疾風


 幸せは、誰かが齎してくれるものだと思ってた。

 だって、1人じゃ幸せにはなれないから。


 彼と付き合って、かれこれ4年になる。

 お互いの家への挨拶もスムーズに済んで、2人で貯めた結婚資金が充分な額になったから、結婚式のプランや新婚旅行といった具体的な話題が毎日の会話の中心になってきた。

 彼は、温和で優しいスポーツマンタイプの製薬会社の営業マン。私は広告代理店のライター。

 同い年の私たちは、友達の紹介で知り合った。付き合って婚約指輪をもらうまでは比較的速い方だったと思う。理想的な彼氏だと、会社の同期に羨ましがれるくらいだった。

「彼なら、私たちも安心して、嫁にやれる」と、私の頑固な両親も喜んでくれた相手。

 希望や祝福や幸せだけで構成された光り輝くバージンロードだけが眼前に伸びていて、私はそこを歩いていけることを心待ちにしているだけの、ごくごく普通の25歳だった。


「・・別れよう」


 無数の雨滴が、タクシーの曇り始めた窓ガラスに打つかっては次々と落下していく。

 冷たい雨が降った灰色の日曜日。

 午後から晴れるっていってた天気予報は当たらなかった。

 未だ降りしきる凍えるような雨を全身に纏って、乗り込んだタクシーで彼は唐突に切り出してきた。

 濡れてしまった髪の毛に気を取られていた私は、彼の言葉の理解が到底追いつかない。

 え・・ いま・・なんて?

 肋骨の隙間から、すっと手が入ってきて内蔵をぎゅっと乱暴に鷲掴みにされているような吐き気が込み上げてくる緊張感に支配される。

 ゆっくり振り返ると、雨滴に叩かれる窓ガラスに映った彼の悲痛に歪む顔が見える。


 どうして、そんな辛そうな顔しているの?


 だって、辛いのは私だよ。

 私、じゃないの?


「・・・・ごめん!」


 窓ガラスに映った彼の顔が、くしゃっと崩れる。

 嗚咽が漏れてくる。

 ちょっと、待って、ちょっと待って。


 え・・なにこれ。なんなの?


 縮こまっていく彼の顔はもう窓ガラスにもどこにも見えない。彼は振り返らない。決して。


 ねえ、私を見て。どうして、こっちを向いてくれないの?


 私は必死に彼に呼びかける。けれど、無視されてしまう。


 彼の目に、彼が見たい世界に、私はもういない。

 私の存在は、もうない のだ。


 雨脚が強くなっていく。

 タクシーを打つ雨滴の音が激しくなっていく。窓ガラスの外に広がる景色が滲んで溶けていく。判別がつかない。今日はこんな天気になるんだったっけ?

 今朝、母と一緒に見た天気予報を思い出す。

『よかったわね。午後から晴れるらしいわよ』彼によろしくね、そう言って、莞爾に笑んでいた母。

 凍り付いた私の胸を照らす小さな光のように、母の幸せそうな笑顔が消えない。それなのに、まるで、閉鎖寸前の工場の排水口から排出され続ける水銀混じりの絶望的な汚水に打たれているような私たちを乗せたタクシー。

 息苦しい。閉じ込められてしまった。

 運転手と私たちはビニールシートで隔たれている。だから、この重苦しい空間にいるのは実質、私と彼だけ。

 だけど、

 きっと、彼はすぐに、1人で降りて行ってしまうのだろう。

 雨に濡れるのなんか構わずに、走って去っていくのだ。

 絶望に暮れる私を、ここに置き去りにして。

 振り返ることもせずに。

 そんなドラマみたいな卑劣なこと・・あんなに優しかった彼ができるなんて、思わなかった。

 強風が吹き付けてきて、タクシーを無慈悲に揺らす。

 相変わらず彼は、私を顧みようとしない。

「・・好きな人でも、できたの?」

 やっと絞り出した問いかけは、カラカラに乾燥して頼りなくポッカリと浮かんだ。

 俯く彼の返答は、頷きだか首を振るだか定かではない僅かな動きだけ。こんな終わりの場面に、そんな中途半端な返答しか与えようとしないくらいに、彼の中での私の価値は暴落したのだ。

 夫婦になろうとしていた相手だったのではないのか。そんなふうに誰かが現れて簡単に心変わりしてしまうくらいの愛情しかなかったのに、どうして婚約指輪なんて渡してきたのか。


 あなたにとって、私ってなんだったの?


 訴えたかった言葉は、口許で泡のように弾けていく。それを拭ってくれるのが彼だった。

 いつでも私の意思を優先して、フォローしてくれて、言いにくいことを先回りしていつも汲んでくれる。困っている人を放っておけずに、どんな時でも手を差し伸べて・・

 きっと、彼の優しく差し伸べたその手に縋り付いてそのまま放さなかった誰かが、いたのだ。


「・・・・ごめん」


 嗚咽しながら謝り続ける彼。


 ・・やめて。

 泣かないで。


 泣きたいのは、私なのに。

 私は、あなたの前で泣かせてもくれないの?


 彼は自分を責めている。さっさと切り捨てて、他人事ではいられない。そんな情に厚い性格だから。知っているから、尚のこと憎い。それが、仇になったのだ。


 泣きたいのは、可哀相なのは、誰なの?


 彼は責任を持って受け止めようと、向き合おうと努力をしている。けれど、上手くいかないのだ。それでも、逃げたくない。弱くて卑怯な自分からも逃げることになるから。でも、そんな理由は自分都合。


 そんなのは思いやりとは言わない。

 あなたの下した判断に、私の気持ちは入っていたの?


「・・すみません。俺だけ次の信号で降ります」

 唐突に運転手に指示した彼。

 私の胸は第二派の衝撃を受ける。

 タクシーに乗り込んでから、まだ100メートルも動いてはいないのに。いつもなら私の自宅まで送ってくれてから、帰路につく彼が私と離れようとしている。


 一刻も早く私から離れたがっている。


 私はさっきから彼の顔を見ようとしているのに、決して私を見ない彼。


 そんなに、私が、嫌いになったの?


 私が、なにをしたというの?


 結婚を心待ちにしてたら、いけなかったの?


 会う度に、結婚式はこうしようああしようと、はしゃいでいたことがいけなかったの?


 両親が喜んでいたことを報告したのが、いけなかったの?


 一緒に住む時に使いたいインテリアを見に行ったのが、いけなかったの?


 あなたと結婚できることを喜んでいたのがいけなかったの?


 幸せだと感じていたことがいけなかったの?


 なにがいけなかったの?


 私が悪かったの?


「・・・・教えて よ」

 口にした途端、目頭が熱くなった。

 揺れる視界で、彼が運転手に紙幣を渡すのが見えた。いつのまにか停車している。

 ・・待って。私は彼の腕に手を伸ばす。


 イヤよ!待って・・!


 虚しく空を掻く私の手に、雨混じりの強風が吹き付けてきた。


 待って・・!


 声にならない叫びは風に吹き消され、後には濡れた沈黙があるだけ。彼は行ってしまった。私に、後ろ姿すら見ることを許さずに無慈悲に去ってしまったのだ。

 私は、力なくシートに沈み込んだ。

 曇った窓ガラスを手で拭っても雨に降り籠められた灰色の景色は変わらない。頬を、やり切れない涙が一筋伝う。

 タクシーがゆっくりと動き出した。

 バックミラー越しに運転手と目が合った。隈が目立つ痩せた中年男の運転手は気弱そうに笑うと、行き先はこのままでいいんですか? と聞いてきた。

「先程の、お客さんが、彼女の行きたいところまで乗せてってやって欲しいと言って、だいぶ置いていかれましたので・・」

 涙が溢れ出す。

 どうして最後まで優しいのか。


 ・・やめてよ。そんなことしないで。

 あなたにとって、私なんてもう、どうでもいい存在のくせに。


 そんな優しさを残していかないで・・


 泣きじゃくる私に、運転手が困っている。

「では、こうしてはいかがですか? 最終的に、お客さんのご自宅に辿り着くように、頂いた分だけ遠回りするというのは?」

 運転手ははにかみながら、妙な提案をしてきた。

 思考回路まで絶望の雨で濡れてショートしてしまっている私はなんと答えていいかわからず、泣きながら微かに頷くだけ。

「生憎の天気ですけど、雨のタクシー観光も、なかなかいいものですよ」疾風に乗れば飛ぶように走れるんです、となんとかして元気づけようとしてくれる運転手の優しさが滲みた。

「・・はやて?」

「このぐらいの時期に激しく吹く強風です。秒速、いくつだったかなぁ・・とにかく、風力段階でいうところの5レベルの風らしいですよ。何段階かわかりませんが。とにかく、速い強風」

 よくわからなかったが、確かに運転手が言っていたように、タクシーは高速に乗った途端、飛ぶように走っていく。

 このまま、遥か遠くに行ければいいのに。もう、彼といた日常に帰りたくはなかった。

 帰って、彼との幸せな記憶を思い出したくはなかった。

 ありふれた日常に、彼の記憶を埋没させられる自信がない。

 私は、ずっと彼との別れの意味を探し続けてしまうだろう。

 そして、やり直したいと現れるはずのない彼の姿を、彼に似た誰かを目で追ってしまうのだと思う。そんな、辛いこと・・


『大丈夫。風は、いつか必ずやむから』


 嵐が吹き荒れるいつかの晩。

 彼はベッドの中で、私の耳元でそう優しく囁いた。

 私は左手薬指に輝くダイヤの指輪をそっと外した。

 一度だけ、爪の一部分が欠けてしまったことがある歪な私の宝物。これが壊れても、もう直せる部品はない。彼が全て持っていってしまったのだ。私1人では、直せない。

 だから・・

 高速から降りたタクシーは海沿いの道路に差し掛かった。荒れ狂う海が見え隠れしている。

 私は窓を全開にしてもらう。強風が吹き込んでくる。私は身を乗り出して、エンゲージリングを力一杯投げた。

 叩き付ける冷たい雨滴が、生温い涙を洗い流していく。

「お客さーん!飛ばされないでくださいよー!」

 運転手が叫んでいる声が、疾風の隙間から聞こえてくる。私も負けずに叫び返す。

「ええ!平気よ!ぜんぜん平気!」

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