4話 覚悟


 監察官が家を去ってからどのくらい時間が経ったのか覚えていない。気づくと僕は自分の部屋に戻っていた。それから窓辺に寄りかかって、意味もなくずっと外を眺めていたようだ。ロボットがオートモードに入り操縦者がいなくなったように、意識だけが殻に篭り身体だけが動いている。


 窓辺から見えるのは厚い雲に覆われたC地区だ。連日続いた雨こそ止んだものの、どんよりした空気が壁に囲まれた街を覆っている。

 とはいえ、いつもと変わらない世界だ。何もかもが囲まれた世界。


 すると、一羽の鳥が視線を通り過ぎた。

 瞬きでシャッターを切るようにその鳥が飛んでいる姿を視界に捉える。

 透き通った蒼い翼に風をなびかせてその鳥は空高く羽ばたいた。分厚い雲に覆われた空を裂くように鋭く、白いキャンパスを絵筆で流線を描くように飛んだ。

 やがてC地区の街を大きく旋回すると、そのまま風の勢いに任せて壁の先へと飛んでいった。


 蒼い鳥が壁の先を過ぎ去った瞬間。眩しい光が雲の隙から地上へと神々しく一直線に降り注ぐ。あまりの眩しさに手を遮るほどであった。

 太陽は己の存在を示すかのように、空の王座は誰だか示すかのように、俺を忘れるなとでも言っているように思えた。その神々しい陽射しは、暗く閉ざされたC地区を、僕自身を明るく照らし出した。


 この新鮮で勇気に満ちた空気を感じようと窓を開ける。

 部屋全体がどんよりとした湿っぽい空気がかき消され、暖かく勇気に満ちた空気が部屋を換気していく。

 そして、窓から吹き出す風は一冊の図鑑のページがめくる。偶然なのか、それとも啓示なのか、風によって開かれたページはクジラが堂々と海中を泳ぐ挿絵だった。僕にとって、あおいにとってとても大事な思い出があるページだ。

 ふわりとめくれたりもどったりと厚みのあるページが波風のようにゆらゆらと揺れる。不思議なことにクジラの挿絵部分のみに留まった。そこからは前にも後ろにもめくれず、そのページだけがゆらゆらと揺れていた。じっと見ていると紙の中でもクジラがヒレを大きく動かし、海中を泳いでいるかのように見える。

 その時、クジラが海面に浮上し潮を空へ吹き出すみたいに、僕はあおいとの交わした過去を思い出した。


「......そうか! 僕はあおいと約束していたんだ!」


 心臓から血管を通して熱い血が流れるのを感じる。恐るものなんてないかのように思えた。クジラのように堂々と勇気を持って前に進めばいい。

 僕はD地区に収容されているあおいを助け出す。そして、あおいと共に壁の外へと出る。もう迷わない。

 

 日の出が沈むのを見届けると、リュックを用意して必要な物を入れるために僕は準備に取り掛かる。

 壁の外に出るには何を持っていけばいいのだろうか。服はどのくらい持っていけばいいのだろう。下着は何組用意すべきか。セーターは、シャツは、ズボンは。コートは羽織っていった方がいいだろうか。考えるときりがない。

 食料はどうするべきか。持てるものにも限度がある。でも干し芋は持っていこうと思う。あおいがこれが一番好きなのかはわからない。好きな食べ物は何か? 僕たちはそんなこともまだ知らない。だからこそ彼女が食べたいと言っていたから持っていく。他にはビーンズや小豆の缶詰に、粉末状にされた野菜スープをリュックに詰めた。

 壁の外は未知だ。学校で教わった人類史とは明らかに歪めらている。D地区でさえ何が起こるかわからない。そのため清潔なタオルや救急用の包帯や消毒液も用意しておいた方がいいかもしれない。ただあまり詰めすぎてヨロヨロと歩き回るのは目立ってしまう。最悪の場合、監察官に追われることも考えるとできるだ軽量に済ませたいが、それでもチャックがぎりぎり締めれるくらいだった。

 とりあえず思いつく限りのものは準備した。後は家を出ていくだけだ。

 

 重くなったリュックを玄関前に置いてから、リビングへと向かう。

 監察官が去ってから相当なストレスを受けたのだろう。母さんはそのままリビングで倒れたまま眠っていた。。僕は母さんを担いで、母さんの寝室に行き、寝具に横たわらせる。隣にある父さんの寝具は綺麗に整えらたままだ。父さんには悪いと思っているが、帰ってきていないうちに家を出て行きたい。

 僕は母さんに別れを言うため母さんが寝ているそばに腰掛けた。眉間に皺を寄せながら苦しそうな顔をして母さんは眠っていた。僕はカサカサとした母さんの手を握りながら起こさないよう小さな声で別れを言った。


「......母さん、ごめんなさい。僕は家を出ていく。もう二度と会わないかもしれない。......この街の先、壁の先へ行くことにするんだ」

「......うう、......いさな、行かないで......いさな」

「っ‼︎」


 起こしてしまったかと思ったが寝言だった。とても苦しそうな声だった。

 涙が母さんの手首に流れ落ちる。小さい頃の記憶が映画のワンシーンみたいに蘇る。母さんと父さん、僕で一緒にその日の出来事を話しながら食事する時、風邪を引いた僕に母さんが優しい声で看病してくれた時、いつも背中を押すように微笑みを浮かべる母さん。それと同時に嫌な記憶も思い出す。僕に公務員を目指してほしいが為に、テストの点数が悪くかった日にはヒステリックになり僕の存在自体を否定するかのような暴言を吐いては、冷めた目と失望した顔を向ける母さんも。

 でも、それでも僕は母さんに感謝の気持ちの方が優った。そんな母さんを裏切るように家を出ていくことが辛いと思ってしまう。


「ごめんなさいっ‼︎ 本当に.....ごめんなさい。母さんの為に生活を楽させてあげたかった。......親不孝者でごめんなさい」


 母さんの手を握りながら僕は泣いた。もう二度と会えないと思うと、身体中の水分を放出するくらいに涙が止まらなくなった。

 だけど......僕は行かなければならない。親を不幸にさせることは神に背くと同じように罪が大きいに違いない。正直、あおいを助けることすら自己満足に過ぎないかもしれない。でも、それでも、僕は自分の意志でいきたいから。家を出ていく。本当にごめんさない。

 眠っている母さんの手を離してから毛布を肩まで掛けた。気のせいかもしれないが、眉間に皺を寄せた苦しい表情が少し柔んでいるかのように見えた。

 僕は目に焼き付けるかのように母さんの顔を眺めた後、椅子から立ち上がり静かに母さんの寝室を出た。ドアノブを回したところでもう一度振り返り、いってきます、と言ってからそおっとドアを閉めた。

 いってらっしゃい、と背中を押すような声がした。


 服や食料、救急セットなどを詰めたリュックを背負って、他に何か持っていくべきものがないか最後に確認をする。

 そうだ、あの図鑑だけは絶対に持っていかないと。肝心なモノを僕は忘れるところだった。階段を駆け足で登ると、自室の机に置いてある一冊の図鑑を、既にぱんぱんになったリュックの中へと無理やり詰め込んだ。

 重いリュックを背負って階段を降りると、僕がドアノブに手を触れるより先に玄関のドアが開く。


「ただいま。......って、いさなか。どうしたんだその格好」


 まずい。父さんと鉢合わせてしまった。まだ帰ってこないばかりだと思っていたのに、父さんには絶対に止められてしまう。傍から湿っぽい嫌な汗が流れる。やはり神意に背くようなことをしているからだろうか。影から無数の手が身体全身に絡みつくように、神様、admin様は僕を壁の中に縛り付けているのだろうか。

 鼓動が激しくなる。父さんにも聞こえるんじゃなかと思えるくらい激しく。さすがに怒られるだけでは済まされないはず。なんなら監察官に突きつけられるかもしれない。そう思うと顔を上げることができなかった。

 だが、何も起こらなかった。殴られたり怒鳴られたりすることもなかった。恐る恐る視線を上がると、父さんは僕の予想に反することを言った。


「......父さんもに行くことを夢見ていた」

「外の世界を夢見ていた......」


 父さんは玄関口に立ったまま壁の先へ視線を向ける。つられて同じ方向を僕も眺める。西日が沈んだC地区は壁の内側から少しずつ暗闇が支配していく。

 父さんが壁の外に興味を持っていることに僕は驚きを隠せなかった。なぜなら、規律や法律、admin様の教えなどルールというものに対して誰よりも厳しい人だからだ。特に公務員など壁の中央政府で働くには法律や規律を順守し、admin様への教えに敬虔深い人ではないとなれない。

 そんな人、父さんが壁の外へ興味を持っていたなんて信じられなかった。

 

「お前は考えたことがあるか? なぜ、人は壁の中に閉じこまっているのかを」

「......あるよ。でもそれはあまり考えちゃいけないことなんじゃ......」

「はは。その通りだ。外へ興味を持ってはならない。外の世界は汚染され、我々選ばれし民のみが壁の中へと生き残ることができたからな。これはadmin様の教えだからな」

「うん。それは散々父さんや学校でも教えられてきたことだよ。でも、父さんは考えてことはあるの?」

「......ああ、ある。ちょうどお前と同じくらいの年だったな」

「父さんがそんなことを考えていたんなんて信じられない」

 

 父さんは少し間を置いてから言った。


「どうして壁の中で生きなくちゃならない。どうして壁の外に行ってはならない。どうして人類は一度文明を崩壊させてしまったのか。.......そんな疑問を抱いてはいろいろと調べたり空想したものだ」

「それで......父さんは壁の外へ行こうとしたの?」


また、間を置いてから父さんは僕の目を見て言った。


「もちろん、壁を出ようとした」

「っ‼︎」

「でも......途中で怖くなったんだ」

「え?」


 いつの間にか星が見えるくらいにまで空は暗くなっていた。

 父さんは夜空に浮かぶ星々から遠い過去の記憶を探し求めるかのように、今度は視線を上に向ける。そして、今まで知らなかった父さんの過去を僕に語り始めた。


「私は本当はこの壁の中の法律も規律も嫌で仕方はない。admin様の教えも。それら全ては人々を壁の中に止まらせる為だけのものばかりだ。そして、壁の中央にいるヤツらの既得権益を守るためのだけのものに過ぎない。VR世界と壁の中で得た甘い蜜で豚のように太ったんだ。今さら壁の外へ行き、それらを崩壊させたくないと考えている。......私はそんなくそみたいな世界に絶望したんだ。こんな息が詰まりそうな壁の中で一生を終えることなんてできない。お前と同じくらいの時にそう思い壁の外へ出ることを決断した」


 僕は語られる言葉とその意味を上手く処理できないでいた。父さんから語られる壁の世界への本音、壁の世界のシステム、そして壁の外へ出ていこうとしたこと。それらを父さんが考えていたなんて、信じられなかった。


「私はある時に夜を見計らって家を出たんだ。三日分の食料に水、救急セットをお前のようにリュックに詰めて。その日は吐く息は白く寒かったのを覚えている。家を出るとC地区、D地区を駆け抜け、外へ繋がるゲートまで辿り着いたんだ」

「すごい。D地区までから外へ繋がるゲートまで辿り着くなんて」

「いや、そこまでだったんだ」

「うん? 後一歩だったのに」

「......外へ通じるゲートは完全に閉ざされていた」


 抑揚の欠いた声で父さんは真実を告げた。


「閉ざされていた? じゃあ壁の外へは出ることなんて始めっからできないってこと⁉️」

「それを見越してのことか、すんなりとゲートまで辿り着けたのかもしれない。後から知ったが、監察官どもが数百年も前にゲートそのものを封鎖してしまったんだ」

「そんなっ‼︎」


 受け入れたくない真実を聞いて沈む僕とは対照的に、父さんは無表情に近いが、どこか安らかな顔をしていた。


「......開かないゲート前にして、私は絶望と同時に安心してしまった」

「安心してしまった?」

「この壁を抜けると、後一歩で外へ出られる。この事実を前にして私は今まで抱いてきた自由への憧れよりも恐怖が優ってしまった。......壁が、50メートルも超える壁が私に語りかけるんだ。『お前は壁を抜けると、独りで生き死ぬことになる』と無言の圧力が私に降りかかってきた。私は自信をなくしてしまった。自由こそ手に入るが、そこからどのように生きていけばいいか考えていなかったし、わからなかった。何より、独りで死ぬことが恐ろしい。そしたら、急に壁に囲まれていることに安心感をえてしまった」


 均一に等間隔に並んだ家々から吹き抜ける風が僕たちを突き抜ける。

 僕の中で焚き上げた覚悟が、この冷たい風によって縮みそうになる。父さんは懺悔をしているかのように、黄色に滲んだ疲れ目から澄んだ目に変わっていた。父さんも僕と同じように中途半端だったんだ。だから、逆に壁の世界のルールに忠誠を誓うのように今まで生きてきたのだろう。でも父さんを情けないとは思えなかった。僕も同じ選択をしていたかもしれない。あおいに出会わなければ。

 だが、物理的に言え、ゲートが開かなければ壁の外へ出ることはできない。よじ登るにしても、50メートルも高い壁を登るというのはさすがに無理がある。仮に命綱を用意しながらだとしても、監察官にバレてしまうだろう。


 やはり外の世界へ行くことは不可能なことなのか。


 他に何か方法はないのか。絶対にあおいを助けにいかなければならないと覚悟を決めたんだ。もう中途半端に覚悟を左右に揺らされたくない。たとえ、神意に背くようなことだとしても。焚き木を追加して火を絶やさないように、絶望に負けないよう僕はどうすればいいかとにかく考える。

 だが、またしても父さんは予想外のことを言った。


「......いさな。お前はそれでも壁の外へ行ってみたいか?」

「え? でも、外へ通じるゲートは開かないんじゃ.....」

「これをお前にやる」


 父さんは内ポケットからカードを僕に手渡した。そこには父さんの顔写真が載り『C地区員証明書』と書かれた公務員としての身分を証明するカードだった。。


「これって......」

「このカードを使えば、一時的にD地区の電力施設に入ることができるはずだ」

「電力施設?」

「そうだ。そこにバレずに上手く入れれば、外へ通じるゲートに電力を供給し、ゲートを開かせることができる」

「......じゃあ、父さんも一緒に行こう! 母さんも連れて壁の外に行こうよ‼︎」

「......いや、私はいい」

「どうして? こんなことを知っているってまだ外へ諦めていなんじゃ⁉︎」


 また無表情に近いが、今度は懺悔のような安らかな顔ではなかった。父親としての血が通った僕にわかる覚悟のような表情をしていた。


「......いさな。どうして、お前にこの名前をつけたか話したことあったけ?」

「いや、知らない。母さんからも話してもらったことはない」

「そうだったか。......いさな。これはクジラの古名だ。お前に図鑑を渡しただろう。私もあれをよく読んでいた。海という場所にはあんな大きな生物がいたことに衝撃を受けたんだ。海中を誰にも邪魔されることなく泳ぐ姿を想像すると勇気を貰えた。感そして、今まで私が隠し抱いてきた自由への憧れをこのクジラのように、私の子どもに名付けたくなったんだ」


 初めて自分に込められた意味を知った。

 夜風の冷たさにも負けない、暖かくて鎧のように硬い不思議な力に包まれたかのように力が、勇気が僕に湧いてくる。


「......父さん、ありがとう。この名前を誇りに思うよ。そして、父さんの気持ちも引き継ぐ」

「ああ、私も嬉しい」

「だからこそ、母さんと一緒にここから出るべきだッ!」

「いや、お前一人で行くんだ。母さんのことは心配するな。私がなんとかする」

「なんとかって、どうするのさ?」

「.....とにかく私たちのことは心配するな。私は孤独を恐れてしまったが、お前は独りではない」

「で、でも.....」

「いいからッ! 行くんだ!」


 僕は家を出た。父さんの横を通り過ぎて。

 月の光を背にして、C地区からD地区へ駆け抜けた。



 


 

 


 


 

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

口といきもの @momochi1029

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ