「……平気よ」


「私も問題ありません!」



 それぞれが返事をする中、柏木一人だけが恐る恐るといった感じで手を上げる。



「あの~、前に聞いたと思うんですが、年末の飲み会って確か――」


「ええ、費用については全て私持ちですので安心してください」


「ありがとうございます! それなら参加できます!」



 相変わらず、柏木の財政状況は厳しいらしい。

 その割にはファッションやメイクには金をかけているようなので、本気で金に困っているようには見えないが……



「? どうしたんですか、鏑木先輩? 私の顔に何か付いてますか?」


「……いや、なんでもない」



 正直少し気になるが、あんまり深入りするとドツボにハマる気がするので、飲み会でもその話には触れないでおこう。




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