変化なんていらない。


 凪のように静かで穏やかな安定したこの生活を乱されたくない。

 何人にも邪魔されたくはない。

 このままずっと、自分だけのペースを保ったまま生きていくのだ。

 あと一ヶ月で不惑を迎えようとしているぼくの望みは、それだけだった。


「先輩、今日、飲みに行きませんか?」

 後輩が珍しく声をかけてきた。先日、ミスしたばかりなのにお気楽なことだな。度の強い眼鏡を押上げて「悪いけど」と、やんわりと断りながらそんなことを思う。

 後輩が起こした取引先とのトラブルの後処理をしたのは自分だ。恐らくそのこともあって、飲みに誘ったのだろう。だが、ぼくは下戸なので飲めない。それを知らないはずはないだろうに、わざわざ飲みに誘ってくるあたり、もしかしたら前述した詫び入れの理由からではなく、ただ単に愚痴を吐き出したいだけなのかもしれない。そうだとしたら、ますます不愉快だ。

 仕事のできないヤツに限って、不満が多いことには常々納得いかない。不平不満に脳みそをプカプカ浮かばしてる暇があったら、脳みそをフル回転させて仕事に集中しろよ。そんなことが一瞬過る。が、くだらないことだ、と瞬殺する。

 ぼくの貴重な人生の時間を一瞬たりとも、そんな生産性のない奴らのことを考えて患わすなどもってのほか。

 ぼくの生活ルーティンは、誰にも妨害されることはない。

 退勤後、鞄を手にさっさと会社を後にする。

 駅までの道を辿っている途中、後ろから声をかけられた。

 枯れ草が擦れるようなウィスパーボイスだったので、最初全く気付けなかった。

「・・すみません・・あのぉ・・明細書の提出期限が・・今日までなのでぇ・・」

 経理のお局ミズキユウコだ。お局と呼ばれているくせに、その消え入りそうな独特の声と、幽霊のようにバサァーと下ろした長髪のせいでなのか全く存在感がない彼女は、けれど、さすが仕事は、ぴーちくぴーちく姦しい黄色い小娘達より遥かに早く優秀だった。もう四十路になっているらしいが、未だ未婚の変わり者だとの噂だ。

 それにしても、月末までにまとめた明細書を提出する役目は、飲みに誘ってきた後輩だったはず。まさか、仕事もきっちり終わらせないで飲みに繰り出したのか? いや、あの口ばっかりの迷惑男なら有り得る話だ。

「・・あのぉ・・領収書は・・出されて・・らっしゃるので・・本日・・何度か・・催促の内線ぉ・・入れさせて・・もらったんですけどぉ・・」

 そうだったのか。それすら知らなかった。それも、あの後輩だか、それとも、後輩と似たような輩が受けて、そのまま放置していたのだろうか。つくづくダメな奴らだ。そんな使えない後輩の教育係を、一時的ではあれ部長から押し付けられてしまっていたぼくは、うんざりと大きな溜め息をついた。

 恐らく、再三内線を入れたのにも拘らず退勤時刻になっても提出がなく困り果てたミズキユウコは、企画課に足を運んだのだろう。けれど、肝心な奴らは飲みに繰り出した後で、掴まらなかったのだろう。仕方なく最後の手段として、ぼくを探していたのだと推測できる。なぜなら、これまでにも何度か、後輩がまとめて提出しなければいけなかった領収書や明細書を、教育係のぼくが経理に持ってきていたのを見ていたから。ご苦労なことだ。

 ぼくの溜め息に、ミズキユウコは小動物が驚いた時のように華奢な体をびくっと微かに強張らせた。

「大変ご迷惑をおかけしました。わかりました。至急、社に戻って提出しますので」

 眼鏡を押上げて踵を返すぼくに、ミズキユウコは後ろから音もなくついてきた。

 社に戻り、後輩の机や明細書置き場を漁って、粗方の明細書を掻き集め、まとめて彼女に渡す。

 ぼくがそれらの作業をしている間中、ミズキユウコは俯き加減で黙って突っ立ていた。まんま幽霊みたいだ。

 だが、ぼくにはそれが不快ではなかった。

 ぼくは以前からミズキユウコのことは、周囲が言うような気味の悪い印象は持っていない。彼女は、ただ、口数が極端に少なく、その少ない言葉ですら病的に小さなウィスパーボイスによって聞き取り辛いだけで、自信なさそうな俯き加減の顔や表情も、外界から遮断する覆いのようにその小さな顔の大半を常に覆っている長い髪も嫌いじゃない。よく見ると背があるのに、少し猫背気味で痩せ気味で、覇気を感じさせないところもよかった。

 不出来な後輩の代わりに明細書を提出しに行った僅かな時間であっても、彼女の消え入るような存在は、ぼくに煩わしさを感じさせなかった。

 自分を強く主張しなければ生き残れない、アピールこそ命が主流になっている現代社会の中で、これはとても、稀有なことだった。だが、逆に考えれば、ある意味でミズキユウコは自分を主張していることに他ならないし、マイペースを貫いているからこそのお局の地位なのだろう。他の人間が、彼女の存在を不気味だ暗いだ怖いだといくら罵っていても、会社には認められているのだ。それは重要なことだった。元来、人間なんて自分の価値観や想定から少しでも外れたり違ったりする存在は認められないようなくだらない差別意識があるのだ。自分たちと同じような人種しか仲間と認められない。ルーツを辿れば、原始時代にまで遡るようなことだから仕方ないのだろうが、つくづくくだらない。

 見た限りでは、業務以外は我関せずの姿勢を崩さないミズキユウコであっても、これまでに嫌な思いや辛い思いだって幾度となく経験したに違いない。目の前で、ぼくの様子を、瞬き少なめにじっと凝視している有名ホラー映画に出てくる女幽霊顔負けの彼女にそんな思いを馳せてみた。

「・・確かにぃ・・受け取りました・・ありがとう・・ございます・・」

 ミズキユウコは、消え入りそうな声でそれだけを言うと、ふわーと経理課に消えていった。

 これから更に残業するのだろう。不憫なことだ。

 経理が月末は大変なことは社会人として一般常識であるはずなのに、それを無視する自分勝手な不埒な輩達のために、誰かがそのしわ寄せを食らう。だからと行ってお局の彼女一人が被らなくても、後輩がいるだろうに、そっちに回せばよかったのでは、と考えかけてとどまった。経理課にいる彼女以外の女性はみな揃って若くて派手なのだ。多分、彼女のところの後輩も、うちのと同じで使えないのだ。どこも大変だな。ぼくは溜め息を残して帰路についた。


 それから一ヶ月後。

 またしても月末にミズキユウコが現れた。

 今度は領収書が足りないのだと言う。ぼくはまだ帰り支度をしている途中だったので、前回よりもまだマシだ。彼女もそれを考慮して、退勤前に来たのだろう。

 担当者である後輩は、例の如く飲みに行くのだと行って、退勤時間になるが早いかクラウチングスタートを切るように帰っていた。それも、ぼくの各種の提出は済んだのかとの確認に「大丈夫っす。万事抜かりないっす」と軽い返事をしてだ。

 またか・・いい加減に、アイツの担当変更を部長に申請した方が、手っ取り早いのではないだろうか。ぼくは後輩の机や領収書をまとめてある棚を探し、忘れられた何枚かの領収書を発見してミズキユウコに渡した。

「毎回毎回、申し訳ない。確認して頂いて、もし足りないようでしたら、内線を下さい。ぼくも少し残っていますから」

「・・はぁ・・急ぎ・・確認しますのでぇ・・」

 ミズキユウコから内線がかかってきたのは、僅かに数分後だった。

「・・あのぉ・・揃ってました・・のでぇ・・」

 お馴染みの口調で礼を述べるミズキユウコに、どうしてぼくからそんなことを切り出したのかは謎だ。

「ミズキさん、もし、よければ」

 空腹を覚えていたぼくは、何の気なしにミズキユウコを食事に誘ったのだ。普段ならば一人飯を貫くぼくに、これは珍しいことだった。彼女にそんなことを持ちかけた己の心理も不明だが、彼女ならば一緒に食事をしても煩わしさや妨害や不愉快など差し障りになるようなことはしないだろうと思ったことも我ながら意外だった。

 ミズキユウコは暫しの完璧なる沈黙の後、「はい」とも「まあ」とも取れるような曖昧な返事をよこした。

「では、エントランスにいますので」

 独身でいることに、一人を楽しむことに寂しくなったわけでも、しんどくなったわけでもない。ただ単に、たまにはこういうのも悪くないかもなと、ふと、思っただけだ。

 ミズキユウコは必要最低限のことを囁くだけの無口な人間だし、ぼくは自分のペースを乱されることはない。お互いに干渉せずに、それぞれで食事を楽しみ、別れた。ぼくの凪のように穏やかなリズムは一ミリたりとも変化はない。ミズキユウコによってさざ波すらたてられることはない。凪を保てる。それだけのこと。たったそれだけの・・けれど、なんだろう。この寛いだ気分は。この満たされたような気分は。

 その後も、月末になると、決まってぼくはミズキユウコと食事をするようになった。

 ぼくの生活の中に、月末の彼女との食事が無理なく組み込まれていた。

『彼女との』と言っても、お互いに隣に座るだけで、会話などをしながら食事をしたりするわけではな決してない。時々、彼女なりぼくなりが食べたものに関して呟くだけ。一人で食事をするのとあまり変わらない。けれど、不思議と満足感は高い。

 いつの間にか、ミズキユウコはぼくの中に、いるようになった。これは変化か? だが、水面は変わらず静かだ。なので、ぼくはミズキユウコを許容していた。

 彼女もまた、ぼくと同じ心情ではなかろうかと、どこかで思ってもいた。


 ある休日。

 休日のルーティンとして、昼食を外で摂った後、散歩をしながら買い物をして帰路についた。

 交通量の多い大通りに差し掛かり、信号待ちをしている時だ。

 信号が赤になって、ぼくの横に白い乗用車が止まった。歩行者信号が青になる。ぼくは横断歩道を渡ろうと足を踏み出す前に、念のために左右を確認するためにまず白い車を見た。

 ぼくの心に、ざわっと大きな波紋が生まれた。

 白い乗用車の運転席には、でっぷり肥えた中年男。

 その隣、助手席に座っていたのは、ミズキユウコだ。と、思う。いや、外見は、ミズキユウコだ。

 だが、顔が違う。表情が違う。髪が違う。雰囲気が違ったのだ。

 ミズキユウコと思しき女性は、長い髪を片耳の下で結った髪を肩に垂らし、埃を被った駄菓子みたいな中途半端な色の洋服を身につけている。いつもは地味なダークのスーツしか着ていない。そして、生命感溢れる満面の笑み。あまり似合わないピンク色の山茶花みたいな口紅をひいた口を大きく開け、歯茎まで見せた大笑いをしている。それに、アイラインとアイシャドーが濃くひかれた派手な目元。だが、間違いない。ミズキユウコだった。

 ぼくは反対側に横断しきった後も気になって、その車を凝視していたが、彼女はぼくに気付くことはなく、信号が変わり彼らを乗せた車はどこへともなく去って行った。

 ぼくは狐につままれたような心地で突っ立っていた。


 なんだったんだ・・あれは・・?


 だが、波紋はすぐにおさまり、再び静かな凪が戻ってきた。ぼくは気にしないように努めた。

 そして迎えた月末の最終日。

 エントランスでぼんやりと待ちながら、先日見た、あの映像を思い出した。

 あれは、ほんとうに、彼女だったのだろうか?

 ぼくのどこかで、それを否定したい自分がいた。あれは、あんな醜態を曝していたのは、決してミズキユウコなんかじゃない。

 あれは、そっくりさんだったのだ。

 地味で幽霊みたいに消え入りそうな彼女なわけない。

 けれど、なんとなく、ミズキユウコはもう来ないような気がした。

彼女は、あのまま、どこか遠くに行ってしまったのではないだろうか。そんなバカげた想像をしている自分が滑稽だった。


 そもそも、ミズキユウコはぼくにとってなんだったんだ?


 わからなかった。

 ただ、彼女といると凪を保てる自分がいた。それだけだ。それだけのことなのに、どうして、こんなに混沌とした感情が湧いてくるのだろう。そして、ふっと気付いた。


 いくら見た目が静まり返った凪であろうとも、その水面下では激情や迸る熱が蠢いているものであると。


 ぼくは、そんな簡単なことを忘失していたのである。

 だが、だとしても、今更もう手遅れだった。

 気付かなければよかったのにと、己の愚を嘆いた。

 静まれ!鎮まれ!

 来る気配すらない彼女を待ちながら、ぼくは己に言い聞かせ続けた。

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