2話 約束


「あら、もう学校終わったの?」

「うん。終わったよ、母さん」

 階段から降りると、テレビで母さんがニュースを見ながら洗濯物を畳んでいた。

(D地区で暴動が発生しました。警官隊による鎮圧が行われていますが、未だ不安定な状況のようです)

 ニュースキャスターはただ、台本を読むだけの抑揚のない声で言った。

 テレビ画面の先では、硝煙がまかれたのか、霧に包まれた大通りに黒一色の防護服に身を包んだ警官隊が警棒と盾を持ち一列に並んでいる。

 それを突破しようと鉄の棒やバットを片手にぶつかる人々が映され、彼らはみな、使い古されたボロ雑巾のような小汚い服に身を包んでいた。その中には僕と同じ歳に見える子もいた。

「また、D地区で暴動だなんて。物騒で嫌だわ。あ、そうだ! いさな、机の上に配給でもらった干し芋があるから食べていいわよ」

 机の上には干し芋が3切れほどお皿に置かれていた。

 ちょうど小腹が空いていた僕は一切れを手に取り、猛獣のように噛みちぎる。

 固くて噛みにくいが、噛めば噛むほど甘みが口の中で広がる。久しぶりの甘味に夢中で残りの干し芋も平らげてしまった。

「ふふ。父さんが帰ってきたら夕飯にするから、それまで待っていてね」

「......父さん今日帰ってくるんだ?」

「そうよ。一週間ぶりくらいかしらね」

 僕の父さんは公務員で、僕たちが住むC地区の区役所で働いている。そこでどんなことをしているのかあまり知らないが、忙しく家に帰ってくことが少ない。


 夕飯までは部屋にこもり、勉強をすることが僕の日課だ。

 装飾のないスタンドと小さな本棚に数冊の本がしまってある簡素な机の上でノートPCとパットを開き、大学受験用の参考書を読む。

 父さんも母さんも将来は、僕に公務員になることを望んでいる。

 なぜなら、公務員になれば一定の生活が保障されるから。

 ただ、公務員になるには大学に入らなくてはならない。

 しかも大学は一つしたないため、エリートのみでしか入ることができない。例えば、あおいのようなクラスで常に成績トップを誇るような人間しかチャンスはなかっった。

 だから僕のような平均的な人間には雲を掴むような話に思えて仕方がない。

 でも、家と食事を保障される生活のため、家族のために僕は勉強しなくてはならなかった。

 

 しばらく経つと、本棚にある一冊の図鑑が気になってしまった。

『海のいきもの図鑑』と書かれたその本は、僕が小さい頃にずっと読んでいたものだ。そこにはかつて地球の海に生息していたとされる生物が挿絵とともに記載されていた。

 ところどころ、幼い僕がクレヨンで落書きしたページがあり、懐かしいなと思いながら、パラパラとページをめくる。 

 すると、が特集されたページだけしわになるほど読み込まれた形跡があった。

「......どうして、こんなに読んでたんだっけ」

 上手く思い出せない。ただ、なぜだか小さい頃の僕はくじらに夢中だった。

 そのページにはくじらの生態図と海中で泳ぐくじらの挿絵が描かれている。

 くじらは、人間と同じ哺乳類でありながら海中で最大の生物だったらしい。

 体長30メートルから、体重30トンとその巨体が海中を泳ぐさまは、雄大で誰もが魅了されることだろう。

 くじらが海の中を泳ぐさまを想像する。

 誰にも邪魔されることなく、自分の思うがままに海の中を泳ぐのだろう。

 なんだか、あおいを思い浮かべる。

 彼女もくじらのように堂々と生きている気がする。怖いものなんて何もないように思えた。

 周囲の目も気にすることなく、行きたい場所へ行き、やりたいことをやる。

 それに対して僕は周囲の目は気にするし、やりたいことはない。もちろん、両親からの期待と望みは嫌というわけではない。

 ただ、僕の人生はあらかじめ定まっているじゃないかと思うと、酷くつまらない人生だと思う。

 ましては、公務員になんてなれないと分かりながら勉強している今なんて。

 くじらのように、あおいのように堂々と生きるいきものが羨ましい。


 ピコン、ノートPCから通知音がなる。

 あおいからチャットが来ていた。

 あおいはデフォルメされた動物をアイコンにしていた。ただ、独特すぎて犬なのか、猫なのか、または魚なのか。なんの動物のデフォルメなのか今だにわからない。

『明日の9時にD地区ゲート前に集合ね』

『......ねえ、本気で行くの?』

『本気よ!』

『でも、D地区で暴動が発生しているみたいだし.....危険じゃない?』

 ニュースに流れていた映像が目に浮かぶ。警官隊とD地区の人たちによる衝突によって混乱で危険な街並みが。

『だからこそよ! 混乱に乗じて監視の目からすり抜けるのよ』

『バレたりしたら怒られるし、もっとやばいことにならない?』

『大丈夫よ! いさなと私ならなんとかなるわ!』

『なんとかなるって......? 具体的にどうするのさ?』

『いさなとならどんなところでも大丈夫って気がするんだよね! それに、なんだかワクワクしてこない?』

 うむむ.....口元が緩んでしまいそうになる。なにを言っているんだ......まったく。

 もっと冷静に考えなくてはならないのに、なぜだか僕の心臓はこれから迫る恐怖よりも別の、恐怖とは違った意味で鼓動が大きくなっている。

『持ち物なんだけど、何か携帯食を持ってきてくれる?』

『携帯食? ああ......干し芋とか?』

『干し芋っ⁉︎ いいじゃん! 食べたい!』

『少しだけなら持っていけると思う』

『ありがとう』

『いや、別にいいけど』

『ふふ。ねえ、いさな。勇気はある?』

『え?』


「いさな⁉️」

「っ!」

 瞬時にPC画面にロックをかけた。振り返ると部屋の扉には母さんが腕を組んで立っている。

「ど、どうしたの?」

「さっきからずっとご飯、ご飯よ! って言ってたのよ! 全然反応がないから呼びに来たの。それにもうお父さん帰ってきたから」

「あ、そうなんだ。ごめん、今行くよ」

「早く降りてきらっしゃい」

 そういうと母さんは部屋から出ていった。

「......ふぅ。危なかった」

 ため息が漏れた。どうやら、チャットの中身は見られていなくてよかった。

 最後にあおいが言ったことが気になるが、早く下に降りた方がいいか。

 続きはご飯を食べた後に見ることにする。


「いさなか。久しぶりだな」

 食卓には、父さんが席に着いていた。なんだか元気がないように見える。

 顔色には申し合わせたかのようにしわが深く、眼鏡の奥からは神経の疲労からか黄色く濁った瞳で潤いを感じられなった。

「父さん。今日は家に帰れたんだね」

「ああ。とは言っても、一時的に帰らせてもらっているだけだ」

「一時的?」

「お前もニュースを見ただろう。今、D地区でスラム街の連中が暴動を起こしたおかげで、俺たちC地区の区役所でも暴動に備えた避難計画や警官隊との調整なんかで忙しい」

「......D地区の暴動」

 唾を飲む不自然な音が体の中から聞こえる。

「そんなわけで、一時の気休めとして帰宅させてもらっただけなんだ。だから、明日の朝にはすぐ仕事に行かなければならない」

 父さんの硬い口から少しため息が漏れた。

「いさな! ご飯運ぶの手伝って」

「あ、わかったよ」

 台所からお母さんは茶碗にご飯をよそい、僕はそれを食卓に運んだ。それから、豆腐と茹でだ小松菜が少し入った味噌汁に、納豆を付けてものを3人分並べる。

 今日の夕飯は少し贅沢になっていた。いつもは、お米と簡易的なレトルト食品だけだ。納豆は付けられないし、小松菜などの野菜も滅多に手に入らない。欲を言えば、僕は肉が食べたかったけど、それは年に一度食べれるかどうかの嗜好品だった。

 僕と母さんも席に着くと、目を閉じて静かに待つ。父さんはそれぞれの手を握って食事前のお祈りを捧げる。

「......admin様。私たちの心と身体の糧として、今日も食事にありつけることを感謝します。イクジット」

「「......イクジット」」

 その後は、箸と食器が重なる音だけが小さなリビングに響く。僕たちはしばらく黙って料理を口の中へと運ぶ。

 お茶碗から残り一口分のお米を食べ終えた頃に、僕は思い切ってあることを聞いてみた。

 いつの間にか当たり前だと思っていたこと。

 でも考えれば、なぜそうなっているのか今まで教えてくれなかったことを。

「ねえ、お父さん」

「ん? どうした?」

「どうして、壁の外に出ていっちゃダメなの?」

「......まさか、お前外に出たいわけじゃないよな?」

「い、いや。ただ、なんとなく聞いてみただけだから.....」

 先ほどまでの満腹によって満たされた暖かな雰囲気から、一瞬にして凍つくような暗く冷たい空気へと切り変わったのを感じる。

 母さんも箸にお米をつかんだまま、目を丸くして僕のことを見ている。

 父さんは僕の両肩を強くつかみ、視線を合わせるように腰を低くし鈍く重たい声でゆっくりと話す。

「......いいか、いさな。 D地区の連中を見ただろう?」

「D地区? ニュースでなら見たけど」

「やつらは壁の外へ出ようとした罪でD地区へと幽閉されたんだ」

「幽閉? 罪?」

 幽閉とはどういう意味なのだろうか。確かに暴動を起こした人たちは警官隊に捕まってもおかしくはないが、それでも父さんの言っている意味が分からない。

 そもそも、どうしてD地区の人たちが出てくる。

「D地区で、なぜ定期的に暴動が起こるか知っているか?」

「......いや知らない。どうしてなの?」

「D地区の人間は感情を奪われるんだ」

「奪われる? 感情を? それって、どういうこと......」

「あなたっ! これ以上は聞こえてしまうわ」

 話の筋が見えてこない。なんの話をしているのか。

 それに、母さんは何かに怯えるかのように周囲を見渡し始める。

「......ああ、分かってる。とにかくだ、いさな。壁の外に出ようなどとバカなことを考えるんじゃない。お前がこうして飯が食えるのはadmin様のおかげだ。そのadmin様に直接奉仕できる職として俺が公務員になっているおかげでもある。だから、お前は余計なことを考えず、しっかりと勉強をして公務員を目指すんだぞ! そうすれば、父さんも母さんも安心できるし、お前も幸せに生きていける。いいな......いさな

!」

「......うん。わかった」


 D地区の人間は感情を失っている。父さんの言葉が頭に何度もよぎりながら自分の部屋に戻る。

 ベッドへとそのまま横になりながら、ぼんやりとただ白く黄ばんだ天井を眺める。

「......明日、どうすればいいんだ」

 僕の頭の中も白く黄ばんだ天井のように、白くもやっとしていて、どうしたらいいか答えが思いつけない。

 いや、本当はどうしたらいいか答えはわかっている気がする。

 ただ、考えたくないだけだ。その先の未来を。

 どうすればいい。


 ピコン、と通知音が鳴る。

 ヘンテコなアイコンがノートPCの画面に映る。

『間が空いちゃったけど、何かあった?』

『ただ夕飯を食べてただけだよ』

『そっか。ならよかった。......あの、もちろんいさなに無茶を言っているのはわかっているから』

『いや、本当に大丈夫だよ! それより、って.....』

『さっきの......ああ、覚えていないのならいいよ。だいぶ昔のことだから』

『昔のこと?』

『そう。でも気になるなら明日会った時に話すよ』

 明日会った時。

 左右の手足を引っ張られ、胴体を引きちぎられるかのように、僕の心の中は分裂しようとしている。

『じゃあ、明日ね。今日はゆっくり寝てね』

『うん。あおいも』

 あおいがオフラインになるのが分かると、画面をロックしてノートPCを閉じた。


「おはよう! いさな」

「あはよう。......母さん」

9夜更かしでもしたのかしら?」

「......いや。ただ、起きれなかっただけ」

「そう。机にご飯置いてあるから」

「......ありがとう」

 僕は行かなかった。

 あおいとの約束を、僕は破った。

 

 その後、あおいとは連絡が取れなくなった。

 チャットは無視されているのか、既読はつかない。オンラインになった形跡も金曜日のままだった。

 顔も話もしたくはないのはわかっている。きっと裏切られて怒っているに違いない。

 せめて姿だけ.....無事なのかどうかだけでも確認したかった。

 でも、それも叶わなかった。

 あおいはもう学校にすら姿を現さなかった。

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