残骸──ザンガイ──

駄作ハル

残骸──ザンガイ──

 男は小説家だった。


 いや、鳴かず飛ばずの自分が小説家を名乗るのは烏滸がましいのでは無いかと彼は思った。

だから女将に「小説家さんですか?」と尋ねられた彼は言葉に詰まっていた。


 しかし青森のとある寂れた街のボロ旅館で原稿用紙を散らす、虚ろな目をしたこの中年を社会規範に当てはめるのであれば小説家が最も適当であろう。いや、自分を苦しめる小説家という肩書きはそれぐらい引き受けてくれねば釣り合わない。

そう思い男は「ええ、まあ」と曖昧に肯定した。


「お食事はいつ頃お持ちしましょう」


「お任せします」


「いえ、お仕事の邪魔になってはいけないので」


 仕事と呼ぶに値しない無為な時間を過ごす彼にとって、女将の言葉は度々彼の高尚な自尊心を傷つけた。


「では今すぐ頂きましょう」


 男は広縁の椅子に深く身を投げ出し、窓の向こうの景色を眺めながらぶっきらぼうに呟いた。

錆びた鉄橋に雪が降り積もり、凍った湖に夕日が沈み行く。


「かしこまりました。鍋は少々お時間を頂きたく思います。先に前菜からお召し上がりください」


「それは駄目だ。今すぐ腹を満たしたいのです。箸を持ったまま無駄な時間を過ごしたくない。私は小説家なのです。持つべきものはペンでしょう」


「申し訳ございません。お客様に生のお料理をお出しすることはできませんので」


 男は自らの幼稚な行いに辟易しつつ、それでも鬱憤を女将にぶつけることをやめなかった。


「ではお料理ができるまでの間、私が話し相手になりましょう」


「ほう。それは僕が筆を止める価値のある話なのでしょうね」


「さて、それはどうでしょう。私の話を価値のある作品にするのか、それとも老婆の戯言とするのかは小説家の貴方次第でしょう」


 何故そこまでこの女将がするのか分からない。他に客も居ないような旅館で時間を持て余しているのかもしれない。或いは貴重な客に精一杯の誠意を持って対応しているのかもしれない。


 男には女将の本心は知り得なかったが、その挑戦状を受け取ることにした。


「いいでしょう。ではそのお話を聞きながら鍋を待つとします」


 男は立ち上がり、部屋の中央、畳に敷かれた座布団に腰を下ろす。


 ちょうど女将と正対する形になった男は、眼瞼下垂によって半分以上隠れた眼窩から覗く女将の不気味な視線に気詰まり、俯いて畳のシミを数え始めた。


「それでは」


 女将は後ろに控える別の従業員に何やら耳打ちをしてから千日紅の着物を直し、重々しい雰囲気で口を開いた。





 あれは一昨年の晩夏の話でございます。私の旦那、一昨年に海難事故で亡くしましたが、旦那は釣りの好きな人でした。お客様もお察しでしょうが、この街での旅館経営というのは持て余した暇とどう付き合うかというものなのです。客の入らない日は毎日のように釣竿を提げて海へ出向いたものです。旦那の釣った魚をお出しするのがこの旅館の取り柄のようなものになるぐらいでした。四十年前からの日課ですので旦那は亡くなる前日も、そして当日も海に行っておりました。旦那はそこで命を落としたのです。寝泊まりをするこの旅館にいた時間よりも海にいた時間の方が長いでしょうね。今までも、そしてこれからも。旦那は私ではなく海と結婚したようなものです。おや、すみません。つい愚痴が零れてしまい話が逸れていました。あの日の話をしましょう。





 風雪が窓を叩きつけガシャガシャと女将を急かすような音を立てた。


 男は鳥肌が立つような隙間風に背を丸めながら女将の続く言葉を待った。





 先程は晩夏と言いましたが、もう夜には肌寒さを感じるような時季でした。四十九日を終えた私はふらっと海へ行ったのです。主人を亡くした旅館も喪に服すように閉めていましたから、私も時間がありました。変な気を起こしたという訳ではありません。ただ、あの人が見ていた景色とは何だったのか、この目で確かめたかったのでしょう。思えばあの人と海に行ったことはありませんでした。私はこっちの生まれでしてね。海は見飽きているぐらいです。ですが旦那は遠戚の紹介で私と見合い結婚で岐阜からこちらに来たものですから、物珍しさもあったのでしょう。それか、それぐらいしか楽しみがなかったのかもしれません。……あまり旦那の悪口ばかり言っていても仕方がありませんね。ですが一つだけ旦那の名誉の為に言っておきますと、決して私たちは仲が悪かった訳ではないのですよ。私たちの間に子はありませんがそれは仲が悪かったからではなく、あの人が生まれつきの不能だったからです。私としか結婚出来なかったのも、決して性格や甲斐性の問題ではなく、そのたった一つの問題の為でした。……要らないことを口走りかえって旦那の名誉を傷つけたかもしれませんね。



「失礼します」


 女将の言葉を遮り、十七、八程の若い仲居がお盆を持って部屋に入っていた。


「お鍋ですが、もう少々お待ちください。こちら前菜になります」


 そう言って仲居は澄まし汁と胡瓜の漬物を机に置いて立ち去った。


 前菜に澄まし汁とはおかしいものだと訝しみつつも男は黙って椀に口を付ける。その汁は濃厚な魚の出汁が使われているようで、男の文句を言う気も収めてしまう程に美味だった。


 気がつけば男は一度口を付けただけのはずの澄まし汁を全て飲み干していた。


 バツが悪くなった男は目を泳がせながら漬物に楊枝を刺しゴリゴリと次々に口へ放り込んだ。


 女将はそんな男の様子を見て満足そうな表情で話の続きを始めた。





 そんなこんなで仲は悪くなかったと自分では思っておりますが、あの人のことをよく知らなかったのもまた事実。亡骸すら返してくれない海に行き、私は恨み節すら語ること無くただ海を眺めていました。少し荒れた海岸線を歩きあの人の上着と片方の靴が見つかった防波堤の近くまでふらついてきた時のことです。爺婆ばかりのこの街には似つかわしくない、若い女の啜り泣きが聞こえてきたのです。不審に思い近付くと、女は海の中に居り消波ブロックにしがみつくようにしていました。防波堤の上から見ている私には一糸纏わぬ女の白い上半身と水に濡れる長い黒髪しか見えません。ただ事では無いと思い助ける方法を考えますがここからでは手も届かない。それに届いたとして老婆一人の力では女を引き揚げることはできないでしょうから、私は老体に鞭打ち駆け出し街一番の若い人間を呼びに行きました。若いと言っても三十は超えていますが、それでも漁師の男は力もあり漁網を巧みに投げ込み女を引き揚げることができました。私も漁師も、女は海難事故で流されてきたのだと思っていました。ですが女の様子を見るとそうではなかった。若い女の下半身はまるで魚のようだったのです。引き揚げた事で波間に掻き消されていた半人半魚の女がなんと言っているか聞こえるようになりました。女はヤオキチ、ヤオキチと呟いていたのです。ヤオキチとは私の旦那の名前と同じでした。益々不審感が募る私たちでしたが、私たちの方に目もくれず泣き続ける女の腕にあるものを見た時、その女をどうするかは決まりました。





「失礼します。お鍋をお持ちしました」


 またも女将の話を遮るように仲居が入ってきた。男は女将の話の続きも気になったが、それ以上に目の前の鍋に惹かれていた。


 澄まし汁よりも遥かに濃密な魚介の香りに男は唾液が溢れるのを抑えることに必死だった。

グツグツの煮立つ鍋の中で躍る分厚い二切れの純白の白身魚が男に喰われるのを誘っているかのようだった。


「すぐにご飯と他のおかずもお持ちします」


 男が鍋に手をつけずに済んだのは仲居が箸をご飯と共に持ってくることにしていたからに他ならなかった。





 人手が足りず何度も申し訳ありませんが、この話を聞き終わる頃にはお食事も揃うでしょう。では話の続きを。女が大事そうに抱えていたのは酷く皺の寄った、ふやけて原型の分からない肉片でした。しかしそれが何か本能的に分かってしまうのは、人間が共喰いを避けるために遺伝子に刻まれているからなのでしょうか。しかしあろうことか女はそれを喰らい始めたのです。私たちの目の前で、大層大事そうに、哀しい貌で。漁師は魚を〆る為の鉈を持ち出し女を打ちました。何度も何度も。しかし傷のついたところからたちまち肉が湧き出し死ぬことはないのです。





「お待たせ致しました」


 仲居がお盆一杯の料理を運んできた。男は箸を持ち切り身に手を出そうとしてその手をふと止めた。


「失礼ですが、旦那さんが亡くなってから魚はどのように仕入れているのでしょう」


「さて、それを聞いてどうしようというのでしょうか」


 女将の顔から微笑みが消えた。


「いえ、初めて食べるこの魚が何処で手に入るものか知りたいだけです。あまりに美味しいもので」


 仲居は料理を配膳し終えるとすっと立ち上がり扉の前でじっと男を見つめる。


「どうぞお召し上がりください。そのうち、面白い小説のアイデアも思い浮かぶことでしょう」


 壁に掛かった石長比売イワナガヒメの醜い視線と女将の虚ろな眼光が重なった。




 それ以上、誰も言葉を発することなく、男は鍋に箸を伸ばした。




 ──────


 それから小説家を名乗る男を見た者はいない。





◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 

あとがき


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