東風


 久方ぶりに、風邪を引いたらしい。


 六十の大台に乗ってしまった二月。

 私は、自宅で参っていた。


 妻は半年前に他界しており、現在は、バツイチの出戻り息子と二人暮らしをしている。

 薬品会社に勤める息子は、最近、同じ会社の受付嬢の女性と仲がいいらしく、帰りが遅い。休日の今日も朝から粧し込んで出かけて行った。一応、私の状況をメールしてはみたが、返信はない。男同士など、そんなものだろう。息子の看病を期待していたわけではないが、体調が優れないと、とかく人恋しい傾向になりがちなものである。待っていても無駄な息子は諦め、空腹を抱えた私は壁を伝いながら台所へと向かった。

 男二人暮らしの荒廃している台所の空間を満たしているのは、幾日も放置された汚れた食器と生ゴミ、ペットボトルや空き缶、食べ散らかされたつまみの袋やカップ麺の容器だけ。食物と呼べそうなものは見当たらなかった。買い物にも行ってないので、米びつも空っぽだ。お粥すら作れない自業自得のこの絶望的な環境を、心底恨んだ。

 ああ、やはり、誰か女性がいてくれないと、我が家はダメなのだな・・と、改めて思い知る。

 戸棚に、パッケージが破れただけの未開封のカップ麺を見つけて、やれ幸いと、ヤカンにお湯を湧かし始めた。

 ヤカンが湯気を立て始めるのを、椅子に放り投げたコートのような恰好で座り、熱に浮かされた頭で待ちながら、台所に立っている妻の後ろ姿を思い出そうとしていた。

 まず真っ先に思い出すのは、いつも不機嫌そうな皺を眉間に寄せていた妻の顔。

 妻は、とてもおとなしく、口数が少ない質だったので余計に感情を察することが困難ではあったが、少なくとも結婚した当初は、そんな顔はしていなかった、と思う。控え目で慎ましく上品なところが、好印象だった。静かな中にもしっかりとした強い芯を持ち、聡明だった妻。それなのに、いつの間にか、夫婦の会話が減り、結婚記念日に花束を贈っても『ありがとう』の一言もなくなってしまった。家庭内は、常に得体の知れない殺伐さがそこはかとなく漂っていた。私だけが、そう感じていたのかもしれないが。

 妻は、私を嫌っていたのだろう。

 無理もない。妻には独身時代、思い慕う男があったのだ。

 ところが、その男の方では、妻にさっぱりだった。妻は何度となく泣かされていた。

 私とは同じ会社の同期だったに過ぎない。

 そして、会社の忘年会があった晩。自暴自棄になって酔いつぶれた妻が、その時たまたま介抱していた私となんとなく関係を持ってしまった結果、妊娠してしまったのだと、息子には説明がなされていたようだ。

 定年退職したその夜、家に帰ると、台所の食卓の上には軽食と離婚届が置かれていた。

 妻の欄には全て記入は済んでおり、私が書き込むだけの状態。

 そんなに私が嫌いだったのかと、これから先の頼りない行く末も相俟って、がっくりと絶望に暮れた。

「大変大変、沸騰してますよー」

 小川のせせらぎのような心地いい声がして、私は瞼を開けた。

 高熱のため、朦朧としてしまい、いつのまにか、意識が飛んでいたらしい。目の前で火を止めているのは、若い女性だった。スーツを着ているところを見ると、OLかなにかなのだろう。髪を一つに結って、銀色の腕時計をしている。息子の恋人だろうか? 茹だった頭では観察するのが精一杯だ。ぼんやりと眺めていると、女性が私の横に口を開けたカップ麺に気付いた。

「あ、それに入れるんで、湧かしたんですねー」そう言って、カップ麺の容器にお湯を注ぐ。

 近付いた女性の横顔は、どこかで見たような気がしたが、どこでだったのかまでは思い出せなかった。

「熱があるんですか? 顔が真っ赤ですよー」

 大変大変と言いながら、女性は冷蔵庫や戸棚を開け閉めして、氷枕を作ってくれた。

 私は、カップ麺は食べ始めたが、途中で気分が悪くなり、半分以上残してしまった。

 女性は、空っぽのペットボトルを濯いで、水と塩と砂糖とポッカレモンを入れて振った即席スポーツドリンクを私に渡しながら、寝てたほうがいいですよ、と立ち上がろうとする私に手を貸す。女性の肩を借りて寝室まで移動する間中、女性のシャンプーだか香水だかわからないが、春の野山を思わせるような微かな香りが私の鼻腔を刺激し続けた。それで、今まですっかり忘れていた記憶を一つ、思い出した。

 私は、泥酔して誘ってきた妻の同じ香りに、負けたのだ。

 布団に寝かされた私は、子どものように氷枕をあてがわれ、スポーツドリンクを少し飲まされた。

「ぐっすり寝れば、よくなりますから」

 女性は莞爾に笑んだ。

 君は息子の・・? と問い掛けることもできず、熱に翻弄される私の意識は急速に遠退いていった。妻のことを夢にみていた。

 忘年会で妻が正体を失くすまで悪酔いしたのには理由があった。

 妻が片思いしていた男が、数日前に、妻の親友とデートに出かけて交通事故で死んだのだ。

 なにも知らなかった妻は、ダブルでショックを受けた。だからああなったのだ。片思い相手と親友を同時に、しかも最悪の形で亡くしてしまった妻は酷く傷付いていた。私はそれを聞いて知っていたので、妻の誘いを断り続けた。好きでもない男と、こんなことをしたところで、君は慰められるどころか、増々傷が深くなっていくだけだからと。

 ところが、彼女は『あなたまで、私を無視するの?』と泣き崩れる。置いて行かれた子どものように泣きじゃくるその顔を見たら、罪悪感が湧いてきて、どうにかしてやりたくなった。

 一晩だけの過ちだと割り切れるならと、約束して、渋々ホテルに行った。そうしたら、孕ませてしまったのだ。

 それを知った時、ああ、やっぱりやめておけばよかったんだと、私は深く後悔した。

 妻は、鳴き叫んで嫌がるでも拒絶するでも喜ぶでもなく『こんなことになって、すまない。責任は取るつもりだ。どうしたらいい?』と聞く私に、無表情のまま黙って婚約届けを差し出した。

 ああ、そうか。妻の無表情は、もうここから始まっていたのだ。だから・・

「親父!親父!大丈夫か?」

 耳元で叫ぶ息子のダミ声で、現在に引き戻された。

「けっこう熱、出てんじゃん。なんで連絡くれなかったんだよ。薬飲んだほうがいいんじゃないの?」

 メールしたのに開いてもいないのだろう。全く誰に似たものだか、いい加減で適当な息子だ。先刻の女性のことを伝えたかったが、喉が腫れているらしく痛くて声が出ない。

「声が出ないのか? うわーインフルエンザかもしれねーな。マジかー親父、オレに移すなよーとにかく薬と食えそうなものは買ってきてやるから。なんか欲しいものあるか?」そう言って、私の頭の下の氷枕を確認する。氷はすっかり溶けて温い水になっていた。

「これ、どこにあったんだ? 懐かしー子どもの時、よくお袋があててくれてた」

 どこにあるのかは私にもわからない。謎の女性がどこからか出してくれたのだから。手振りで枕元に置いたペットボトルを飲ませろと指示する。

「これなに? ポカリ? こんなのあったっけ?」

 不器用な手つきと耳障りな息子の声に苛立ちを覚える元気もなく、舌を伸ばせるだけ伸ばして水分を摂る。

「じゃあな、行ってくるから。寝とけよ」

 玄関が閉まる音がして、しばらくすると、先程の女性が新しい氷枕を手に入ってきた。いつのまにか、私の頭の下から氷枕は消えていた。きっと、息子が回収していったのだろう。

「他に欲しいものは、ありますか?」

 氷枕をあてがいながら、謎の女性は優しさに溢れた慈悲の眼差しを向けてきた。見覚えのある眼差し。

 私の脳裏に『リンゴの擦ったヤツ』という言葉が浮かんだ。

 女性は言う。

「リンゴを擦ってきましょう。うちは小さい頃から、ずっとそれを食べさせられてきたんです」

 聞き覚えがある台詞だった。

 私の脳裏に次の言葉が浮かんだ。『とても栄養がある』

「でも、とっても効くんですよ。ほら、リンゴは金って言いますしね」

 そうだ。

 これは、新入社員として研修をしていた時、極度の緊張から体調を崩してしまった私を見舞った妻が言っていた言葉。

 一人暮らしのボロいアパートで、高熱を出して参っていた私を心配した彼女が、会社帰りにわざわざ訪ねてくれたのだ。その時の彼女は、そう・・目の前にいる彼女と同じ髪型、同じ恰好をしていた。口角の上がり具合までそっくりだ。

 どうして、妻のこんな顔を忘れてしまっていたのだろう。

 では、この若かりし日の妻にそっくりな女性は、私の風邪に侵された脳が見せている幻覚なのかもしれない。それとも、死んだ妻が心配して来てくれた幽霊なのか? いや、それはないな。妻は浮気相手に会いに行った帰りに、車の衝突事故に巻き込まれて死んだ。離婚したかった旦那のことなど、どうでもいいだろう。幽霊として出るとしたら、浮気相手のところに行っているだろう。

 では、やはり、私の願望が見せた幻覚なのか・・

 人間は弱っている時には、それまでの人生で幸せだった記憶を思い出して、踏ん張る気力や生きる糧とするものなのだな、とリンゴを擦ってくると言って戸口を出て行く若い妻の後ろ姿を見送りながら思った。

 彼女もまさか、こうやって同期として心配している時までは、まさか看病した男と所帯を持つようになるなんて想像してもいなかっただろう。不憫なことだ。だが、

 私は仰向くと、濡れた目を閉じた。

 私は、その時からずっと、彼女のことが好きだったんだ。

 妻が報われない恋を追い掛けていたように、私も妻に報われない恋をし続けていた。

 会社で泣き腫らした目で無理に笑おうとする彼女に心を痛め、感情的になって電話している彼女を見る度に傷付いていた。

 彼女の心の平安を願い、彼女の笑顔だけを思っていた。

 けれど、不慮の事故とはいえ、私と結婚した彼女は、その一切の感情を出さない別人になってしまったのだ。婚姻届を差し出された時に、一塁の希望を抱いたが、人生の伏目に離婚届が置かれていた事実を目の当たりにした時、ああ、やはり私ではダメだったのだと心底悲しくなった。そう考えると、これは私の、妻の遺体と一緒に火葬しきれなかった願望が見せている幻なのだろう。

 そんなことを夢うつつに思っていると、彼女が器を手に戻ってきた。

「空気が籠ったらよくないですよ。換気します」

 開口一番そう言って、彼女はカーテンを払って窓を全開にした。『寒いよ』と布団を被る私。

「今日は、そんなに寒くないですよ。東風が吹いてますから」

 彼女の言う通り、生温くて中途半端な風がカーテンを揺らし始めた。私はゆっくりと目を瞑る。

 そうか・・私は妻と結婚したけれど、ずっと失恋していたんだ。結局、最後まで私の想いが叶うことはなかった。

 カーテンを透けさせる早春の光の中に若い妻の姿は溶けるように消えていった。

 ありがとう。

 そして、さようなら。


 冬が終わろうとしていた。

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